第五章「揺り籠」

「ほお、迷子の妖怪の女の子か」


 トクトクとお猪口に日本酒を注ぎながら、父親が物珍しそうに言った。その酒瓶が半分ほどしか残ってないことを確認した彩菜は、父がテーブルに置いたのを見計らって自分の方へと寄せる。今日のお酒はここまでだ。


「そうなの。でもこの子、喋れないからどこに住んでいるのかわからないし、家族もどこにいるのかわならないんだよね」


 彩菜はそう言うと自分の横でちょこんと座っているヒナミを見た。立派な着物を着ていたヒナミだったが、それでは過ごしにくいだろうと、今はスウェット生地のパジャマを着ている。奇跡的にも、自分が幼い時に着ていた服が残っていたのだ。


 少しは我が家に慣れたようで、昼間出会った時よりかは怯えてはいないが、父親の方を鋭い目で凝視している。そんな父はと言うと、アルコールも入っているせいか結構な上機嫌だ。


ちなみに、父は妖怪の存在も薬箪笥の秘密も随分と昔から知っていたらしい。が、私が怖がると思ってずっと黙っていてくれたようだ。


怖い話しをすぐに話したがる和久おじさんと違い、兄弟といえど、うちの父親の方が気遣いがあるみたいで助かった。


 父は顎をさすりながらヒナミを見つめていると、懐かしむような声で話し出した。


「……なんだかこうやって見てると、幼い時の彩菜を思い出すな。……まあでも、彩菜の方がもうちょっとポテっとしてたか」

「ちょっとお父さん!」


 彩菜は声を上げると、少し顔を赤くして父親を睨む。前言撤回。兄弟ともに気遣いなし。彼女は心の中に深く刻んだ。


「冗談だよ彩菜。悪かった。ところで……妖怪の子供は人間と同じものが食べれるのか?」


 まったく気持ちの入ってない謝罪の言葉に頬を膨らましながらも、自分も気になっていたことを父が言ったので、彩菜は祖母の顔を見た。


「おばあちゃん、同じもの食べても大丈夫なの?」

「まあ大丈夫じゃが……おそらくこの子は食べ方を知らんと思うよ」


 祖母がそう言っているそばから、ヒナミはぐうとお腹を鳴らすと、目の前の焼き魚に顔を近づけてそのままかぶりついた。


「あ、こらヒナミちゃん。そんな風に食べちゃダメだよ」


 まるでお母さんのような口調で彩菜は注意すると、ヒナミを抱きかかえてテーブルから離した。その口元には、熊が鮭をくわえているように、焼き魚がぶら下がっている。


「なかなか豪快な食べ方をするな」


 父がけらけらと笑う目の前で、困った表情を浮かべながら彩菜はヒナミの口から魚を皿へと戻す。食べ物を取り上げられたせいか、ヒナミは「うう」と怒ったように唸り声をあげながら、今度はテーブルの端を噛み始めた。


「ごめんごめんヒナミちゃん。お腹減ってるんだよね。ほら、私が食べさせてあげるから。アーンして」


 彩菜はそう言うと自分の箸でヒナミの焼き魚を一切れ掴むと、口へと運ぶ。ヒナミは拗ねて顔を背けたが、空腹には勝てなかったようで、チラリと彩菜の顔を見ると、パクリと食べた。そんな様子を見て、彩菜は思わず口元を綻ばす。


「ほんとに彩菜がお母さんになったみたいだね」


 微笑ましい孫の姿を見て、祖母が嬉しそうに笑う。


「彩菜もそうやって、お母さんによくご飯を食べさせてもらってたからねえ」

「うーん、ぼんやりとは覚えてるんだけどこんな感じだったのかな」

「確かにそんな感じだったな。よく食べ物こぼしてお母さんを困らせてたぞ」

「もうお父さん……」


 普段あまり喋らない父は、アルコールが入るとよく喋る。意味がないとわかりながらも睨みを利かす彩菜の膝の上では、ヒナミが両手を伸ばして酒瓶を取ろうとしていた。


「あ、これはヒナミちゃんの飲み物じゃないんだ……」


 よ、っと言って取り上げようとした時、ヒナミの指先が触れてバランスを崩した酒瓶が、大きく横に傾いた。


「あ」と彩菜が声を発するも時すでに遅しで、瓶はテーブルの上にゴロンと寝転がると、その中身を撒き散らす。辺り一面に漂う日本酒の香りに顔をしかめながら、ヒナミがうえっと舌を出した。


「あぁ! 俺の日本酒が……」


 父は慌てて立ち上がると、残り僅かなお酒を助けようと瓶をもとの状態に戻した。ちゃぽんと音を立てたところを聞くと、どうやら中身はちょっとだけ無事のようだ。


「ありゃま」と言ってテーブルを拭いていく祖母の横では、父が酒瓶を抱きかかえながらわざとらしく悲しんでいる。その様子がよっぽど面白かったのか、彩菜に抱っこされたヒナミがクスリと笑った。


「あ、ヒナミちゃん今笑ったよ!」


 初めてみる少女の笑顔に、彩菜が嬉しそうに声を上げる。


「お父さんすごい! 私や優介たちじゃ無理だったのに。初めて笑った」

「そうか……。そりゃお父さんも、嬉しいぞ……」


 言ってる内容と声のトーンがまったくあってない父は、彩菜がヒナミをあやすように、酒瓶を悲しそうに撫でている。今度はそんな父親の姿を見て、祖母と彩菜は目を合わすと、呆れたように笑った。



 その夜、ヒナミは彩菜と一緒に寝ることになった。少しは彩菜に懐いた様子を見て、祖母がその方が良いだろうと話したのだ。


 部屋に入ると、ヒナミは物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していた。


床に置かれたローテーブに、その上にある小さなサボテン。淡いピンク色の掛け布団がかけられたベッド。幼い妖怪の女の子にとって、初めて見る人間の女の子の部屋は、何もかもが興味の対象に映るようだ。


「ヒナミちゃん、そろそろ寝ないとダメだよ」


 彩菜は、サボテンの針を指先で突きながら遊んでいるヒナミを後ろから抱っこすると、そのまま一緒にベッドへと向かった。


昼間は自分に抱きかかえられるのも嫌がっていたヒナミだったが、今は暴れることなく大人しくしている。どうやら、少しは心を開いてくれたようだ。


 ヒナミはベッドに潜り込むと、今度は枕をおもちゃにして遊び始めた。が、その感触を食べ物と勘違いしたのか、いきなり勢いよくかぶりつく。


「こら! それは食べ物じゃないの」


 彩菜は慌ててヒナミの口から枕を引き離すと、「こうやって使うの」と頭を乗せて正しい使い方を見せる。


最初は面白くなさそうな反応をしていたヒナミだったが、彩菜の教えてくれることを理解したのか、同じように枕に頭を乗せた。一人用の枕でも、小さなヒナミの頭であれば、二人一緒に寝ることができそうだ。


「あ、そうだ電気消さないと」


 彩菜は再び立ち上がると部屋の電気を消す。突然真っ暗になったことに驚いたのか、ヒナミは布団の中に潜り込んで隠れた。それを見て彩菜はクスリと笑う。


「大丈夫だよヒナミちゃん。私も一緒に寝るからね」


 彩菜はそう言うと、再びベッドの中に入り、隠れているヒナミをそっと抱き寄せる。ほんのりと、一緒にお風呂に入った時のシャンプーの匂いが鼻先をかすめた。


暗闇が怖いのか、ヒナミは怯えたように彩菜のパジャマの袖をぎゅっと握る。そんな彼女の頭を彩菜は優しく撫でた。


「だいじょうぶ。怖くないよ。私はここにいるから」


 家族と離れてしまった不安を埋めるかのように、ヒナミはぴったりと彩菜に身体をつける。その幼い手を握りしめた時、彩菜の記憶の中で、ぼんやりと母の姿が浮かび上がった。


 そう言えば、私もこうやってお母さんに甘えてたな。


 怖がりな自分は、よく一人で眠れないと言っては母の布団に潜り込んでいた。そんな自分を、母親はいつも優しく抱きしめてくれた。あの子守唄を歌いながら。


「早くお母さんのところに帰りたいよね」


 いつの間にか寝息をたてているヒナミの頭を撫でながら、彩菜はボソリと呟いた。自分には叶うことがなかった、母との約束。この子には、そんな思いをしてほしくない。


 彩菜はそう強く願うかのように、ヒナミの小さな手を握りしめた。細い指先は、自分なんかよりもよっぽど敏感に、この世界を感じとっているのだろう。悲しいことも、そして寂しいことも。


 そんなことを思いながらいつしか彩菜の意識も、幼い少女の後を追うように、深い闇の中へと消えていった。



そこはどこまでも霧がかった場所だった。霧の向こうにうっすらと見える光は、あやふやな自分の感覚と同じように揺らめいている。


 ここはどこだろう。


 見たことがないはずの景色は、やけに懐かしさを霧の中に含ませながら、自分の身体に纏わりつく。


何かにすがるかのように、霧の向こうに見える光へと進んでいくと、突然目の前に扉が現れた。見覚えのある形へと徐々に変化していくそれは、いつの間にか、慣れ親しんだ家の玄関の扉へと姿を変えていく。


これは……。


 息苦しさを覚え、その扉を開けて外に出ようとした時、自分よりも先に玄関に降り立っている人物がいることに気づく。



――もう彩菜、すぐに帰ってくるから泣かないの――



 懐かしさよりも、切なさに締め付けられるその声色に、思わず心が震える。



――おばあちゃんと一緒に良い子で待っててね。彩菜の好きなお土産、買ってくるから――



 ああ、そうだこれは、私がお母さんを最後に見た時の思い出。最後にお母さんの声を聞いた時の光景だ……。もうずっと、昔の……。


 白い光の中に消えるように、背を向ける母親の姿がぼんやりと薄れていく。


胸が押しつぶされそうな苦しさを堪えて、彩菜は必死に母に向かって腕を伸ばした。が、いつの間にか幼くなってしまった自分の腕は、届くこともなく、ただはるか前方に消えていく母親の姿を追いかけるだけだった。


泣き叫ぶ声も、求める温もりも、何もかもを飲み込んで、その光はどんどん小さくなっていく。


代わりに、それを覆い尽くす闇だけが、自分の視界の両端から広がっていく。そして、暗闇の向こうで小さな星のような輝きが消えた時、耳に残っていたのは、幼い自分の泣き声だけだった……。



 彩菜は、ふと目を覚ました。辺りは暗闇に包まれていて、自分はまだ夢の続きを見ているのかと一瞬錯覚したが、ボンヤリと浮かび上がるデジタル時計の数字を見てため息をついた。


いつの間にかぐっしょりと濡れた背中を乾かすように上半身を起こすと、今度は夢の中よりもはっきりとした感覚で、誰かがすすり泣く声が聞こえてくる。


 ビクリと肩を震わせる彩菜だったが、その泣き声がすぐ自分の隣から聞こえてくるものだとわかって、ヒナミの方を向いた。見ると彼女は、布団をぎゅっと抱きしめながら泣いている。


「ヒナミちゃん……?」


 不安になった彩菜が呼びかけるも、夢を見ているのか、少女はまだ眠っていた。彩菜はそっと彼女の肩まで布団をかけ直すと、自分よりもふた回りは小さいであろう頭を優しく撫でた。


 さっきの夢は、ヒナミちゃんが泣いていたから見たのかな。


 夢の中で聞こえた幼い時の自分の泣き声は、ヒナミに影響されてなのか、それとも自分の心にしまった感情なのか。たぶん……そのどちらもだろう。


真っ暗な部屋の中で響く、ヒナミの小さな泣き声が、彩菜の胸をきつく締め付ける。


再び布団の中に潜り込むと、彼女は優しくヒナミのことを抱きしめた。それはいつか、自分が母親にしてもらったように。


「ひとつかぞえて月の唄……」


 子守唄がわりによく歌ってくれた同じ言葉を、彩菜はそっと呟く。胸に寄せた小さな女の子を包むかのように、その声は静かな部屋の中に溶けていった。


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