第1話 傷
私達は小学生の頃からの仲だった。
『だった』という表現は高校生以降は進路も違い、特別会うこともなくなったから。
それと現在は、当時、想定すらしていなかった間柄になっているから。
この2つの事由から来る表現である。
「とってもお似合いです。奥様。」
鏡越しにかけられた声に我に返る。
鏡に映った私はあまり趣味ではない服の試着をしている。
見れば見るほど自分には似合わないとげんなりする。
お世辞にも豊満とは言えない胸部が強調される服。
袖を通してみようかな、なんて眺めていたら試着を薦められるも想像通りの結果。
ごらんの有様だよ…、と心の中で1人ごちる。
ニコニコしながらこちらを見てくる女性店員に視線を戻し、
少しだけ微笑み、お世辞とわかりつつもお礼の言葉を告げる。
視線を反対に飛ばすと渋い顔をしながらこちらを見る男性が目に入る。
店に置かれた長椅子に腰掛け、足を組み口元に手を当て退屈な表情で見てくる。
「何か?」
その視線の元に業を煮やして問いかけると、彼はひとつため息をつきつつ、
「いや、心底似合わないと思って。」
と暴力的なまでに鋭い評価の言葉を投げかける。
その言葉に隣の店員が口をあんぐりと開けて立ち尽くすのは想定の範囲内。
気の毒に、と多少の同情心が芽生える。
「あら、言うほどひどい?着てみたらそうでもないかと思ったのだけれど」
「客観的意見を述べたに過ぎない。」
「オブラートに包んでくれてもいいんじゃない?」
彼の言い方に多少の怒りを覚えつつ、無意識に腕を組む。
腕を組むのは深層心理学でいう身を守る動作だと何かの本で読んだ。
だがそんな私の動作もお構い無しに彼は足を組み直し言葉を続ける。
「自分でもそう思ってるんじゃないか。」
そう言ってため息をついて視線を外す。
鏡越しの言い合いなんて毎度のことと思いつつも、これまでの事を思い返す。
この前はアクセサリー屋、
その前はメガネ屋と立て続けに買い物に来たがうまくいっていない。
その都度、店員が涙目になって「またのご来店を」と釈然としない顔で頭を垂れるのだ。
店から出ると、
少しばかり日差しが眩しく感じた。
太陽は傾き始めていたが上着のいらない陽気。
その陽気に照らし出されて彼は
「喉が乾いたな。」
とつぶやく。
そう言ってずんずん歩いていってしまう背を眺めつつため息をついた。
私達は1ヶ月前から世間一般で言う夫婦と言う関係になった。
このやり取りを見て察した人もいると思うが仲はすこぶる良くない。
冒頭で述べたとおり私たちは小学校からの仲。
その頃からの同級生同士が結婚するということは
よほど仲のいい間柄だと思うだろうが、
私たちの関係は全くといって良いほど違う。
実に合理的で利益重視の婚姻。
何故このような関係になったか、順を追って説明する。
私は幼い頃から母子家庭で育ってきた。
そんな女手一つで育ててくれた母がつい数ヶ月前、持病が悪化し救急搬送。
運びこまれた病院で母の容体が深刻だった事がわかり、
担当医師に受けた説明通り先進医療を受けさせることを決意。
しかしその治療費は莫大でとても支払えるような余裕はなかった。
どう計算しても一生かかる返済額に頭を抱えていたところ、
母の担当医から思いがけない提案を受けた。
『私の甥っ子と結婚してくれたら治療費の一部を工面する』
そう言われて私の前に現れたのが彼、武川翔真。その人だった。
学生当時から別段仲が良かったわけではない。
高校の卒業を機にほとんど会うこともなくなっていたが、
なんの因果か社会人になってから数年後、偶然の再開を果たした。
それからたまに食事に行く関係になったものの
この関係がこれ以上発展するなんて夢にも思っていなかった。
しかし25歳のクリスマス、
私は不意に彼の優しさにほだされ恋心を抱いてしまう。
でも私の中で彼を異性として意識する以上にただの幼馴染だという考えが根強く思考を支配した。
結果程なくして一方的な別れを突きつけることとなったが、
彼は怒りもせず私の申し出を受け入れた。
ああ…彼も同じような気持ちだったのかな、
と少しだけ悲しみが、一方的にフった罪悪感を塗りつぶしてくれたのを覚えている。
それから数年、連絡すら取り合っていなかった彼との再開が、
まさか金銭目的の“お見合い”とは思いもよらなかった。
再開した時は酷いもので、
顔を見るなり
「帰る。」
と彼は席を立った。
だが仲を取り持ってくれた母の担当医で彼の叔父の説得もあり、
話をする機会を与えられ…今に至る。
結婚という関係を結んでからは仕事が休みの週末のみ通い妻のような形で彼の家を訪れているが
未だに一緒に住むことはなく、
普段は私1人、母と住んでいた家で生活をしている。
いくら工面を受けたといえど、
母の治療費はまだかなりの額残っているため贅沢など出来ない。
皆が憧れる結婚式をあげることはなく、
また周囲に結婚の報告もせず婚姻届だけ提出。
そう、私達は役所への届け出上結婚しているということになっている仮面夫婦だ。
今日も特別出かけたいと思っていたわけではなかったが、
忙しい毎日の中で偶然休みが被ったので出かけた、といった流れだ。
蒸し暑さを感じつつもお日柄の良い絶好のお散歩日和、
彼は目的のカフェにたどり着くと
「おい、何か飲むか。」
と不躾に声をかけてくるので、天気とは正反対に私は気分を曇らした。
前はこんな横柄な態度を取るような人じゃなかったのに、
と思いながらもその原因がかつて一方的に別れを告げた私にあると思うと、
強くは注意できなかった。
そんな気持ちからもつっけんどんに
「なんでもいい。」
と答えてしまうのは私の直さなきゃいけないクセだと自覚している。
そんな事を考えつつ店先に並んだタンブラーやカップなどの商品を眺めていると…
「ねぇお姉さん1人?」
「すげー雰囲気良いなと思って声かけさせてもらいましたぁ、
てかめっちゃ美人じゃない?」
20代前半ぐらいの男性が2人。
胸元のだらしない白いシャツに腰までの長さの黒のカーディガンを羽織った男と、ゴツゴツして先の尖った靴に黒のスーツというキャッチみたいな格好の男2人組。
こんな絵に描いたようなナンパ2人組が老若男女が行き交うショッピングエリアを
我が物顔で歩いていると思うと気が滅入った。
「すいません、人を待ってるんで。」
近づいてきた白いシャツの男から背を向け距離を取ろうとするが、
もう1人のスーツの男に回り込まれて肩を掴まれる。
ずいぶん強引だな、と多少驚きつつ引きはがそうとするも白いシャツの男が間を詰める気配に振り向く。
「つれないこというなよ。せっかく声かけたんだからさ」
「一杯お茶するだけだから、ね?」
年頃の女がナンパされるのなんて慣れっこ。
そのあしらい方も自然と身につく。
女というのは男が思うよりも街中で声をかけられているものだ。
「…あのねぇ」
と今回も今までやってきた通りあしらおうと向き直った瞬間、
こちらを見る男が目に入った。
「翔真…」
とポツリと声が漏れる。
こちらを見てきていたのは他ならぬ結婚相手。
悠長に買った飲み物が入った紙コップに口をつけている。
私の様子に気がついた男2人がお互いを見合った後、彼に視線を向ける。
「何見てんだ。」
そう黒スーツの男は翔真に凄みをきかせつつ言い放つ。
当の本人は凄まれてもどこ吹く風といった具合にカップから口を離すと、
「ん?いや、どうぞ続けて。」
と気の無い返事。
その翔真の答えに呆気にとられたのは私だけじゃなかったようで、
ナンパ男2人組は半笑いになりながら、
「あんたの連れなんじゃないの?」
「見せもんじゃないんだけど、あっち行っててくんないかな?おっさん。」
と次々に彼に言葉を浴びせた。
私からすれば手ぬるさすら感じる彼への2人の言葉に何故か「もっと言ってくんないかな」と内心1人ごちる。
だが、29歳でおっさんとは翔真も言われたものだ。
特段若くは見えないが実年齢に比べて若く見えると周囲は彼の事を評する。
察するにナンパ男達からすればおっさんと呼ばれた人物と同い年の私もさながらおばさんに当たるのだろうと余計なことに考えを巡らす。
「そうか…じゃあ終わったら連絡くれ。」
と言って翔真は踵を返して歩いていこうとするので、私は慌てて
「ちょ、ちょっと待ちなさいって…!」
そう言って無理やり2人組の間から抜け出そうとする。
が直後、尖った靴を履いた男の足に引っかかりつんのめってコンクリートの道路に転倒する。
咄嗟に手をついたので顔から地面に突っ伏すことはなかったがジワリと手の平と膝小僧から痛みが伝わってくる。
「あはは!だっさ!」
「大丈夫?そんな慌てて追いかけようとするから…」
2人組が殊更楽しそうに笑うのが目に入ったかと思うと、
すぐに2人の視線が私の背後に移動した事に気付く。
その原因は先ほど踵を返して歩いて行こうとした薄情な男がいつの間にか私のすぐ側に寄ってきていたから。
私も多少なりとも驚いたが、それ以上に気になったのは手に握られた買ったばかりの熱そうなコーヒー。
何故コーヒーとわかったかというと、先ほどはついていたはずのカップの蓋が開け放たれており、嗅ぎ慣れたコーヒーの匂いが鼻腔を通って私の感覚器官を刺激していたから、などと冷静に分析していると、背後から
「何か用…」
2人組の片割れの尖った靴を履いた全身黒ずくめの男が何か言いかけた瞬間、
黒い液体が男の顔めがけて飛んで行くのが目に入る。
さながら映画のスローモーションのごとく飛び散る黒い飛沫が男性の不意を完全に突いてふりかかった。
「ぎゃぁぁぁぁ!あっっつい!」
彼は慌てて顔にかかった黒い液体を拭おうと手で顔を覆い悲鳴をあげる。
その叫び声に周囲の人間の視線が降り注ぐ。
顔に手をあてのたうち回る男を尻目にもう1人のナンパ男は動転して口をパクパクとしていた。
「立てるか。」
私にかけられたその声にハッとなって声のした方にふり向くと翔真が涼しい顔で私に手を差し述べていた。
見るともう片方の手には中身が空っぽになったカップ。
ナンパ男を襲った黒い液体は彼の持っていた熱々のコーヒーだった。
「な、何してるのよ!」
と私は声を張り上げるも特に動じないといった様子で、
「見て分からなかったのか。コーヒーをご馳走してあげたんだが…。」
と何故か残念そうに眉をハの字にしつつ私の手を取り、立ち上がらせる。
立ち上がると私の淡いエメラルドグリーンのスカートの膝部分が
汚れていることに気付く。
「お、お前何したかわかってんだろうな!警察呼ぶぞ警察!」
その声が先ほどのコーヒーをかけられなかった方のナンパ男の物だとすぐわかる。
振り向くと顔を真っ赤にして被害を受けた男性の肩を支えていた。
(これはヤバい…)
「あ、いやこれは…」
と私が取り繕おうとするが次の瞬間、翔真にグイッと腕を引き寄せられバランスを崩す。
そのまま彼の体に凭れかかると、端正な顔が視界の大部分を占めた。
彼の視線はナンパ男2人組を捉えたまま、口元は何故か不敵に微笑んでいた。
さながら獲物を逃さないサバンナのライオンのごとく。
確か笑顔は人間が野生動物の頃の威嚇衝動の名残だとテレビで観たのを思い出していた。
すると彼はスマートフォンを構え、
「いい顔じゃないか」
とつぶやき当然のごとくシャッターを切り始める。
人通りの多い昼下がり、雑踏の中にも関わらずシャッター音が嫌に鳴り響く。
「な!何してやが…」
ナンパ男が声を張り上げようとした瞬間、
周囲のギャラリーも一様にスマートフォンをかかげ、
彼らの写真を取り始めた。
クスクス笑いながらスマートフォンを構えるもの、
不審な顔をしながらシャッターを切るもの、
また電話しながらこちらをチラチラ見てくるもの…。
この異様な空間の中の中心人物は間違いなく私たちだったが、
ほとんどの人の視線は私達ではなく彼らに向けられていた。
「と、撮るな!見るな、おい!」
ナンパ男は顔を真っ赤にして、
自身に降り注ぐ周囲からの視線を手で振り払おうと腕を振り回すもシャッターは一向に止まなかった。
この一見不気味な状況にその男は真っ赤にしていた顔からいよいよ火が噴き出しそうな程、より一層赤面し、踵を返して一目散に走って去っていった。
コーヒーをかけられた男性もやっと目を開けることができたのか「お、おい、待て」と顔を隠しながらヨタヨタと後を追うように無様に走って行く。
その様子を私はまるで他人事のように眺めていると、
またもや翔真が腕を力強く引っ張り
「逃げるぞ。」
と耳元で呟かれ彼にされるがまま歩き出す。
走って逃げるんじゃなくて歩くの…?と疑問を抱きつつも付いて歩く。その答えはすぐにわかった。
すぐそばの大通りに出たところで、翔真はタクシーを捕まえ私を押し込み、適当な目的地を運転手に告げると車は走り出した。
少し走った所で思考が整理できた私は慌てて
「ちょ、ちょっと何したかわかってるの!?」
と声を張り上げた。
私の声にも特に動じた様子もなく「は?」と顔を向けてくる。
「傷害罪だよ!?相手に火傷負わせて…」
切羽詰まった声に運転手がバックミラーごしにチラチラ見てこちらの様子を伺っている。
「なんだ知り合いだったのか?」
翔真はそう言うと何やら自分のポケットをゴソゴソと探っている。
「いや、別に知り合いじゃないけど…」
「じゃあ問題ないな。」
何がどう問題じゃないのか説明してくれ!と怒鳴ろうとしたが淡々としている彼の様子に呆気にとられる。
そんな私の事をお構い無しに今度はスカートの裾を掴んでめくりあげる。
咄嗟に手で抑えてパンツが見えそうになるのを阻止し、
「ちょ、正気!?何するのよ!」
と喚いた。
しかし彼は
「うるさいんだけど。」
と、さも私がおかしいかのような渋い顔を作る。
だが直後の行動に彼が何をしようとしていたか理解する。
見るとさっき転んだ時すりむいたのだろう、膝に血がにじんでいた。
その情景が目に映ると途端に鋭い痛みが走った。
(さっき走って逃げなかったのは、これに気付いてて…)
そんなことを考えていると彼はティッシュで傷口を優しく抑える。
白いちり紙にジワリと血が滲んだ。
「痛くないか。」
「だ、大丈夫よ…これぐらい。」
少しの辛抱だ、と真剣な眼差しを向けられ、見ていられずそっぽを向く。
何よりも彼の声音がこれまでとは打って変わって優しい物になっていた。
コーヒーをかけられなかったナンパ男程ではないにしろ、頬に朱が指す。
さっきまでの私の必死な訴えかけなど意に介していないといった所がなんともやりきれないが、今回は彼に助けてもらったのは間違いない…。
「せっかく似合ってるスカートなのに汚してくれやがって…」
彼はそう言って今度は私のスカートについた汚れを見やる。
「こ、こうなる前に助けてくれればよかったじゃない…」
素直じゃない自分の言葉に少しだけ心がチクッとした。
その私の言葉にスカートの汚れから視線を外しむくれる私の顔を見ると少しだけ口の端を吊り上げる。
「無闇に助けたらお前の自尊心を傷つけかねないと思ったんでな。」
悪かった、と告げ、頭を撫でられる。
その行動に頬に指した朱がますます増す。
「…なによ。」
聞こえるか聞こえないかぐらいの声の大きさでつぶやく。
窓の外を見やると流れる景色は皆一様に西日に照らされて眩しい程に反射していた。
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