武川夫妻の不都合な関係

@poesia_cancello

プロローグ

目を開けると薄暗闇の広がる自室の天井が視界に入る。

ジットリと汗ばんで肌に張り付いた寝巻きが気持ち悪い。

虚ろな視線をカーテンの外に飛ばすも、

外がまだ暗い事に気付き、

ゲンナリした気持ちになった。


ウェイトリフティングをした後のように

重い腕を額に当てる。


ジワリと手のひらと額に水気が満ちるのを感じる。

ひどい夢を見ると決まってこうなる。


鬱陶しい布団をめくりノソリと上半身を起こす。

途端に側頭部にカナヅチで叩かれたかのような鈍痛が走る。


(…飲みすぎた。)


最悪のコンディションのまま競技に出場する選手の如く

気持ちを奮い立たせ布団から腰を浮かす。


戦国時代の牛歩戦術の如き

歩みで台所に向かい冷蔵庫から浄水機能付きの

ピッチャーを取り出す。

喉が鼓動を打つほどの勢いで冷たい水を飲み干すと

思考はクリアになっていった。


昨晩は飲みすぎた。

誤解の無いように言っておくと

決して一部のアラサーのような暴飲習慣があるわけではない。


飲まずにはやってられない、という挫折を

人生で初めて味わったからだ。


椅子に座る事もせず台所に腰を下ろす。

気づかないうちに履いていたズボンを脱いでいたため

パンツ越しに臀部からフローリングの床のヒンヤリとした感覚が伝わってくる。


プライベートスプーンズクラブのパジャマ。

長年愛用しているが決して大切にしているわけではない。

以前付き合っていた男性から贈られた物。

その人はバレエ教室の同期に紹介してもらったとあるベンチャー企業の役員。

その男の顔は思い出せても名前が出てこない。


幼い頃からバレエ一筋で、

色恋沙汰はどこ吹く風のティーンエイジャーだった。


そして訪れた人生最初の失恋は二十歳の時。

その男は結婚していた事を黙ったまま私と関係を持った。


その次は二十二歳の時。

その男も結婚していたが離婚する事を私と母に約束した。

…したものの離婚などできずズルズルと愛人のような関係が続いた。

その男はアクセサリーを売るほどくれた。

彼は顔も名前を思い出せない。


誤解のないように言っておくが、

決しておねだいが上手だったり、

流行りのパパ活女子というわけではない。

私が好きになる男性は総じて結婚している。

いわゆる魅力的な男性という者には既に決まった相手がいるのだ。


そして今、付き合って3年になる男性も

結婚はしていないがおそらく婚約者はいる。

『おそらく』というのは想像ではなくある程度目星がついている。

私が通っているバレエ教室の男性ダンサー。

プリンシパルも務める優秀な人だが、

その実、

貞操観念は低くありとあらゆる女性ダンサーに手を出しているとの噂が

後を絶たなかった。

その1人がフィアンセで、私も所属していたバレエ団で良く知っている人。

1年前、私と彼との関係が噂された際に

いつの間にか私だけバレエ団を退団させられていた。


彼は落ち込む私を抱き寄せ耳元で『彼女には逆らえない』と告げられたのは

衝撃だった。


結果、私に残ったのは病弱な母とバレエ教室の講師という肩書き。

母のススメで知り合いの服飾デザイナーの元でも働かせてもらってはいるが、

休まず働いても大卒初任給にすら遠く及ばない月収で生活をしている。


これまで付き合った男性は未だに連絡がくる。

食事をして、その後ホテルに行く事もあるが、

最近は減ってきた。

私としてもそういった関係は億劫なためないに越した事はないが

きっと彼らは私よりも若い都合の良い人を見つけて

関係を持っているに違いない。

そう思うとやりきれない思いが心を蝕んだ。


ある時、『人の物ばかり欲しがる業突く張り』と母に言われ

大げんかになったことがある。

あれから母とは口をきく機会は減った。

『死んでしまえ』と心でつぶやく回数が増えた。

抜け毛も増えて目の下のクマが消えなくなった。


それでもかろうじて立って入られたのは、

会いに来てくれる男がいたから。


いつの間にか愛されていると実感するよりも

愛していると相手に伝える回数の方が増えた。



そんな日々が半年ほど続いたある冬の日。

その日は朝から冷たい雨が降っていた。

嫌な予感がしつつも出勤する途中、

以前、講演で怪我した足首の痛みが再発し

踵を返して出勤途中にも関わらず帰宅した。


家に着くといないはずの人の気配がした。

母は朝出かけていったはず、と不安を抱えつつも

慎重に部屋の中を進む。

居間の戸を開けて飛び込んできた部屋の中の様子に

一瞬で血の気が引く。


「ママ!」


帰宅した母は仕事着のまま倒れていた。

直後呼んだ記憶がないのに救急車が到着したのは

私が母に駆け寄ってから数分後。

朦朧とする意識の中、母は自力で救急車を呼んだのだと

駆けつけた救急隊員に説明された。

母は私にではなく救急にまず最初に連絡をしていた事を知り、

心の奥に刺さったトゲが少しだけ深くなった気がした。


母が手術室から出てきたのは夜11時前。

近くの大学病院に運び込まれた母の容体は

かろうじて一命を取り留めているに過ぎず、

より高度で専門的な治療を受けないと余命宣告せざるを得ないと

深刻そうな顔をした60代の男性医師に告げられた。

病床に横たわる50を過ぎて老いが顔に現れた母を見つめながら

これからどうしたら良いかを考えても、

出てくるのはこれまで付き合った男性たちに

頼ってどうにかしてもらう事しか思い浮かばず、

どうしてこんなにも私は無力なのか、

その考えに至るのに時間はかからなかった。


翌朝、母が目覚める前に執刀を担当した医師と看護師が

病室を訪れ、私にある提案をしていった。


それは群馬県にある、とある大学病院の先生であれば

母の病気を根治できる可能性があるというものだった。

ただ…と医師たちが言い淀んだのは、その治療費だった。

先進医療であるため莫大な治療費が嵩む。

その金額は到底、私達の蓄えや働きで支払えるような物ではなかった。


長い沈黙の後、私は即断せず

母と相談させてくださいと伝えた。

その数時間後、母は無事目覚めた。

本来であれば両手をあげて喜ぶ所だが、

こういう時に限って私は変に冷静で落ち着き払った口調で話せる。

母も自分の身に何が起きたか、おおよそ検討がついていたようで

すぐに医師達が提案してきた内容を伝えると黙考し、

静寂が病室の空気を支配した。

この決断が、

私たち親子の一生を決める事になると母はこの時、

察していたのかもしれない。


夜が更け、

院内が消灯時間を迎える頃、

一度家に帰る事を母に告げると

いつもの気丈な母とは違い、

慈愛に満ちた笑顔を讃え、

静かに頷く姿を私は家に帰った後も

思い返していた。


翌朝、充電が切れていた携帯をつけると着信が2件。

一つは事情を伝えていたバレエ教室の代表の講師から心配の連絡。

もう一つは彼から。

私はバレエ教室に一報入れたが、彼の着信は無視した。


病院に到着すると天井の高いロビーで

背の高い白衣の男が目に入った。

私に気付くとこちらに近寄ってきて軽く挨拶を交わす。

どうやら母の執刀を担当した医師だったそうだ。

見た目は20代後半か30代前半に見える聡明で清潔感のある男性だった。

母の具合を訪ねてきたので目覚めた後に他愛ない会話の内容や様子などを伝え、

彼は深くまぶたを閉じて熟考する。

少しばかりの沈黙の後、慎重に口を開いた。

「長野さんのお母様を救えるかもしれない手段を持っている者が、

私の知り合いにいます。差し支えなければ紹介いたします。」

母を心配してくれる好青年の医師に多少なりとも感情が高ぶる。

極力気持ちを抑えつつも、その言葉に、

「私は、母を、助けたいです」

と返す。

その医師は朗らかに歯を見せて笑うと「わかりました」と告げ

一礼すると踵を返して歩いて行った。


その自信に満ち溢れた背を見とれつつも、

(…私にできる事ならなんでもする。たった1人の肉親なのだから。)

と自分の心に誓うように唱えた。


病室を訪ね医師より話された事を伝えると

母は悲しさと嬉しさをない交ぜにしたような表情になり

瞳を潤ませながら背を丸めてお礼を言われた。

なぜその時母がそのような表情をしたのか、

後になって知る事になるが、

その事が後々まで私の決意を揺るがぬものにさせることとなる。


あの聡明な男性医師が話した通り、

転院の手配は滞りなく進み、

母が倒れてからわずか1週間で群馬にある大学病院へと移った。


短時間ではあったものの家で必要なもの一式を包む。

こういう時ばかりは自分の要領の良さに我ながら感心する。


転院先の病院は東京と同等とまでは言わないにしろ設備も整った綺麗な病院だった。

だが紹介された医師は中肉中背で野暮ったい印象のメガネをかけた黒髪の男。

母の執刀を担当した東京のあの医師とは全く違う印象を抱き、

同じ医師でもこうも違うものなのだな、と少しばかり医師という職業に幻滅した。

「武川雅仁(タケカワ マサヒト)です。よろしくお願いします。」

猫背気味の医師はそう自己紹介するとメガネを直しつつ頭を垂れる。

母と私はその男を前にして顔を見合わせた。

「武川ですって」

といたずらっ子のように少しだけ口の端を曲げて笑った。

最初何のことを言っているのかわからず思案顔を作るも、

すぐに母の意図がわかり素っ気ない顔を作る。

「やめてよ…別に珍しい名前でもないでしょ」


母の病室で荷ほどきをしながら少しだけ当時の事を思い出していた。

そう、私の過去の恋愛の中で唯一、顔と名前を忘れていない人物がいる。

武川翔真(タケカワ ショウマ)、

小中高の同級生にして二十六歳の時、半年ほど付き合っていた。


きっかけは思い返せば単純な話。

かねてから彼が私に好意を寄せているのは気づいてた。

それも十年以上。


同じ学校ということで父兄参観の折、彼の親と会うこともあった。

彼の母は美人でスタイルが良く元キャビンアテンダント。

快活で歯に衣着せぬ物言いの多い人だが、

どこか育ちの良さから来る品があり、

私の母親とも意気投合するのに時間はかからなかった。


私もそんな彼の母の事が好きだったし、

彼自身の事も嫌いではなかった。

でも当時、異性として見ていたかというと難しい。

年頃の女子とはそういう生き物なのだ。

自分に向けられる好意より

自分が思いを向けている相手を追いかけたいという衝動の方が、

私の意思決定に強く働きかけられていたのだ。


成人してからは時たま私のバレエ講演を観に来てくれた。

それがきっかけでたまに食事に行く事もあったが、

一年に1回というペースでお互いの関係が発展するとは思えない距離感だった。

だが、たまたま二十五歳の時に迎えたクリスマスに

精神的に弱っていた私の手を引いて立ち上がらせてくれ、

不覚にも恋心めいた感覚に陥り、

十年以上発展しなかった関係がその時初めて展開を見せた。


それまで学生の頃のヒョロッとした体型と少し中性的で気弱そうな顔立ちが、

いつの間にか頼れる大人の男性になっていたことにその時気づいた。


彼との写真を見た友人たちが

彼のことを「イケメン」であると口々に話す様子を見て

見る人によっては印象は違うものだと思うと同時に悪い気はしなかった。


それでも別れたのは、私が彼のまっすぐな思いを受け止められなかったから。

なんでも出来る彼、なんでもしてくれる彼と関係を続ければ続けるほど、

『自分が本当は何もできない惨めな存在』である事を自身に思い知らしめる

悪しき存在なのだと思い込むようになるのに時間はかからなかった。


彼に会うのも辛くなっていた私は一方的にメールで関係を終わらせようと試みた。

それに、会えば決心が揺らぐかもしれないという、

私なりのリスクマネジメントでもあった。


別れの長文を送ってからは落ち着かない時間は続いた。

仕事も集中できず、胃がキリキリと痛む。

私がどれだけひどい事をしているのか、考えると気持ち悪くなった。

半日たった頃、携帯がかすかに光った。

恐る恐る手にとって開いたメッセージには

「わかった。今までありがとう。幸せを祈ってる。」のたった三言。

まるでテーブルの上で置きっぱなしのカピカピに乾燥した漬物のような三言が

後々まで私の脳裏に焼きついたのは言うまでもない。


荷ほどきを終え転院初日は大事をとって母は早めに休むことになり、

私も近くのビジネスホテルに泊まった。

部屋のベットで横たわると思っていたよりも疲労していた事に気づく。

目を瞑るとすぐに眠りに落ちたのだった。


その日の夢を私は決して忘れる事はないだろう。

二十五歳の誕生日のあの日、翔真からもらった、

私が大好きな淡いエメラルドグリーン色をした銀糸の編み込まれたスカーフ。

それを必死に探し部屋の奥底から見つけて手にとると、

ホッと胸をなでおろす私を、私は端から眺めていた。

まるで恥ずかしい過去を掘り出されたような気持ち、

甘酸っぱい思いが去来するとともに目が覚めた。


ホテルを出た頃には太陽は中天に差し掛かる。

チェックアウト時間を多少過ぎていたがホテルのフロントマンは

快く送り出してくれた。


多少急ぎ足で病院へ向かうと病室には昨日挨拶した医師が

数人の看護師たちとともに母の病床のそばに立っていた。

野暮ったいのは昨日だけといったわけではなく通常運転らしい。

ノソリと振り向いたと思うと私に軽く会釈する。

「こんにちは。」

「あ、どうも。」

その私の声に気づいた母が身を乗り出すように顔をのぞかせる。

「薫、遅かったじゃない」

これまでの母とは打って変わって声のトーンが一段階上がっていたため驚いた。

転院の効果がもう現れたのか、群馬という地の空気がそうさせたのか。

母のテンションに気圧されながら答える。

「どうしたの。ずいぶん元気に…」

「やっぱり武川先生、翔真ちゃんの叔父さんだって!」

母のセリフを理解するのに時間がかかった。

いや、本当は時間がかかったふりをしなくてはならない気がした。

心のどこかで最初に「武川」の名前を聞いた時から脳裏によぎっていた翔真の存在。

「…どういうこと。」

「翔真は僕の姉、厳密に言うと腹違いの姉の息子ということなので…

彼は僕の甥っ子にあたります。」

「ですって!」

母のテンションは若干うざかったが、

それよりも淡々と説明する目の前の武川という男を恨めしく感じた。

「そ、そう。偶然ってあるもんですね。」

「そのはずなんですがね。

僕が見た感じ、娘さんはあまり驚いていない様子。」

手元で注射器の準備をしながら先ほどと何一つ変わらない口調で喋る。

「何?薫、知ってたの?」

「まさか!」

と自分でも声が上ずっているのがわかる。

「しょ、初対面です…」

今度は声がうわずらないよう努めて冷静に答える。

すると黒縁メガネの野暮ったい男は私の顔を覗き込む。

手には注射器が握られたままだった。

「先生!…注射器持ったままでは危ないですよ」

サポートする看護師が慌てた様子で私の目の前にいる医師を諌める。

「かおる…。あなたが長野かおるさんですか。」

「え、えぇ…そうですが。」

思わず漫画のように後ずさりしそうになりつつオズオズと答える。

注射器に驚いただけでなく彼の雰囲気が一瞬にして変わったからだ。

「…ふふふ。翔真くんが言っていた通りの人のようで。」

私は首を傾げるも気にせずその医師は続けた。

「もう何年も前になりますが、

翔真くんが当時付き合っていた女性のことを『とても美人で自分にはもったいない』と言っていたのが印象的で。

その時たしかあなたの名前を言っていたので、よかった思い出せました。」

「あら」

「…」

嬉々とした声をあげたのは母。

私はなぜか今朝見た夢の事を思い出していた。

それから私は世間話をするも居心地が悪く、

元気になりつつある母を置いて、そそくさと病室を後にし帰路につく。

道中、列車に揺られている際に母からひっきりなしにメッセージが届いた。

その全てが武川先生から聞いた翔真の話。

携帯を叩き割ろうかと思うぐらいしつこいので嫌気がさして途中で電源を切り、

流れる景色に目を移す。

図らずも翔真の話題で少しばかり元気になった母に思いを寄せると、

緊張の糸が多少なりとも緩み、ホッと胸を撫で下ろす。

私は夕日で染まる山々を眺めつつ翔真の事を思い出していた。


東京に戻ってから数日経つと

母からのメッセージに翔真の話は出てこなくなり

変わりに他愛ない世間話に花を咲かせた。

家族水入らずの会話を数年ぶりに交わした事に私は素直に嬉しかった。


週末、母のお見舞いに向かう日の前日、

『明日夜会えないか』というプリンシパルの彼から連絡があり、

即座に断りの連絡をする。

その時すでに彼への気持ちが切れていた事に気づいていたが

関係を断ち切ればどうなるかと思うと、

その事を告げるメッセージを打つ勇気は湧いてこなかった。


翌朝、前日買っておいた見舞いの品を持って群馬に向かう。

関東といえども多少距離はあるものだ、と感じながら

田畑の中央にそびえ立つ巨大な建造物に向かって歩いていく。

途中タクシーを使えば良かったと後悔するも、

母との時間が逃げるわけではないと思うと自然と足取りは軽かった。


病院についたのは昼12時前。

天井は高くないものの清潔感のある病院のロビーを歩いていると

長椅子に腰掛けて紙コップに口をつける武川医師の姿が目に入る。

向かいには彼を紹介した東京の聡明な男性医師がスーツ姿で座っていた。

「長野さん。」

私の姿に気付いた武川医師は立ち上がり会釈する。

向かいに座っていた聡明な男性医師も立ち上がり微笑みながら会釈する。

「ご無沙汰しています。

まずは何よりお母さんの容体がよくなったみたいで本当に良かった。」

この男に任せて間違いなかったでしょ、愛想はありませんがね、と横目で武川医師をチラ見する。

武川は特に気にしていないという様子で窓の外を眺めていた。

「今日僕が伺ったのは、他でもないお母様の件です。」

そう切り出し、「どうぞ、こちらへ」と応接室に案内される。

武川も一緒についてきていた。

少しだけ重苦しい空気が立ち込める。

「そんなに強張らないでください。これはあくまでご相談も兼ねたお話です。」

「石見(イワミ)…。」

そう呼ばれたスーツ姿の男性医師は、

「お母様の治療費の件です。」

と手を組みつつ私に告げた。

もしかしたら母の容体に関する悪いニュースだと覚悟していたため、

お金の件で内心ホッとした。

だがいずれ訪れるであろうと思っていた話がとうとうやってきたか、

と思うとお腹の下あたりにズシンと石が落ちてきたような感覚になる。

「莫大な医療費がかかる先進医療と言えども、もちろん保険で支払えます。

ただお母様は生命保険には加入していらっしゃいませんので、

今後の入院費などどうするかなどご相談させて頂けますか。まぁ…ですが…」

石見医師はそこで言いよどむ。ちらりと横に座った武川を見やる。

武川は変わらず涼しい顔でこちらを眺めていた。

「いくら…お支払いする事になるんでしょう。」

耐えきれず質問してしまう。

短気なのは父譲りだと、昔母に諭されたのをこの期に及んで思い出した。

「いや…「2500万です」

石見の躊躇した言葉を遮るように武川は告げた。

最初その金額がうまく耳で聞き取れなかったが、すぐに脳が理解した。

「…2500万。」

上の空のように復唱する。

「もちろん、すぐにとは言いません。

金融機関などに借りたり、家財道具を担保に入れたりなど手段はいくつでも…。」

石見は場の空気を取り繕うかのように思いつく限り金の無心の方法を列挙した。

私自身も2500万という莫大な金額を支払うために、

あらゆる手段について考えを巡らせる。

だがその全てがうまくいきそうな結末にならない。

仕事をさらに増やすか、消費者金融から借りるか…家財道具を売るか。

「例えばご離婚された前のご主人など…「それは無理でしょう。」

石見の言葉を遮ったのはまたもや武川だった。

驚いたように武川を見やる石見。

「長野様のお母様は前の旦那さんに頼る事はまずございません。

それはご息女である薫さんもおわかりでしょう。」

武川がいうように母は父をこの世の何よりも憎んでいる。

今回の自体でも最終手段にも入っていないだろう。

おそらく母が武川に何かしら話したに違いない。

沈黙の時間が流れ始める。

だがその沈黙を破ったのは他でもない武川だった。

「薫さん。金額についてはお母様にもお話させていただきました。」

「…!」

ガバッと顔をあげる。

それが母にどれだけの心労を与えるか、この医師がわからないはずないだろう、

と心のどこかで思っていたが、この男はそれを顧みず母に伝えたのか、

と内心舌打ちする。

「遅かれ早かれ知ることになります。

で、あれば元気なうちに話しておくことこそ肝要かと思いまして。

勝手を失礼しました。申し訳ありません。」

素直に深々頭を下げる武川。

その言い回しは淡々としていたが何か腹案があるような言い方に引っかかった。

「何か…あるんですか?」

私の運命を決定付ける質問を、

私はこの時自らしてしまったとすぐに思い知ることになる。

「これはあくまで提案です。」

同様な提案をお母様にもさせて頂きました、と武川は前置きした。

石見は黙って聞いているが、

武川がこれから話すことはあらかた知っているといった顔をしていた。

「薫さん。翔真くんとの関係を今一度考え直してもらえませんでしょうか。」

武川の口から発せられた言葉はしっかりと聞き取れた。

確かにしっかりと聞き取れたが何を言ってるのか皆目検討がつかなかった。

「は?」

素直な気持ちが脳を介さず口から飛び出ていた。

「ですから…」

と武川が言い直そうとしたところで石見が割って入った。

「薫さん、ここから先は僕から説明を…」

そういうと石見は順序立てて話し始めた。

「雅仁、まぁこの隣にいる野暮ったい男は結論から話してしまうくせがありまして…まずはそれを詫びさせて下さい。」

申し訳ない、と頭を垂れる石見。

「…いえ」

聞きたいのはそこじゃない、というかこの男がそういう男であることぐらいここ数日間で実感しているという言葉を飲み込む。

「この男が言いたいのは、薫さん、あなたが彼の、雅仁の甥っ子にあたる翔真くんとの関係を考え直してくれたらお母様の治療費である2500万のうち1000万を武川家が工面するという事です。」

関係を考えなおすというはそれなりの関係をお察しください、と石見は念を押す。

私は全ての話が終わるのを待とうと思った。

「病院上層部は治療費を到底支払えそうにない世帯の人間に病院の意向も伺わず先走って治療を施したという事をことさら問題視しています。

これに関しては長野さんに非があるわけではありません。

しかし事実2500万もの莫大な医療費を支払う能力はないと弊院専属の弁護士も考えております。であれば、親戚筋からお金を借りたり、金融機関などからお金を工面したりなどの方法で治療費を捻出するのがセオリーでしょう。

そういった案の中の一つに私たちの提案を含めて考えて頂きたいということです。」

「それは…政略結婚っていうことですか。」

いろいろ聞きたい事はあったが、

まず口をついて出たのは突拍子もない話に対する突拍子もない返し。

「そんな大層なもんじゃないです」

武川が即答する。含笑いで返されて多少気分を害した。

おい、と小さい声で石見がたしなめる。

武川はそんな石見を意に介さず、これは病院の総意ではなくあくまで僕たちからの一提案です、と前置きを繰り返しつつ、

「結論から考えれば早いですよ。結婚する相手の母親が莫大な治療費がかかる治療を受けている。しかしその一族郎等、どうにかする能力も頼る手だても持ち合わせていない。だとすれば自信の孫子の義理の母となる人物をみすみす見放す事はできない。だったら肩代わりするのがせめてもの心尽し、ということです。」

武川は背もたれにもたれかかったまま、まくしたてた。

言っている事は大変わかりやすかったが、頭の中はショート寸前だった。

「ちなみにいくらばかり工面して頂けるんですか?」

かろうじて出てきた言葉は結婚という事を想定して話し始めていた。

武川は顔の前で指一本を差し出し「1000万。」と告げる。

「では残りの1500万は…」

「それは2人で支払っていけばいいんじゃないかな。

翔真くんも働いてるわけだし。」

結婚そうそう借金背負ってるなんて考えたら気の毒ではあるけどね、

と口走ったところで石見は武川を手で制した。

足の上で握った拳を強く、強く力を込めた。

母に買ってもらったお気に入りの淡いエメラルドグリーン色のスカートにシワがよる。

「…母にも話したんですか。」

武川と石見は互いを見合い、

「お母様はあなたの幸せを願っていました。」

と石見が告げる。

俯いて目を閉じる。力強くギュッと目を閉じる。

(…何を勝手な事を!)

と心の中で母に舌打ちをする。

「…母と話させてください。」

顔をあげ2人に視線を投げかける。

私の表情を察した石見は神妙そうな顔で頷き、

反対に武川はにやりと口の端をあげた。


病室に入ると母はベットに腰掛けながら窓から見える外の様子を見ていた。

よく晴れており遠くに見える山もはっきりと見る事ができた。

病室に案内された際に看護師が名前を教えてくれた。確か榛名山。

近づくと、母はこちらに気付き顔を振る。

私は部屋に入った勢いの足取りのまま母の向かいにまで回りこみ、

右手を振り上げ母の顔めがけて振り抜いた。

室内にパチン!という音が響く。

石見は驚いた様子で目を見開いたが武川は破顔する。

母は顔を背けたまま叩かれた方の頬に手を添える。

部屋にいた看護師が慌ててかけよろうとしたが武川がそっと手で遮った。

振り抜いた右手の平にジンワリと伝わる反動を感じつつ目の前の母に告げる。

「…これで満足?」

自分が思った以上に声が震えていた。

「あなたの幸せを願ってのことよ。」

俯いたまま母はまるでうわ言のように唱える。

「そんなこといつ私が願ったのよ!?」

声の震えはより強くなる。

強風に揺れる窓ガラスのようにガタガタと喉が、

声を出す器官が私の意思に反して震え続ける。

だがそれが治る前に言葉は口をついて出てしまう。

目元から温かい物がこみ上げてくるのを抑えるために、

また震える声をごまかすために、

声を張り上げたかった。

「…お互い様よ。」

かすれるような声だったが確かに聞こえた。

その言葉を聞いてキッと睨みつける。

母はその視線に気づいたのかゆっくりと顔をあげる。

その目は気丈な母の顔ではなく慈愛に満ちた顔。

薄く笑みを浮かべている。

「あなただって私を助けてくれたじゃない。」

その言葉を聞いた途端、

頬に熱いものが伝うのがわかった。

堰を切ったように溢れ出てくる。

「あなたには本当の幸せを感じてほしい。」

そういうとそっと母は私の手をとる。

その手は枝のようにか細く、

向こう側が透けて見えるかのように色素は薄くなり

まるで死期を迎えた高齢者のそれと同じぐらい脆弱なものに、

変わり果てていた。

「あなたには本当の愛を知ってほしい。」

でもその手からじんわり温かさが伝わってくる。

「与えるばかりの愛じゃなくて、与えられる愛から逃げないで。

あなたにだって、それを受ける権利はあるのよ」

私の意思に反して涙は止めどなくあふれ、喉からは嗚咽があがる。

その音が母の言葉を遮ったが、

私には届いた。

確かに届いたのだ。


気づいたら母の膝の上で眠っていた。

目覚めたばかりの寝ぼけた頭で、

いつ以来だろうと思いを巡らす。

本当に、本当に小さい頃に体験したぬくもり。

父がいなくなってから感じる事がなくなったぬくもり。

母が体を壊すぐらい働かなくてはならなくなった頃から

感じなくなったぬくもり。

求めることすら敬遠される日々。

思えばあの頃から、私は…。

そう思って私は頭を振って巡らせた思いを中断させた。


病室を後にする際、母と交わした言葉は、

思いの外淡白なものだった。

人前で嗚咽交じりに泣きじゃくる姿を見られた手前、

今になって恥ずかしくなってきたのかもしれない。


帰りは石見が車で東京まで送ってくれることになった。

武川は最後の最後、東京についたらここを訪ねて、

と一枚の紙切れを渡された。

翔真に連絡するのもその後にした方がいい、

という言葉もそえて。


関越道を降りた頃にはすっかり日は落ちていた。

東京外環道から首都高速に入ると東京都心に帰ってきた事を実感する。

よく見知った都心。

ふと翔真と付き合っていた頃の事を思い出す。

よくレンタカーで東京ドライブに連れ出してくれて見た景色と似ていると思った。

だが当時は疲れ果て、その愛が鬱陶しく感じたこともあったと思うと、

少しだけため息を吐いた。


家の前まで送ってくれた石見に礼を告げる。

石見は

「全てが終わるまで、まだ礼は受け取れない」

と苦笑した。その顔は少しだけ疲れを感じさせた。

長距離のドライブにというより今日の出来事全てに対してため息をつきたい

といった感じだった。


私は誰もいない暗い家に入ると電気のスイッチをつけた。

(眩し…)

母の転院準備のためにひっくり返したタンスの棚からは下着などが

まるで泥棒でも入った後かのように散乱している。

腰を下ろし片付け始める。

何年も買い換えていないであろうくたびれたストッキングを手に取ると

今後の事に思いが巡る。

片付ける手をとめ、上着を羽織り表に出ると、肌寒い風が吹き付ける。

ダウンジャケットを首元までしめたら、酒屋へと歩き出した。

三十路手前の女が1人晩酌をするために−。

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