第23話 エイプリルの冒険
『ホテル』の内部。どこまでも続く廊下と左右に並ぶドアの列。きちんと部屋番号を覚えながら歩かないとすぐに迷子になってしまいそうだった。
(……あのおじさんに教わった通りに進めばきっと大丈夫よ)
母と自分に味方をしてくれるあのブラッドという男の人……。最初こそ警戒してしまったものの、今では信頼できる人だと解っている。
昨日母の見舞いに医務室へ行こうとしたら、先客でブラッドが訪ねてきていた。それでドアの隙間から覗いていたのだが、二人はすごく「いい感じ」になっていた。
やがて出てきたブラッドに見つかってしまったのだが、彼は優しく笑って「ママを頼むぞ」とエイプリルの頭を撫でてから立ち去って行った。
医務室へ入ると、母は自分に気付かずにボーっとしていた。心なしか顔が赤くなっていたような気がする。声を掛けると初めて娘の存在に気付いたように慌てふためいていた。あんな母を見るのは初めてだった。
(ママとおじさん、お似合いだと思うのになぁ……。少なくともチャーリーなんかよりずっと)
エイプリルは正直、余りあの義父の事が好きではなかった。幼いエイプリルにも、皆の前で戦う事で母がお金を沢山稼ぎ、そしてあの義父がいつも勝手にお金を使ってしまっているらしい事は何となく察せられていた。
母はそれについていつも溜息を吐き、時に義父と言い合いしている姿も何度も覗いた事がある。また義父は口では愛していると言いながらも、エイプリルを見る目や態度の端々に彼の本心が現れていた。
でもブラッドは違った。そんな気がするのだ。
(……ママもおじさんの事好きみたいだし、私からちょっと言ってみようかな)
そんな事を考えるエイプリルであった。
やがてブラッドから教えられていた場所まで辿り着いた。通路は先に続いており奥に大きな扉が見える。でも黒い服を着た怖そうな男の人が2人立っていて、それ以上先には進めなかった。白人と黒人の2人だ。
「んん? 何だ、このガキ? 何でこんなトコにガキが?」
2人がエイプリルに気付く。1人、白人の男の方はエイプリルの事を知らなかったらしく首を傾げる。
「馬鹿。こいつ、あのブロンディの娘だぜ。ほら、あのビリーが攫ってきた……」
もう1人、黒人の方が相方を小突きながら教えていた。
「ああ、そういや……。てことは大事な特別ゲストって訳か」
「そういう事だ。こいつに何かあったらブロンディの試合が見れなくなる。『丁重』に扱えよ?」
男達がエイプリルの方に向き直る。黒人が話しかけてくる。
「おい、お嬢ちゃん。ここはお前のようなガキが来る所じゃないぜ。大人しく回れ右してママの所に帰んな」
「……イチゴのタルトが食べたいの。でもママもチャーリーもシナギレで無いって言うの」
「あん? タルトだぁ?」
白人は、何言ってんだコイツ? という感じでエイプリルを見た。だが黒人の方は思い至ったらしい。
「あー、確か今回は女性の会員も多くて、デザート類が結構ヤバいらしいな。前回搬入の分はもう殆ど切らしちまったみたいだ。その煽りを受けたんだな」
「マジかよ? 俺らはレストランが本業じゃねぇってのに、ここに何しに来てんだか……」
白人がぼやく。黒人が苦笑した。
「まあ仕方ないさ。今回はあの『フェイタルコンバット』の影響で長丁場になってるからな。お陰で搬入組は殺人的な忙しさらしいぜ」
「へぇ? 俺らは警備で助かったな。しかしそんなんで元が取れんのか? こんだけ日数が伸びれば組織としちゃ大赤字じゃねぇのか?」
白人の言葉に黒人は肩を竦めた。
「そうだな。総帥は、今回は利益よりも評判を高めて今後に繋げるって考えらしいな」
2人はエイプリルが目の前にいるというのに、組織の内情をベラベラ話していた。これが大人ではこうは行かなかっただろう。ブラッドの着眼点は当たっていたようだ。
手応えを感じたエイプリルは、わざと聞き分けの無い子供を演じる。
「ねぇ! タルトは!? 誰に聞いても無いって言うのよ!?」
「ああ、悪い悪い。そんな怒るなよ、お嬢ちゃん。無いものは無いんだ。諦めて帰りな」
エイプリルは地団太を踏んで激しくかぶりを振る。
「嫌よ! 他は大人しかいないし、お外にも出られないから退屈で仕方ないの! じゃあいつなら食べられるの!?」
「わ、解った解った。頼むから大声で騒ぐな。……おい。次の搬入は何時だったっけ?」
エイプリルの剣幕に及び腰になった黒人が相方に助けを求める。
「ったく、俺らはガキのお守りじゃねぇぞ。……物資の搬入は午前の十時だけだから、今日はどっちにしろ無理だぜ」
「……て事だ、お嬢ちゃん。明日には新しいデザートが入るからそれまでは我慢しな。あんま我が儘が過ぎるとママに言いつけるぞ?」
黒人が凄んでくる。この辺が潮時のようだ。成果は充分にあった。エイプリルは怪しまれないように、渋々納得した感を出してそっぽを向く。
「ふん! あんた達こそ私にいじわるしたらママに言いつけてやるから!」
「んだと、このガキ!」
白人が進み出てきたので、それに便乗して怯んだ風を装いながらパタパタとその場から駆け去った。
(やった……! 午前十時って言ってた! 上手く行ったわ……!)
廊下を駆け戻りながら、エイプリルは高揚した心を抑える事が出来なかった。自分の『任務』をこなせた事。何よりもこれで大好きな母の力になれた事が嬉しかった。きっと母とブラッドに喜んでもらえる。
気分が良くなっていたエイプリルは、周囲に人気がないのも気にせずに非常階段の出入り口がある区画に差し掛かった。その時……
――前触れなく非常階段の扉が開いた。そしてそこから大きな影がヌッと滑り出てきた。
「っ!?」
びっくりして立ち止まるエイプリル。影はこれまた大きな手を伸ばしてエイプリルの口を塞ぎ、そのまま影に抱え込まれるようにして彼女は扉の奥に引っ張り込まれた。扉はすぐに閉まり、廊下には元の静寂が訪れる。一瞬の出来事であった。
(な、何!? 何なの!?)
エイプリルは必死にもがくが、彼女を拘束する腕は全く緩まない。
「黙れ、クソガキがっ!」
「ひっ!?」
大きな影が顔を近づけて凄んできた。エイプリルは思わず息を呑んで縮こまる。顔を近づけてきた事でその姿がはっきりと解った。
真っ黒い肌で物凄い背の高い男だった。よく見ると右腕には添え木のような物が付いていて、包帯と一緒に巻かれていた。
「ヘヘヘ、ヨウヤク捕マエタゼ。コノガキガアノ女ノ『弱点』ダナ?」
「ああ、都合よく一人になってくれたもんだ」
「……!」
そこでエイプリルは初めて気付いたが、黒い男以外にも複数の人間がいた。これも茶色っぽい肌をした体格のいい男と、凄く縦にも横にも大きい体格の「キモノ」のような服を着た東洋人の男、そしてそれよりは大分痩せている同じ東洋人の男の合計で四人の男がいたのだ。痩せてる東洋人はやはり腕に添え木を当てていた。
(こ、この人達……?)
エイプリルは彼等に見覚えがある事に気付いた。どこで見たのか……。つい最近、あのリングの上でだ……!
(そうだ! ママと喧嘩して負けた人達だ……!)
そこまで思い出した時、エイプリルはゾッとした。この男達は確実に母の事を恨んでいるはずだ。そしてもう負けた以上、試合が続くかどうかなど関係ない。
つまりエイプリルに遠慮する理由が無いのだ。いや、それどころかこちらを恨んでいる危険な人物達だ。そんな連中がエイプリルを攫った。何か良からぬ事を……それも絶対に母にとって都合の悪い事を企んでいるのは間違いない。
「……っ!」
子供ながら洞察力に優れたエイプリルはすぐに状況を理解すると、反射的に自分を拘束している男の腕に噛み付いた!
「ぬおっ!?」
黒い男が驚いて腕の力が緩む。その隙に男の腕の中からすり抜けたエイプリルは、扉へ向かって一直線に駆け寄る。廊下に出てさえしまえば、大声で叫べば誰かの耳には届くはずだ。さっきの2人組でも構わない。
だが扉に近付く彼女に先回りするように大きな影が立ち塞がった。あの縦横に大きい東洋人だ。
「……ッ!?」
この体格からは信じられないような速さだ。驚いたエイプリルの足が止まる。
「このガキがっ!」
そこに腕を噛まれた黒い男が追い縋ってきて……
――バシィィンッ!!
「きゃふっ!」
その黒く長い左腕で思い切り引っ叩かれた。小さなエイプリルは堪らずに壁際まで吹っ飛ばされて転がった。
「ぅ……」
彼女はショックの余り呆然自失として起き上がる事が出来なかった。痛みは勿論だが、殴られた事自体の衝撃が彼女を打ちのめしていた。
彼女を嫌っている義父にだって、母の機嫌を損ねない為か殴られた事は無かった。母は勿論いつも優しく、エイプリル自身が極めて利発で聞き分けが良かった事もあって、『殴られる』という事象そのものが文字通り生まれて初めての体験であった。
利発ではあってもあくまで6歳の少女。悪意ある暴力という物に耐性などあるはずもなかった。恐怖と衝撃ですっかり大人しくなってしまったエイプリルを憎々し気に睨み付ける黒い男。
「ふん、最初から大人しくしてればいいものを」
「大人シクナッタナラ、サッサト部屋マデ連レテ行コウゼ」
茶色い肌の男がエイプリルを小脇に抱え上げる。痩せた東洋人が扉から顔を覗かせて左右を確認する。そして誰もいない事を確認したらしく、扉を開けて廊下に出る。他の3人がそれに続く。黒い男がエイプリルに顔を寄せてくる。
「ひ……」
「おい、ガキ。大声出しやがったらあんな物じゃ済まさねぇぞ。今度は平手じゃなくて拳をお見舞いしてやる。解ったか? 解ったら大人しくしてろよ?」
「……っ」
恐怖に震えるエイプリルには頷く以外の選択肢はなかった。殴られた衝撃で反抗心は根こそぎ吹き飛ばされていた。
茶色い男に抱えられながらどこかに運ばれていくエイプリル。このまま連れ去られればどうなるか解らない。少なくとも自分は無事では済まないだろうし、母も何をされるか。それが解っていながら動く事も声を上げる事も出来なかった。
(いや……いやだ……た、助けて……ママ、助けてぇ……)
少女に出来た事は、ただ心の中で母に助けを求めて泣く事だけであった。だが母は義父が付きっきりで部屋から出る事はないだろう。つまり今この時にエイプリルを助けにきてくれるという事はない。
そう……確かに母は助けには来れなかった。だがエイプリルはもう一人の人物の存在を忘れ去っていた。
「……その子を攫ってどうする気だ?」
「……!」
唐突に後ろから聞こえてきた声に男達が一様にギクッとする。ゆっくりと振り向く。必然的にエイプリルも一緒に振り向く事になった。そして目に入ってきた一人の人物の姿に目を見開いた。
(お……おじさん……!?)
それは今まで自分達を陰ながらサポートしてくれていた『優しいおじさん』……ブラッド・ノア・スチュアートであった!
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