EPILOGUE-√レ――

――√\_Deepest Layer.


 












 不意に、悠日は目を開けた。


 景色が白く眩しい。衝動的に目をこすろうと思い手を持ち上げると、腕に点滴が取り付けられている。


 病院……? 初めは音のない静寂の世界のようだったが、耳を澄ますと遠くから鳥の鳴き声や風の音が聞こえてくる。その風がカーテンを揺らし、暖かい温度を伴って部屋の中に吹き込んできた。悠日は身体を起こそうとしたが、まだ少し横になっていたい気分でもあり、持ち上げかけた頭を重く枕に落とす。


『よほど疲れていたんですね』脳内で声がした。

 手の甲の〈紋白端末〉が発光し、起動している。視界の中に、ストライプシャツにフォーマルなジャケットを身に着けている男性がいる。


 ミル・リッツフィールド。記憶が開花する。


『五年間の冷凍睡眠が解除されてからも、悠日さんはナチュラルに三日間寝っぱなしでした。あなたの端末がオンラインになるのをずっと待っていましたが、待ちくたびれていたところですよ』


「ここは?」


『ネーピアの病院です。ニュージーランドですよ』


 この都市はどうやらニュージーランドの〈積層現実〉特区らしい。


「美結菜は?」


「心配しなくても」とミルは笑う。


 ベッドの端が重たい。頭を持ち上げた悠日は、その原因をみつけてホッと安心した。椅子に腰かけた美結菜が、悠日のベッドにもたれて眠っている。


「地球はどうなったんですか? ジャクソンビルは……〈魔法管理局〉は?」


『あれから五年経っていますからね。都市はすでに復興しています。〈魔法管理局〉については、今もまだ強い権限を持っています』


「魔女の暗殺計画はどうなったんですか?」


『真実が世界に広まりました。もう大丈夫です──と言いたいところなのですが、ジャクソンビルを襲ったウラとの戦いがあったことで世論はそこまで〈魔法管理局〉を叩きませんでした。彼らが未だに力を持っている理由がそれです。おかげでナギハ社による乗っ取りは失敗に終わりました』


 冗談なのか本気なのか、ミルは軽く笑った。


『あぁ、そうだ。京介があなたに会いたがっています。今、病室に向かうよう伝えます』


「美結菜が起きてしまうといけないので。僕が移動しますよ」


 悠日は美結菜を起こさないようベッドから抜けだし、点滴台を掴んで──若干の立ち眩みと戦いながら、病室から廊下に出た。煌めく超超高層ビルの都市が廊下の窓の先に広がっている。それはアップリスの光景とほとんど変わらない、極めて嘘くさい都市だった。一瞬、ここが本当に地球の都市なのか疑ってしまうほどだ。


 食堂に足を運ぶ。窓際の席に、彼は座っていた。


「目が覚めたか、悠日。体調や記憶はどうだ?」


「問題ないと思います」


「この光景をどう思う」京介は、食堂の窓から見渡せる都市を眺めながら言う。「私が聞いた話では、ニュージーランドは羊の放牧がさかんな、緑が美しい国らしいが」


「この街から出ればきっとそうです。〈積層現実〉特区はどこもそんな感じだと思います」


「上田市もか?」


「少なくとも、僕が暮らしていた九年前は。……今も日本人の心に、自制心と郷土愛が残っていることを祈ります」


「〈積層現実〉とは──」おもむろに、京介が語りはじめた。「──文字通り、層が積み重なった世界のことを指している。アーテルが作り出していた領域のことだ。この分だと、それが地球全土を覆うのは時間の問題だろう。しかし重要なのは、〈積層現実〉があたかもバージョンアップした現実世界のように世間では見られているが、実は〈積層現実〉こそが、本来の現実世界の入り口に過ぎないという点だ。これは私が妻と共に考察したことだが──〈積層現実〉は、深いところであらゆる原理の基底である我々のこの世界〈基底世界〉と繋がっている。そして、〈積層現実〉で可能な事象は〈基底世界〉でも発現させることが可能だ。物質を生み、火をおこし、生物を創造する。その入り口こそが〈積層現実〉だ。もし人類がこれを自在に操れるようになれば、我々は物質的な制限から解放されるだろう。スカイボートをみてもわかるように、すでに〈積層現実〉は、たった一つの小惑星イシコロを調査するためだけにバカげた予算と限られた資源と貴重な時間を費やす時代に終焉をもたらした。我々は恒星間インターステラーを行き交う文明の一歩をもう踏みだしているのだ」


 悠日は、ウラや美結菜が〈積層現実〉の領域を超えてアーテルと地球を行き来したこと──そして、マナではなくマターを描き、操ったことを思い出した。


「〈積層現実〉は僕たちにとって、自転車に乗るための補助輪みたいなものなのかもしれませんね」


「その通りだ」頷く京介。「まだ人類はそこにまでは至っていない。〈基底現実〉に触れることができるのは魔女だけだ。だが、いずれ人類はそこに触れる技術を発明するだろう。そしてその時ついに、人類は〈彼〉と出会うことになる」


「〈彼〉……?」


「妻が言っていた。〈積層現実〉の最深域に存在し、輝く光を放つ存在──」


「〈古き光源オールド・スフィア〉」悠日は呟いてから、視線を京介に向ける。「〈彼〉は何者なんですか?」


「地球の〈積層現実〉には、それを生み出しアクセスを監視する〈魔法管理局〉がある。では〈基底現実〉にも同じような存在がいると考えられないのはなぜだ?」


「それってもしかして──」


「私にはわからない。だが、美結菜は〈彼〉と直接対話をしている。しかしそのせいで美結菜はもう長くは生きられない」


「……どうしてです? それは確かなんですか?」

「美結菜自身がそう話しているんだ。私にその言葉を裏付ける力はない。だが、美結菜のそれはどうやら我々が知る死とは異なるものらしい」


 固定されたバージョンがモーメントを繰り返す──とやらの話だ。


「美結菜は、今から数年間という時間を永久に繰り返していくのだと話している。そのたびに記憶や成長はリセットされ、回帰を繰り返すうちにすべてを失っていくそうだ」


 娘のことを語る京介の姿は、この時ばかりは娘を思い困惑する一人の父親だった。


「どうしてそんなことになっているのか私にはわからない。だが、美結菜がそう言うのなら、きっとそれは真実なのだろう。私はそれを信じないわけにはいかない」


 両手の指を固く交わせ、窓の外を眺める京介。魔女の夫となり、魔女の父となり、そして娘の誕生に合わせて愛する人を失った京介だ。彼はあまりに過酷な宿命を背負っている。


 重苦しい雰囲気が、悠日と京介を包んでいた──そんな時。


『心配ないさ、京介』唐突にシイナの声がした。


「シイナ。聞いてたのか」


『おいおい。僕を誰だと思ってるんだい? ナギハ社でマナ製品開発を務める〈積層現実〉ハッカー、シイナ・クアルさ! 〈紋白端末〉を介した盗聴なんてお手のものなんだな。とはいえ冷凍睡眠で記憶が開花していないってんなら同情するけどね』


 突然に明るい口調が降り注ぎ、溜息を吐いて呆れる京介。「お前の名前はクアル・シイナだろう。いつから姓名が逆転したんだ」


『チッチッチ。日本人の名前はファミリーネームが先に来るんだよ。もしかして日本人のくせに知らなかったのかい?』


 変なことを教えなければよかったと悠日は後悔する。


『お、同じくティゼ・レコーディです!』


「ティゼ!?」


 思わぬ不意打ちに、悠日と京介は目を丸くする。


『は、はい! すみません……! 美結菜についての話は僕も伺いました。それで僕は、どうしてもなにか役に立ちたいと思ったんです』


『心強い味方が僕の部下に加わったってわけさ』


『京介さん。悠日さん。……約束します。たとえ一生をかけてでも、僕は美結菜についての現象の解明と解決に全力を注ぎます』


 明るさと希望の割り込み通信、そしてティゼによる娘への覚悟を受けて、京介はどこか迷惑そうな顔をしていた。しかし悠日からしてみれば、それもまた父親としての表情だ。すぐにどこか割り切った表情に切り替わり、「任せていいんだな?」と、力強い口調でティゼの覚悟を再確認する。


『もちろんです』男らしい口調で、ティゼは答えた。


『あ、そうだ悠日。そのヒカリなんだけど、今さっき僕にすごい剣幕で通信をしてきてさ』とシイナは言う。『話を聞いていると、どうやら君にカンカンみたいなんだな。〝約束を破ったー!〟ってな具合で大変な騒ぎなんだよ。君と直接通信すればいいものを……なにか心当たりはあるかい?』


 悠日は記憶を探り、首を傾げてみた。なにか開花していない記憶でもあるのだろうか?


 京介が立ち上がり、片手をあげて去っていく。悠日は一人、食堂に取り残された。



 思い当たる節はないが、とりあえず、謝ることにしよう。なにせ相手は魔女なのだ。


 悠日は急いで、美結菜が待つ自分の病室へと向かった。

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黒色矮星の魔女 丸山弌 @hasyme

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