Layer19-√レ―珪素生物―
「《パソス》」
小さく呟かれた悠日の言葉の意味をキラミは理解していない。けれど彼女は、その笑みをそのまま驚愕の表情として停止させる。悠日はすでに立ち上がっており、刺された腹部に手をあてて、様子を確認していた。ナイフで刺された痕跡が服ごと元にもどっている。もちろん、あの強烈な痛みも綺麗さっぱり消えている。
「みんなに伝えてくれないか」悠日は穏やかな口調で言った。「もう任務は終了だって」
悠日は完全に勝ちを確信していた。何人が相手でも負ける気がしない。
キラミの横にアダムが転じてきた。悠日よりも若そうに見える、ブロンズ色の髪をもつ英国人の若者だ。アダムはすぐにフードを深く被り、目線を隠した。
「アダム! 私のバディなら、たまには役に立ちなさいよ!」キラミはヒステリック気味に叫んだ。
「……負けたの?」か細い声でアダムは聞いた。「あの、裏切り者に」
そして彼は、まるでキラミを守るかのように悠日との間に立って、構えた。両足を肩幅よりも広く広げて身体の正面を悠日に向け、右腕を水平に持ち上げる。そしてローブの袖をまくり、腕に刻まれた大きな〈紋白端末〉を光らせた。
「……不正端末か」とシイナ。
キラミが笑う。「そう。アダムは〈魔法管理局〉が許していない方法で〈積層現実〉にアクセスすることができる。……あなたと同じだよ、悠日」
キラミの読みは当たらずも遠からずといったところだ。確かに悠日は指輪のおかげで〈魔法管理局〉を介すことなくマナやマターを操ることができている。しかしそれを不正利用と言ってしまうのは、あまりに人間を中心とした言い方で正しくない。指輪が引き起こす干渉は、いわば単なる自然現象だ。
悠日は言った。「任務は終わりだよ、アダム。〈魔法管理局〉の機能は停止した」
できれば無理せず去ってほしかった。なぜならこちらには〈紋白端末〉無効化の力があるし、ウラ状態の美結菜までいるのだ。むしろ、それを知らないアダムに少し同情すらしてしまう。
不憫なアダムは強気だった。「任務終了の命令は受けていない。僕を他の魔法使いと同じに思っていると痛い目見るよ、悠日」
「悠日は知らないでしょ」キラミがアダムの後ろから言う。「この子、実はすごいエンジニアだった。地球の〈積層現実〉だとできなかったことも、アーテルの〈積層現実〉ならできることもある──そうでしょ? アダム」
キラミに返答する代わりに、アダムはコードを詠唱した。「《アピコニス》」
その言葉を聞いた瞬間、悠日のさっきまでの余裕が嘘みたいに消え去った。指輪からの情報が頭の中に入ってきたのだ。アダムがなぜ強気でいたのかが正確に理解できた──慌ててアダムの〈紋白端末〉を無効化する。
「《イナクティヴァーレ》!」
「すごい。僕の〈紋白端末〉が圏外になった」自身の〈紋白端末〉を眺めながらアダムが言う。「もう遅いけど」
それは悠日もよくわかっていることだ。自分の力を過信していた。
「参考までに教えてほしいんだけどさ」後ろから、シイナが聞く。「さっきの、アピ……なんとかって唱えたコードは、いったいどういうものなんだい?」
答えようとした悠日だったが、すでに異変が生じていた。
フードから覗くアダムの口元が、控えめな笑みを描く。
「聞こえるでしょ?」キラミが勝ち誇ったように言い、そして耳を澄ます仕草。
どこか遠くから、バサバサと布団のシートを靡かせるような音が聞こえる。そしてライオン一〇〇匹が同時に雄たけびを上げたかのような、身がすくむような何かの鳴き声が、ビルが立ち並ぶひと気のない通りにこだました。路地の向こうのビル壁に、それの影が影絵となって映り込む。トゲトゲした巨大な翼。長い尻尾。角が突き出た小さな頭部。長い前脚と後ろ足には、いずれも鋭い爪が生えている。
「冗談じゃない」とシイナ。「〈積層現実〉は生物を描けないハズだ」
やがて、そのシルエットの主が手前のビルの間から顔を出した。バサバサと周期的な風が路地に吹き荒れる。
黒い鱗に青い瞳を光らせる巨大な翼竜が、悠日たちの前に現れた。
「
小さな頭部から突き出たツノ、凶暴な牙。バサバサと音を立てる翼はゴツゴツとしていてコウモリの羽のようだ。
「こいつはもう制御できない。僕の〈紋白端末〉が無効になってしまったから」
その雷星竜がドンと両脚を地面につき、長い尻尾で背後の建物や路地を荒らす。胴体はずっしりと重そうに四肢に体重をかけている。長い首を持ち上げ、宝石のように輝く青い瞳が、今この場にいる全員を見回した。
アダムは片手を掲げ、自慢げに言った。「全長三〇メートル。攻撃を受けても、ちょっとやそっとじゃ線図崩壊しないよう自己修復できるように作ってある。マナや銃で攻撃しても──鱗は弾き飛ばせるかもだけど、ダメージには至らない。そしてすぐに鱗は再生する」
「興味深いね」シイナは引きつった笑顔で言う。「こいつを本当にマナで描写してるっていうなら、模擬的な生体部分は
「正解」アダムは嬉しそうに頷いた。「マナは有機物を描くことができないと広く知られているけど、もっと簡単に言うと炭素を描くことが苦手なんだ。もちろん一時的に描くことはできるよ。けど非常に不安定だ。植物も生物もピザもダイヤモンドも、描いたところですぐに線図崩壊してしまう。それはもしかしたら〈積層現実〉を作り出す黒色矮星アーテルが純粋な炭素のみの星であることになにか関係あるのかもしれないけど、……けどマナは、炭素が属するほかの第14族元素は描くことができる。特に金属元素はマナの得意とするところだからね。その中で唯一、非金属性質を併せ持つ珪素であれば、最外殻電子軌道の電子数が同じ炭素の代わりを担うことができる。ちなみにこのことは〈積層現実〉の技術が生まれる遥か昔から示唆されていたことだけど、残念ながら現実的だとは到底言えなかった──珪素が炭素に近い振舞いをするには摂氏二千度以上の環境が必要になるからね。でも、マナを使うとなると話は変わってくる。なにより、僕らみたいに代謝をしなくてもいいんだ。そうして僕はついにこの生き物を作り出すことができた──すなわち、〈珪素生物〉だ」
青い瞳でゆっくりと見回す雷星竜。
「驚いたでしょ、悠日」キラミが言う。「まさかアダムがマナ化学エンジニアだったなんてね。こんなことができるなんて、私もこの目で見るまでは半信半疑だった」
「そんなことよりも」とシイナ。「AIはどこの物を入れたんだい?」
「入れてないよ」アダムの返事に、シイナの表情が凍る。「人を攻撃すること。それ以外は僕が指示するつもりだったから」
つまり、それができなくなった今、雷星竜は完全にスタンドアローンな状態であるということだ。
雷星竜はアダムを見つめ、角を光らせる。それを見上げたアダムの表情に、ほんのわずかに儚さが宿った。生みの親である自分がターゲットになっていることを悟ったのだ。
「今日はたくさん喋った。一年分は喋ったかな。……疲れたよ」
そして次の瞬間、大きな破竹音が響いた。同時に一瞬の白い閃光。アダムは両腕を縮めて直立した状態で倒れた。何か不快なものが焼けた臭いが悠日の鼻をつく。アダムの身体の腹部から──電子レンジで肉がはじけるような音がして炎が飛び出し、白い煙をあげた。再び雷星竜の角が光る。
「キラミ!」
悠日は標的になっているキラミに手を伸ばした。なんら対抗手段を持たないキラミは、雷星竜の動きを見上げることしかできない。角が発光を強め、破竹音が響く。そのギリギリ手前で、悠日はキラミを抱きしめながら障壁を展開していた。その向こう側から瞬間的に強い衝撃がかかり、障壁はパリンとガラスのように割れて崩壊する。
「悠日……。あ、ありがと……」
前にもこんな風に美結菜を守ったことがあるな──と悠日は思い出しながら、キラミに目を落とす。やはり彼女は目も合わせられないほどの美人だった。香水とは少し違う女性由来のいい匂いが感じられ、悠日が腕を回している身体は細くか弱く、しかしそれでいて弾力があり柔らかい。そんな魅力的な女性を実際に抱きしめているものだから、今にも心臓が飛び出てしまいそうな程だ。
「《イグニス》」
唐突に炎弾が放たれ、それが悠日とキラミの頭上を越えて雷星竜に向かった。サッカーボール大の炎の塊は、雷星竜の鼻先の鱗で軽く弾かれて消滅する。悠日が振り返ると、ウラの姿をした美結菜が、手のひらを雷星竜に向けていた。
「ねぇ、悠日」凄まじいプレッシャーが彼女から放たれている。「もうドラゴンの攻撃は終わってるよ? なのになんでまだその人をギュッとしてるの?」
その強く低い口調は苛立ちにそのものだ。
「あら」とキラミは悠日の腕をより強く握りながら言う。若干、美結菜の反応を楽しんでいるようにもみえる。「もしかして、あなた──」
「面倒なことを起こさないでよ」美結菜はウラの威圧を最大限に活用し、顎を上げてキラミを見下した。「今の私たちは、本当ならこんなことに付き合っていられるほど暇じゃないんだから」
次いで美結菜は悠日までをも睨みつける。悠日が本能的にキラミを身体から引き剥がすと、若干ではあるがその表情が穏やかになる。
シイナがアダムの亡骸のもとに駆け寄った。「ヒカリ、オーケーだ!」と合図を送る。
雷星竜の角が光る。その場にいた全員が同期申請を受けることなく転じ、遠くのビルの深い深い根元で爆発が起こった。悠日たちは、気付けば超超高層ビルの屋上にいた。美結菜はアダムの身体にも手を添え「《パソス》」と復元のコードを呟くと──身体のいたるところが破裂し焼け焦げているアダムの身体がゆっくりと修復されはじめ、血色を取り戻し、そして目が開く。
「すごい。これが魔女の力……」キラミが驚きながら言う。どうやら彼女はもう、手に持ったナイフの使い方を忘れてしまっているようだ。
アダムが無言で身体を起こし、キョロキョロと周囲を見渡してから慌ててフードを被る。
「よかったね、アダム」キラミが言う。「あの魔女があなたの命の恩人だよ」
「僕を生き返らせたの?」アダムは美結菜を見上げる。「魔女の力ってやつか。そんなコードがあるだなんてとても信じられないけど……。でもそれが確かに実在しているのなら、僕たちだって使えるようになるべきだ。もし魔女が人類に対して敵対的でないのなら、だれでも人を生き返らせることができる素晴らしい時代になるよう世の中を導かなきゃいけないよ。それをいつまでも魔女だけの特権にしておくなんて、人類に対する裏切り行為だ」
美結菜はツカツカとヒールを鳴らしてアダムの正面にしゃがみ、フードをめくる。まだ幼さ残る青年の顔は、はじめこそムッとしながらも、すぐに照れたように美結菜から顔を逸らした。「……なんだよ」
「それは違うよ、アダム」
美結菜はアダムに優しく語り掛けている。こんな喋り方もできるのかと悠日はこっそり驚いていたが、ウラの外見がそう感じさせているだけなのかもしれない。
「聞いて。私たちはこの世界の大切なものを守りたいの」
いや、おれが守りたいのは美結菜だ──と悠日は心の中で思う。
美結菜は続けた。「あなたの発見はとても素晴らしいもの。だけど、とても悲しいもの。あの子みたいな作り物がこれから世界に溢れてしまったら、人間はもっともっと偽物の世界で生きていくことになる。違和感だらけの世界で、笑顔で、満たされなくて、だからさらに偽物を生み出して、そしてまた笑ってみて。そんなのって寂しいし、切ないよ。そんな未来が見えているのに、黙って何もしないわけにはいかないんだ。だから──敵対行為とか裏切りとか私にはわからないけど、でも私たちには役割があって、私たちは守るべきものを守らなければいけないんだ。人間が節度をもって〈積層現実〉と付き合うことができるようになるまでね」
美結菜の真面目でやさしい言葉を聞いていた悠日だったが、実はほんの少し笑いたくなってしまっていた。美結菜のやつ、まるで京介みたいな口ぶりなのだ。京介のその面影を思い出しながら、悠日は会話に割り込んだ。
「美結菜。アイツ、こっちに来るぞ」
悠日は先ほど爆発があったビルの根元に視線を向けていた。そこから、一つの影が飛び立ったのだ。美結菜は、アダムとキラミを強制的に都市の反対側へと転じさせた。
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