第31話

 家のベッドに横になりながら、僕は一回戦で当たる選手の大会の映像を確認していた。競技場を後にする頃にはトーナメントの組み合わせは決まっていて、参加者に配られていた。

 準々決勝で、玉淀さんとぶつかる可能性がある。国立まで行けば、玉淀さんと戦える。勿論、そこまでにも難敵が何人もいる。一回戦は予選を全勝で抜けた好調な相手と、二回戦は恐らく春の都大会ベスト16に残った選手と。それ以降まで行けば当然強い選手しかいなくなる。

 国立への道は、長く険しい。

 今も、一回戦の相手のデータをチェックしている。どこかに弱点はないか、なにか責めるべき特徴はあるのか。なにか、なにか……。

 そんなことを考えているうちに、夜は明けていき、気づけば学校に行く時間になっていた。


「ばっしーなんか眠そうだね。大丈夫?」

 月曜日の部活は、大会直後ということで軽い練習で切り上げた。ミーティングも終わって、これから帰る、というときに若葉先輩にそう言われた。

 結構あくびとかしちゃってたからな……。

「昨日眠れなかったの?」

「眠れなかった、というよりは……ずっと次の相手の試合の映像見てたら、朝になってて」

「え? じゃあ、今日徹夜だったの?」

「ま、まあ」

「ダメだよ、無理したら。ちゃんと休まないと」

 結構真面目に怒られた。眉を三角にして渋い顔をした若葉先輩は、少し僕に詰め寄る。

「今日は寝るんだよ、ばっしー。明日の朝、また眠そうな顔していたら部活出さずに家に帰すからね」

「は、はい……」

「わかればいいんだよ、ばっしー」

 最後にニコッと笑みを浮かべた若葉先輩は部室のドアに手をかけて「帰ろう、ばっしー」と僕に声を掛ける。

「はいはい、そうですね」

 まだ明るい中野の街を抜けて、僕と若葉先輩は、いつものように一緒に駅に向かい、帰路についた。

 その日も、帰ってすぐに寝たはいいけど、深夜にデータをチェックすることは欠かさなかった。


 火曜、水曜、木曜と、夜の作業を続け、相手の弱点を丸裸にしていった。

「よし……これなら……いける」

 そんな手応えの言葉が漏れた、金曜日の深夜。

 真っ暗な部屋のなか、スタンドの明かりだけ照らしてタブレットとにらめっこをしている。ふと、時間を見ると、もう金曜ではなく、土曜日の午前三時だった。

「やば……もう寝ないと……」

 僕は慌てて大会の支度を整えようとする。勉強机から離れて、エナメルバックに必要なものを詰め込む。

「……とりあえず、もう寝よう」

 あらかた終わり、ベッドに行こうとした。

「……あ……」

 けど、僕の意識は急に傾いて、ベッドの手前、硬い床にダイブしてしまった。

「痛っ……」

 ベッド、入らないと……。

 そう思うけど、体が言うことを聞かなかった。僕は、柔らかい布団ではなく、硬いフローリングの上に意識を落としていった。


 朝、目覚めると真っ先に感じたのは、猛烈な頭痛だった。

「……なんだよ、これ」

 しかめっ面のまま、鳴り響くスマホのアラームを止める。額に手を当てて、熱があるかどうか確かめる。

 そんなに熱くはない。

「……大丈夫、行ける……」

 少しふらつく足取りで、僕は部屋を出て、リビングへ向かった。

「明日翔、おはよう……ってあなた大丈夫? ひどい顔色だけど」

 リビングに出るなり、朝ご飯の準備をしていた母親にそう言われる。僕は椅子に座り、テーブルに並んでいるパンを一つ手に取った。

「大丈夫大丈夫……平気だよ」

 どこかボーっとした感覚のまま、味のしないパンを食べ始める。

 すると、目の前にすっと体温計が差し出された。

「熱、測っときなさい」

 母親からしぶしぶそれを受け取って、僕は脇に体温計を挟んだ。

 少しの間何もせず、目の前にあるメロンパンを眺めていると、ピピッという機械音が響き始めた。

 僕は体温計の表示を見る。

「……七度五分」

 意外と熱あったな……さっき手で測ったときはそんなに熱く感じなかったのに。ああ、きっとあれか。僕の手も熱いから、感覚が麻痺してたんだ。

 僕は体温計をケースにしまい、そのままテーブルに置いた。

「何度だったー?」

「……六度八分」

「意外と平熱ねー」

 僕は無心でパンを食べきって、マグカップに注いだ牛乳を一気に飲み干した。

 それから僕は朝の準備その他諸々を済ませて、

「じゃあ、行ってきます」

 と母親に声を掛けて家を出た。先週よりも重く感じるエナメルバック。中身は変わらないはずなのに。

「あ、ばっしーおはよう……?」

 家の前には、やはりと言うべきか若葉先輩が立っていた。

「だい、じょうぶ……? なんか顔赤いけど」

 先輩は、心配そうに僕の頬に手を当てる。

「……あっつい。ばっしー? 熱は何度あったの」

「そんな、ないですよ」

「嘘。そんなわけないよ、だって、凄い顔熱いよ」

「……大丈夫ですって」

 そんな押し問答を繰り返す。朝から。

「そんなことより、駅行きましょう」

「ダメ。行かせない。ばっしー今日は休まないと」

 僕が先輩の脇を抜けて門扉をくぐろうとすると、両手を広げて先輩が通せんぼしてきた。

「邪魔しないでください、今日休むわけにはいかないんです」

 僕はそんな先輩の手をどかそうとするけど、力が入らず、なかなか突破できない。

「ばっしー、今週どれだけ寝た? 何時に寝てた?」

「……三時とかですかね」

「だからだよ。ちゃんと自分の体は大事にしないと。今日は休まないとダメ。わかった?」

 まるで子供をあやすかのように言う若葉先輩。

「嫌です。僕は先輩と約束しましたから。それを破るわけにはいきません」

 正確には、約束ではなく、努力目標だけど。

「そっ……それは、ばっしーの体あってのだよ。ばっし―が倒れたら元も子もないっ」

 一瞬、抑える力が弱くなった。しかし、それも一瞬のことで、むしろ押し戻す力が強くなった。

「……大丈夫、ばっしーがいないところで、負けたりなんかしない。最終日まで必ず残るから」

 途端に優しい声を出しては、僕にそう囁きかける。耳元でそう言われた僕は、抜け出そうとする動きを止めた。

 だって。

 ……それを言われて信用できませんなんて言えないよ。

「……安心してよ。絶対に負けないから。私。ばっしーがいなくても、大丈夫だから」

 僕は若葉先輩の言葉を聞いて安心したのか、その場に座り込んでしまった。先輩の膝が目の前に映りこむ。

「高水との約束も守ったんだよ? 信用してよ、ばっしー」

「……わかりました」

 諦めるように、そう呟いた。そして、僕はバッグにしまっていたタブレットを若葉先輩に力なく差し出した。

「これ……耀太さんに渡してください。今日の対策をまとめたデータです。……僕が来ないとなると、アドバイザーはきっと耀太さんが務めることになると思いますから」

 先輩は、タブレットを笑顔で受け取る。

「うん。わかった。つるせっちに渡すね」

「はい、お願いします」

「さ、ばっしーは早く家入って寝てね。ゆっくり休むんだよ?」

 僕を玄関のドアまで引っ張って、若葉先輩は駅のほうへと歩き出した。

「先輩っ」

 姿が消えかけたそのとき、僕はそう声を掛ける。

「……約束、ですから」

「うんっ」

 その声に、若葉先輩は右手の親指を立てて応えてくれた。


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