第36話
八回は、やはり玉淀さんに後攻が回ったため、失点をする展開になった。もう開き直った僕は、若葉先輩に徹底的に玉淀さんのボールを落とし続けてもらった。結果、1失点に留めた。八回終わって9対6。
まだ、まだ望みはある。
八回と九回の合間。大してないインターバルに、ミックスゾーンで顔を突き合わせて作戦を話し合う僕と若葉先輩。
「……九回で、4点取ります。逆転までして、十回を1失点で耐えて延長でサヨナラ勝ちを狙いましょう」
「……じゃあ、七回と同じような攻めかた、でいいんだよね?」
「……いえ。多分それだと今度はボールを落とされます。どこに投げても。きっともう玉淀さんもこのリードを守りに来るはずです」
「じゃあ、どうするの……?」
「ブロッカーで、若葉先輩のボールを守ります」
「え……?」
若葉先輩はポカンと口を開いたまま呆ける。まあ、そうなるだろう。多分、初めてやる作戦だから。
通常ブロッカーは相手のコースを制限するために使われるもの。それを自分のボールを守るために使うと言っているから、そりゃそうなる。
「初球に規定上ブロッカーは投げられません。仕方ないのでサードポケットに散らします。二投目で、正面に、それも斜め45度くらい傾いた状態でブロッカーを投げます。……あとは、山の斜面の裏側に、ひたすらボールを投げ続けるだけです。先輩の得意な、スライダーで」
「そ、それって……」
「簡単なプレーではないです。斜面の裏に投げることは、とても難しい。でも、難易度は若葉先輩のほうが簡単なんです。……玉淀さんは、さらに斜面の裏にある若葉先輩のボールに当ててこようとするんだから」
これなら、玉淀さんの抵抗も最小限に抑えられる。そして、最終投球で中心を取る。
「……わかった。ばっしー」
先輩はそう言い、揺れる肩を後ろに残しながら、プレーイングゾーンに走っていった。
これが、僕が託せる最後の作戦。
「九回の第二投、玉淀さんはもう攻めませんね、若葉さんの初球を丁寧に落としにかかりました」
「そうですね、外してもきっちりポケットに残るように狙ったいい投球だったと思います」
「それに対して若葉さんの第二投は……おっとぉ、ブロッカーを投げるようですね」
──私だって、緊張するよ。
その言葉が本当だったと、僕は今プレーイングゾーンに立っている若葉先輩を見て感じた。
少し先に始まった他の試合は、既にもう終わったようだ。つまり、今試合をやっているのは若葉先輩と玉淀さんだけ。
スタンドにいる全員の視線が、今若葉先輩に集まっている。
「ははは……やっぱり先輩はすごいや」
僕ならきっととちってしまう。春の、新入生の勧誘のあの場面とは訳が違う。
先輩は右腕を伸ばし、ブロッカーに魔法をかける。
「いっけぇ」
小さく、僕は呟いた。弦をか弱く弾くくらいの、大きさで。
「ああっと、これは」
「上板橋君勝負に出ましたね」
「曳舟さん、これはどういう意図があるのでしょうか」
「プレーイングゾーンに向かって傾けたブロッカーを配置すると、上左右からの投球はブロッカーの裏に投げにくくなります。狙いにくくなるんですね。関係ないのは下からのライズボールですが、玉淀さんはライズボールをまだ一球も投げてませんから、恐らくそれほど得意にはしていないのでしょう。上板橋君もそれを踏まえて、あるいはもうデータがあるのかもしれませんが、若葉さんにブロッカーの裏にボールをためてもらおう、そんな作戦なんでしょう。もちろん、難しいコースに若葉さんも投げ続けてもらわないといけないので諸刃の剣になってしまうこともあるのですが、いやあ、驚きました。彼本当に一年生ですか? 立てる作戦がクレバーですねえ」
ふと、向こう側の玉淀さんの表情を見る。
さっきまで少し余裕がありそうな顔をしていたけど、今はそれほどない。
頼む……この作戦、決まってくれ……!
対して玉淀さんの第三投。
探るような意図を持ったボールは、ブロッカーの上部に置かれた。
裏の若葉先輩。はっきりとした目的を持ったボールは、綺麗な横回転がかかり、吸い込まれるようにブロッカーの裏へと潜り込んだ。
「よっし!」
僕のそれと、若葉先輩のそれが、ハモる。すると、目と目があって、つい笑い合ってしまう。
「いいコース潜らせましたねー若葉さん」
「これにはアドバイザーの上板橋君もニコリとします。笑顔も交わしてますね」
「いやー落ち着いてますね、まだまだ頑張れますね」
少し息を乱しながら、若葉先輩はミックスゾーンに帰ってきた。
「ナイスショットです、若葉先輩」
「う、うん。ごめんばっしー、お水貰える?」
試合中、「白粉」を含んでいない水分は自由に補給できる。僕はベンチに置いている普通の水を手に取り、若葉先輩に手渡そうとした。
「先輩」
「あ、ありがと……」
しかし。手渡そうとしたボトルは先輩の手をすり抜けて、ピッチの芝の上に転がった。
「せ、先輩……? だ、大丈夫ですか……?」
「あはは、取り損ねちゃった。全然大丈夫だよ。まだいける、いけるから大丈夫」
サーっと、胸に砂煙が走るような、そんな感覚に陥った。
……もしかして、もう若葉先輩、限界なんじゃ……。
だって、そもそも四日目に進出するのも初めてだったんだ。未知の世界に入っているんだ。
スタミナの割り振りが乱れてしまっていてもおかしくはない。
もし、もし仮に若葉先輩がもう限界だとしたら。もし、ボールを空中に維持するだけの力がもう残っていないとしたら。
エアカーリングで、一度空中に浮かせたボールを、何も干渉がないまま地面に落下させてしまった場合、即反則負けになってしまう。つまり、ボールやブロッカーで落とされるのはいいけど、自分の魔法切れでボールを落としてしまうのは駄目、ということ。
僕は、若葉先輩の一挙手一投足に注目し、四投目を見る。
フォームにぶれはない。まあ、疲れていても同じフォームで投げられるように練習を積んだから、そこは問題なかった。
……しかし、肝心のボールは。
「……変化が鈍い」
一日目、二日目よりも、明らかに変化の質が落ちている。
疲れている……。
どうする。このまま作戦を続けると、先輩の体力が尽きて反則負けになってしまうかもしれない。でも、続けないと、若葉先輩に勝ち目はない。
……ブロッカーなら、落としても反則は取られないから、切り離すならブロッカーという選択肢になる。切り離すと、若葉先輩のボールを守る障害物はなくなってしまうけど。
玉淀さんは、若葉先輩のボールを攻め切れていない。つまりチャンスなんだ。これを逃すわけにはいかないんだ。
国立に行きたい。そう願った先輩の夢の舞台。勝たせないといけない。それがアドバイザーの仕事だ。
……勝たせるためには、先輩に耐えてもらうしかない。けど、
「おっとぉ……若葉さんの五投目、少しすっぽ抜けましたか? ブロッカーの中にボールは潜らず、ファーストポケットに入ってしまいました」
「これは痛い投げミスですね。しかしここまで制球を間違えることが少なかった若葉さんが、大きく外してしまうのは……そろそろ体力的にも限界が近づいているかもしれませんね」
「若葉さんに関しては、三日目以降に残ること自体が初めての経験だったので、恐らくここまで強い強度で試合を続けることはなかったと思います。そうなると、どうしてもこういうところで体力が、っていう場面は、準々決勝などではよく見る光景ですね。特に一・二年生がここまで進出してきた場合とかはそうですね」
「今回が初めての国立、更には決勝トーナメント進出となった若葉さん。まだ体力は残っているのでしょうか」
「上板橋君はちょっと難しい決断をしないといけなくなりましたね。いや、四投目の段階から少し難しい顔をしているなとは思っていたんですが、やはり近くで見ている分、気づくのは早かったですね。しかし、このブロッカーを切り離すという判断が果たしてできるのかどうか。選手を信じるのか、安全策を取るのか」
やっぱり、だめか……?
「ご、ごめんごめんばっしー、つぎはちゃんと──」
「若葉先輩」
苦笑いをしながら戻ってきた若葉先輩に、僕は声を掛ける。
「……六投目のボールを投げると同時に、ブロッカーを落としましょう」
僕は、安全策を取った。
このままだと、若葉先輩は潰れてしまう。それこそ、僕と先輩が初めて出会ったときのように。
そうなる前に、先に切り離す。そうすれば、力も浮くし、反則負けのリスクもなくなる。
だから、僕はそれを選んだ。けど。
「……いやだよ」
先輩の決意を、小さく示すように。先輩は、首を横に振って僕の提案を嫌った。
「え……?」
「ばっしー、私の体力心配して言ってくれてるんだよね? なら、なら大丈夫だよ。私はまだ大丈夫」
「でっ、でも、さっきボールすっぽ抜けたし」
「大丈夫」
「水のボトルも落としたし」
「大丈夫」
「でも先輩!」
「……大丈夫、大丈夫だから」
若葉先輩は、結局、大丈夫だからとだけ言い、ミックスゾーンを後にした。
「ちょ、先輩!」
「……大丈夫、私はやれるよ」
そう、柔らかい、陽射しを背後に受けた眩しい笑顔を僕に向け、プレーイングゾーンにゆっくりと歩いていった。
「絶対大丈夫じゃないだろ……!」
少しふらついている背中を見つめつつ、僕はそう毒を吐くことしかできなかった。
第六投、第七投も若葉先輩の投球は制球が乱れた。ブロッカーの影から出てしまったボールはことごとく玉淀さんに弾かれた。
ポケット内には、若葉先輩のボールは二球。三投目と四投目のボールだけがブロッカーの影で生き続けている。それ以外は、全部落とされた。
玉淀さんの第八投は、きちんと中心を射貫いた。
……今の先輩の制球じゃ、中心は……。
ミックスゾーンで水を口に含む若葉先輩を眺めつつ、僕はそんなことを考える。
「……行ってくるね、ばっしー」
先輩は、それだけ言い、第八投に向かう。
ここで、玉淀さんより真ん中に近い位置にボールを置かないと、そもそも得点できなくなってしまう。
試合の行方がかかった、大事な一投になる。
「行ってくるねって……もうそんな力……」
僕は、ただただ遠くなる先輩の黒い短い髪を見つめることしかできなかった。相変わらず左右に揺れている背中。
力なんて、残ってないだろ。
そう言おうとして、僕は言いとどまった。
プレーイングゾーン手前に、若葉先輩が僕のほうを振り向いて、もう一度こちらを見ていたから。
先輩は、ゆっくりと口を動かし、言った。
「見てて。きっと、大丈夫だから」
今までのどの「大丈夫」よりも、優しい響きを持った言葉だった。
プレーイングゾーンに入った若葉先輩は、ボールを手に、大きく胸を反らせて深呼吸をする。
そして。短い髪を揺らして、先輩は助走を取る。固定されたフォームから放たれる、一つのボール。
一瞬、虹がかかったように見えた。
雨なんて降らない、突き抜けるような青空に。
虹の終端へ、ボールは美しい順回転を描いて、ポケットの中心に走る。
「……嘘、だろ……」
ボールの行方は。
「いっけぇぇぇぇぇぇ!」
ピッチの芝の上、叫び出した先輩の声とともに。
……次にボールが動きを止めたとき、空中に中心からの距離が映し出される。
「緑:0・8ミリ 白:10・4ミリ」
その数字は、たった今、緑色のボールを投げた、一人の先輩の奇跡を認めるもので。
空に数字が映し出された瞬間、国立のスタンドが、揺れたんだ。
「え……?」
それは、まさしく「揺れていた」という表現が適切だった。注目が集まった場面で見せた、若葉先輩の投球。へとへとで体力も残ってない、一投同点の場面。そんななか、見せつけた若葉先輩の虹。
その虹に魅せられた人々は、今。
大歓声を若葉先輩に浴びせていた。
「な、なんて投球だぁぁぁ! なんと0・8ミリ。0・8ミリですよ曳舟さん!」
「はい、驚きました。1ミリを切る投球も別に見たことがないわけではないですが、もう体力がないなかでこのような投球を見せるなんて、どれほどの粘りなんでしょうか。いやぁ、凄いの一言です」
僕は、ミックスゾーンで呆然としていた。ただただポケットに映し出されている数字を見つめ、今起こった奇跡を理解しようとしている。
「ばっしー」
紅潮した頬をしつつ、若葉先輩はミックスゾーンに戻ってはそう話しかけた。
「見て?」
先輩は、盛り上がっているスタンドをぐるっと手で示して、続ける。
「魔法は、こんなにも一度のプレーで人を動かすことができる。こんなふうに。凄いと思わない?」
「…………」
何も言うことができない。その代わりに、口から空気が漏れる。
「……こんな景色を見させてくれたのも、ばっしーのおかげなんだよ。……ばっしーがいなければ、こんな体験、できなかった」
「…………」
「だから。……ばっしー。……好きになってくれると、嬉しいな。魔法。私を変えてくれた、奇跡みたいなものを」
きっと。あのとき見た光景を、僕は一生忘れることはないと思う。
空に架かっていた虹。それをいつの間にか消えないでと願ってしまったこと。
そう願ってしまった、っていうことは。
……僕は、魔法に惚れてしまったのだろう。若葉先輩のおかげで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます