第29話 【第五試合】彼女のケジメ
「余所見とは余裕だな?」
「あ……」
(しまった……!)
気付いた時にはもう遅かった。ブラッドに意識が逸れて力が抜けた瞬間を見逃す程バシマコフは甘い相手ではなかった。仰向けの体勢で片脚を脇に挟まれ、一気に極められてしまう。キーロック式膝固めだ!
「ぐぅ、ああぁぁぁぁぁっ!!!」
既に痛めていた脚を更に引き絞られる苦痛に、レイチェルの口から抑え切れない悲鳴が迸る。
「くはは! いい声だ! もっと啼け!」
「うぐぅぅぅっ!」
必死に上体を起こしてバシマコフの足を掴もうとするが、そこにレイチェルの頭上を影が覆った。
「クソガ! 女モ賞金モ俺ノ物ダッ!」
「……!」
ブラッドの左腕を破壊したブラジリアン柔術のガルシアだ。彼は屈み込むとレイチェルの上体を仰向けに戻し、腕を取って引き絞りながら、そのまま腕ひしぎ十字固めを極めてきた!
「あ、あぁっ!? うぐあぁぁ! があぁぁぁぁっ!!」
『こ、これは凄い展開になったぞ!? 下半身をバシマコフ選手の膝固め、上半身をガルシア選手の十字固め。二人同時の関節技がブロンディを締め上げるぅぅっ!! 関節地獄に嵌ったブロンディ! 脱出は絶望的か!? 賞金を手にするのは果たしてどちらだぁっ!?』
アナウンスの言う通り、二人のグラップラーから上半身下半身に同時に関節技を掛けられたレイチェルは、もはや碌にもがく事さえ出来ずに、絶叫を上げ続けるだけとなっていた。反撃も脱出も不可能だ。
「ち……アマゾンの未開人が。この女は俺の物だ。さっさと失せろ!」
「ウルセェ、シベリアノ田舎者! テメェコソ帰ッテウォッカデモ浴ビテロ!」
「あぐぅぅぅぅ……!」
呻くレイチェルに技を掛けながら好き勝手に言い合う二人。彼女に止めを刺すと、その瞬間もう一方の相手も彼女の関節を破壊するだろう。その場合どっちが『優勝』扱いになるのか。
奇妙な膠着状態が場を支配した。
だが膠着しているのは二人の男だけで、上下二箇所の関節を引き絞られているレイチェルは堪ったものではなかった。だが当然いくら暴れてもどうにもならないし、それどころか下手に暴れるとその瞬間関節を破壊されるという恐怖に硬直してしまう。
(も、もう駄目ぇ……。ご、ごめんなさい、エイプリル……。ふがいないママを許して……)
このラージリングではエイプリルの声も届かない。余りにも絶望的な状況に遂にレイチェルは抗う事を放棄して、静かな諦めの境地に入ろうとしていた。
その時であった。
『あ……!?』
アナウンスの叫び声。観客達もざわめき出す。次の瞬間、レイチェル達の上から大きな影が覆う。
「Você!?」
動揺したガルシアがポルトガル語で叫ぶ。レイチェルの霞む視界に映ったのは……
(ブラッド……!?)
それは左腕を折られリタイヤしたはずのブラッドであった。実際左腕は不自然な感じで垂れ下がっており、本人は今も苦痛に顔を歪め大量の脂汗を掻いている。
しかしそれでいながら歯を食いしばり恐ろしい執念で立ち上がった彼は、無事である右の拳を握り締め……
「……ッ!!」
ガルシアの顔面に全力で振り抜いた!
物凄い音と共にガルシアの顔面がひしゃげ、同時にレイチェルの上半身を拘束していた十字固めが外れる。
ガルシアは完全に白目を剥いて痙攣していた。KOだ!
『な、な、何とぉ!? 信じられない! 一度はリタイヤしたかに見えたブラッド選手が、恐るべき執念で立ち上がり、ガルシア選手をKOしたぁぁっ!! 彼が賞金に掛ける執念はそこまで凄まじい物だったのかぁっ!?』
思わぬ展開に喚き立てるアナウンス。観客達も大騒ぎだ。それらを無視してブラッドが、体ごとバシマコフの方に向き直る。そして大きく踵を振り上げた。
「……ちぃっ!」
バシマコフは舌打ちして膝固めを解くと、急いで転がるように離脱した。そこにブラッドの踵落としが唸りを上げて振り下ろされた。
完全には回避が間に合わず踵落としはバシマコフの右脚の部分にヒットした。
「ぐぬっ……!」
バシマコフの顔が苦痛に歪む。だがブラッドの方も……
「ぐ……」
限界が来たように膝を落とし、今度こそ倒れ込んでしまう。左腕が折れたまま暴れたのだ。凄まじい激痛だったはずだ。彼は倒れながらもレイチェルの方に視線を向けて、僅かに頷いたように見えた。
「……!」
それだけでレイチェルには解った。
後は任せた。
彼はそう言っているのだ。それを認めた時、彼女の中に消えかかっていた闘志が再び燃え上がるのを感じた。
彼は自らの負傷を押して、レイチェルの絶体絶命の危機を救ってくれたのだ。しかもガルシアを潰し、バシマコフにもダメージを与えた。
ここまでされて尚、彼の意志に応えずにいるという選択肢はレイチェルには無かった。自分達だけではない。ブラッドの為にも絶対に勝たなくてはならないのだ。
「う……おぉぉぉっ!」
震える脚と腕を叱咤しながら、気合を入れて立ち上がった。
「奴の執念を甘く見ていたか……。一体どんな契約を結んだのだ?」
バシマコフが忌々しげに、だが不可解そうにブラッドを見る。契約などでは断じて無い。だがそれを第三者に説明する事は出来ないし、わざわざするつもりもない。
レイチェルは黙ってファイティングポーズを取ると、ふらつきながらも果敢にバシマコフに攻めかかった。
「Это раздражает!」
バシマコフは腰を屈めて迎え撃つ態勢になった。余裕が無くなった為か、ロシア語で喋っている。レイチェルがパンチを放つと、カウンターでそれを掴み取ろうと動いた。しかし……
「……っ!」
顔を歪めてその動きが停滞する。足の動きが不自然だ。ブラッドの最後の踵落としが効いているのだ。
レイチェルは構わずストレートでバシマコフの顔面を打つ。一瞬怯んだ所にローキック。狙うは先程痛めた右脚だ。
「がっ……!」
バシマコフが唸って体勢を崩す。そこへ更に追い打ちで左右のワンツー。ストレートがマクギニスに潰されていた鼻にヒットし、バシマコフは盛大によろめく。
「Дерьмо……! Эта женщина!」
「……!」
バシマコフが喚きながら強引に掴みかかって来ようとする。奴もダメージは大きいが、レイチェルもまた激しく消耗している。ここで再び寝技合戦に持ち込まれるのは避けたい。
レイチェルは精一杯の体捌きで後方へとスウェーする。普段であれば到底逃げられなかっただろうが、ブラッドによって機動力を奪われた今のバシマコフ相手なら充分だ。
グラップルを空振りしたバシマコフが、一瞬だが頭を前に突き出したような体勢になる。
(今……!)
レイチェルは最後の力を振り絞って脚を大きく振り上げた。ハイキックだ!
振り抜かれた足の甲は、狙い過たずバシマコフの側頭部にクリーンヒット。
「…………」
バシマコフの動きが止まった。そして……ゆっくりとその身体が横倒しにマットに沈んだ。脳を揺さぶられて気絶したようだ。起き上がってくる気配は……ない。
「はぁ……はぁ……はぁ……! く……」
レイチェルもまたその場にガクッと崩れ落ち、片膝を着いて大きく喘ぐ。もう限界だった。立ち上がれる気が全くしない。しかし意地でも倒れる事だけは堪えた。
『し、し、し……信じられなァァァいっ!! ブ、ブロンディ……バトルロイヤル戦を最後まで生き残ったぁぁっ!! 奇跡だ! 今、私達の目の前で奇跡が起きたぁ! こ、これで七人抜き……。ルーカノス様との対戦がいよいよ現実的な物となってきたぞっ! まさか彼女がここまで来れるとは誰に予想できたでしょう!? 次回はクラヴ・マガのエフード選手との対戦が予定されています。それを勝ち抜きルーカノス様の元まで辿り着けるのか……期待して見守りましょう!!』
――ワアァァァァァァァァッ!!!
大歓声に包まれるレイチェル。だが死闘を制した彼女の目線は、倒れ伏したブラッドにのみ注がれていた……
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