Layer6-√レ―文字列《コード》―


 












 ズシリと身体が重くなったのを感じた。重力だ。その重さで悠日は目を覚ました。エレベーターが停止し、四人は搭乗口からアップリスに降り立った。


「すごい! これがアップリス……」


 キラミは都市を見上げる。林立する超超高層ビル群は三〇〇階建て以上がザラで、直下からだと建物はどこまでも続いているかのように見える。キラミが集団を率いる班長のように手を挙げた。「みんな、私と同期して」


「同期?」悠日が首を傾げると、ちょうど正面に『キラミから同期が申請されました。承諾しますか?』とメッセージが出る。悠日がそれをタップしようとすると──そう意識した瞬間に、申請は承諾に切り替わった。


「《オスティム》」キラミの声だ。風が強くなった。悠日はいつの間にか都市を一望できるビルの屋上に立っており、フェンスを挟んで、さっきまでいたはずの都市下部が遥か遥か下に見える。一歩二歩と、思わず悠日は足を竦ませた。


 瞬間移動──天然の〈積層現実〉だからこそできる、人類がもっとも再現したい現象の一つだった。移動時間こそ社会の損失であり、社会を疲弊させている。それが一瞬で済む技術を、NALEAはなんとしても地球に持ち込もうと研究に研究を重ねている。しかし、単純なマナの描写や操作以上の現象がこれだった。瞬間移動の原理はまだ解明されておらず、空間と空間を結ぶものなのか、対象のコピー&デリートをおこなう恐ろしいものなのか明確ではない。


 アップリスは煌々と内側から輝く明るすぎる都市だった。様々なビルを一望でき、その中でも〈雲の糸〉は間近でみれば一つの巨大な白い塔で、一閃の直線を暗い夜空へと伸ばしている。一方、都市の背景となる空や果ては真っ暗闇の世界で、その手前には、薄っすらとした光の膜──〈電防繭〉が街を纏っている。峩とアダムも一緒に屋上にいた。


 キラミがケタケタと笑う。「すごい! 最初は迷ったけど、ホント調査員になってよかった! 私たちはアーテルの環境を誰よりも制約がなく誰よりも自由に使うことができる!」


「一番自由に使えるのは魔女だぜ」峩が静かに諭す。


「……そうね。もちろんそれはわかってる」


 キラミのその言葉には、ある種の嫉妬が混じっているのではないかと悠日は感じた。しかしそれよりも、本当に黒色矮星の都市にやってきたのだと──悠日はどこか夢心地気分で、改めて周囲を見渡した。そして視界の中にキラミの横顔が映る。フードを脱ぎ、金色の細い髪の毛が風によってさらさらと靡いている。ずっと見ていても飽きないモデル顔だ。その顔にある灰色の瞳が悠日の視線に気付く。


「さっそく情報を集めよう」と峩に呼ばれ、悠日は視線を中国人の彼に向けた。「不正アクセスが観測された場所は〈新天床〉との境目だ。座標は送られているハズだから検索してくれ。それと……悠日。もうその眼鏡はいらないぞ」


 言われて、悠日は眼鏡を外し〈積層現実〉が自身の網膜に映し出す座標を確認した。はじめは目をそむけたくなる英数字で表示されていたそれだが、すぐに映像としてその場所のイメージが広がる。〈転じフリップ〉を申請する場合は、網膜に表示された──しかし現実の空中に浮かんでいるかのように見える〈文字列コード〉を詠唱かタップする必要があるらしい。


「《オスティム》」


 ラテン語だろうか? 悠日が呟くと、突然、頭上をスルリとリニアモーターカーが通過していった。悠日が立っていたのは用水路の中のような〈新天床〉との境目となる溝だった。ちょうど頭上に鉄橋が走っている。どっしりした質感で所々サビ付いているようなノスタルジー溢れる鉄橋だったが、それは〈積層現実〉によりデザインされて描かれているもので、決して年季が入っているわけではない。どこかオモチャのような、演出のチープさを感じた。


「置いていかないでくれ」声と共に峩が現れた。文字通り、悠日の目の前に突然出現した。「今回は座標の見当がついたからよかったが、次から転じる時はちゃんとおれを同期させろよ、兄弟」


 片手をあげて謝る悠日は、網膜へ直接投射される情報に集中していた。


 この問題の座標から一番近い居住区は〈新天床〉から少し戻ったところにあるムス地区というところだった。ムス地区は超超高層ビルから少し外れた所に位置する、静かな雰囲気の住宅街だ。


 ムス地区は、様々な人種の居住者がそれぞれの伝統的な建物を描写して、そこに暮らしている。そのため街の統一感としては無秩序で、ヴェネチア風やシチリア風の家の横に日本風や東南アジア風の屋敷があり、またその隣にはギリシア風の建造物が建っていたりする。この地区には地球で暮らすことに飽きた富豪層が三〇〇年前に移り住み、そのまま土地を継承した子孫たちが暮らしているらしい。当初は土地の広さで暗黙の階級が決められていたそうだが、今はそのようなしがらみはないとされている。


「おれに策がある。……ここで暮らせ、悠日」


 二人はマントを脱いでムス地区の大通りを歩いていた。


「なんだって?」と、峩の〝策〟とやらを聞き返す悠日。


「年頃の男二人が一軒家になんて住めないだろ。一人暮らしが一番怪しまれない」


「まず、なんの話をしてるのかって部分から説明してくれ」


「潜入捜査だよ。ここの住民になれ、悠日。そして交流を深めろ。しばらくしておれがこの地区に〈魔法管理局〉として聞き取り調査にくる。お前はその後のコソコソ話に混ざれるくらい地域と仲良くなっておけ」


 普通に聞き取り調査をしてはいけないのだろうか? 峩の提案について、悠日はその意図を考えてみた。


「おれは保険か」もし万が一、ここの住民がすべてを知っていて──そのうえで魔女の存在を隠しているとした時の。


「まぁな。だがどちらかというと、中国人の風習に近い」


「ここにもチャイナタウンを作るとか?」


「すでに別地区にあると聞いた。あとで行ってみたいと思っている」


 中国人のその開拓魂は見習いたいものだ。しかしそれなら峩がここで暮らせばいいとも思ったが──悠日は聞き取り調査の際、うまく舌を動かす自信がなかった。口下手な自分は地道に住民の中に混ざる努力をした方がいいのかもしれない。


「やってみよう」と悠日は言った。「うまくこの地域に溶け込めるかわからないけど」


「お前ならできるさ。邪魔が入らないよう、他のチームにはムス地区に来るなって伝えておくよ」


 それから悠日はムス地区の単身者向けアパートで暮らすことになった。偽装引っ越しを終え──とはいっても〈積層現実〉での引っ越しはペンを持つ必要すらなかった。アパート内の家具はすべてマナで描写されている。家の間取りは自由だったので、慣れ親しんだ上田市の1Kアパートの間取りをここで再現した。狭い玄関。古いガスコンロと場所を取る冷蔵庫。洗濯機。鍵の引き渡しのため立ち会った大家──気さくな笑顔の中年男性──が、その部屋を見回しながら言った


「ノルタルジーですなぁ。ここら辺の電気機器を知っている住民はもうほとんどいませんよ」大家は空間に周辺地図を表示させながら言った。「スーパーはこの先にあります。ごみは転送員が毎日一〇時に転送しているので好きな時に出してください。アーテルではほとんどの無機物や金属類はマナで描かれていますが、一方でマナで代用の効かない炭素を含む物質──有機物はたいへん貴重ですので、必ず資源別に分けて出すようお願いします。特に生ごみですね」


 大家はその他、生活の注意事項と書かれた冊子──これもマナで描かれたもの──を一読するようにと悠日にそれを渡し、去っていった。


 マントを脱いだ悠日の一人暮らしがはじまった。朝起きて窓を開ける、今までどおりの一人暮らしだ。ただ大きく違うのは、見える景色が上田城ではなくアップリスの超超高層ビル群ということだ。

 外の世界では徐々に光量が落ち、人工的に夜が演出される──


 聳え立つ都市の灯りが電球色になっている。まるで夜の暗闇が怖くて豆電球を残す少女のような街の夜だ。悠日は横になり、眠りについた。


 翌日から、悠日は習慣をつくりはじめた。習慣づくりは一人暮らしを長く楽しく続けるためのコツだと峩が勧めてきたものだ。毎朝決まった時間に散歩をし、一、二週間したら町内会にもゆっくり顔を出していくことにする。同時に近所の様子も観察していった。


 この辺りで一番大きな屋敷を構えるのはレコーディ家だ。レコーディ家は伝統的なイギリスの邸宅に暮らしており、噴水と池を持つ庭は広く、マナで構成されたアンドロイドも多数抱えているようだった。


 その周辺に広がる屋敷は近い順からアラブ系居住者のスエイブ家、ギリシア系居住者のルノーア家、峩と同じ中国系居住者のワン家、悠日と同じ日系居住者の氷狩ひかり家となっている。それぞれの屋敷はみな広い庭を持ち、その敷地は青く光を反射するビニールハウス畑を二、三枚隔てて建てられていた。このハウスではいったい何を育てているんだろう? そう思いながら覗き込んでいると、一人の男が声を掛けてきた。


「都市から届く光を活用して植物を育てているんだ。ただ青い波長がよくないので、それは特殊なビニールで反射させてね。だからハウスが青く見えるんだよ」


 温かみのある声。翻訳ソフトを通さない生身の声だった。そこに立っていたのは、黒い短髪に無精ひげを生やした四〇代くらいの男性だ。細身だが、筋肉がありそうな引き締まった骨格をしている。


 男性は言った。「君は日本人?」


「はい。先日、地球から越してきました。悠日といいます」


「私は氷狩京介キョウスケだ。よろしく地球人さん。ウチはもう五代目くらいにはなるかな。完全なるアーテル人だよ」


 チェックしていた氷狩家の主人だ。目に力のある、風格ある男だった。


「日本人がいるのは心強いです。わからないことだらけなので、よければいろいろ教えてください」


「そうだね。〈積層現実〉は初めて?」


「いえ。最近、地元が〈積層現実〉の特区に指定されています」


「上田市!」


「そうです!」


「ニュースで見たよ。野山が美しく地球らしい場所だった。そうか、君はそこから」


「はい。天然の〈積層現実〉がある環境に憧れて」と、思ってもいないことを言ってみた。


「なるほどな」と京介は笑う。「それなのにこんな辺境を選ぶなんて、君はなかなか変わり者のようだ。就職のアテは?」


「恥ずかしながら、なにも」


「なるほど。行動が先行しがちな若者によくある状況だな。それでよく〈魔法管理局〉が入星を許可したものだ」京介は笑みを崩さないが、口調には若干の緊張感を忍ばせている。彼は無精ひげが生えた顎に手を添えた。「厳しい審査を通過した開拓者。企業内転勤。黒色矮星や〈積層現実〉の研究。新規事業立ち上げ。成績優秀な学生受け入れ。そして、特権。入星できる者の属性は、ある程度限られている」


『その男の言うとおりだ』と、通信で繋がっている峩が悠日に伝える。『本来アーテルで暮らせるのは──安アパート在住にせよ──何かしら特別な許可が必要になる』


 心の中で、悠日は少しだけ溜息を吐いた。そういう話は先に聞いておきたかった。


「きっと君も、だれかになにかを期待されてここにいるんだろう」と京介。


 どう答えれば正解か──悠日は心の中で迷った挙句、沈黙を選択することにした。ただにこにこと表情を変えず、京介を見つめ続ける。京介も笑顔のままだ。しばらくの間、無言の笑顔によるコミュニケーションは続いた。


「まぁ、答えることができない居住者も多い」と、最終的に折れたのは京介の方だった。


 悠日はその心配こころくばりに敬意を示し、小さく一礼した。


「だが、いいか悠日」突然の呼び捨てだ。京介の笑顔が、わずかに厳しいものになった。「古くから人間には役割が必要だった。役割によって人間は社会というものを形成した。社会のなかで役割のない人間が一人でもいると、そのコミュニティは徐々にぎこちないものになっていき、やがては崩れていく。なぜなら役割のない人間とは無知だからだ。もちろん無知が罪というわけではない。だが無知は身勝手を振舞い、無知は残酷を生み、無知は傲慢へ成り代わる。無知はその場に居続けようし、そして無知は伝染する。役割のない大人とはなにも知らない子供と変わらない。しかし子供と違うのは、彼らが大人であり、それ故に愚者であることだろう。無知は罪ではないが、愚者は罪だ──社会生活の中においては特にそれが言える。自分が愚者でないと証明するためには役割を持たなければならない。だが悠日。私はどうも君が愚者だとは思えない。つまり──君にはなにか役割があるように感じるんだ」


 心臓が鳴った。悠日の内を見透かしているかのような京介の目だ。沈黙を選択したことで、なにか気付かれてしまったのだろうか?


「いいか、悠日」と繰り返す京介。この男が次に何を言い出すのか──悠日は生唾を飲み込んだ。「役割を持つと、必ずと言っていいほど〝わからないこと〟と対面する。どこまでいっても、いつまで経っても、自分が無知だと痛感させられる。しかしそれでも役割をまっとうしようとする姿勢は決して愚かではないだろう──私が言っていることがわかるか? 悠日。私は今、私は私の役割を全うするために、次のように君に問いかけているんだ。それはすなわち、君は愚者なのか? それとも、歓迎すべきここの住人なのか? ということだ」


 悠日は少しだけ安堵した。どうやら核心的な疑いをもたれているわけではなさそうだ。むしろ自身の中のその疑いを晴らそうとして、京介は問いかけをしてきている。とはいえ、京介は間違いなく何かを悠日から感じ取っている様子もある。


 悠日は慎重に答えた。「僕は無知だからこそ、この星にやってきました。なのでこの星では、僕が無知に甘んじようとしていないことを証明したいと思います。僕は住民のみなさんに歓迎されるでしょう」そして答えてから、なんとなくだが──悠日はこの自分の発言が京介との約束ごとになったように感じた。


「賢い答えだ、悠日。愚者は無知でないと叫ぶ。賢者は謙虚だ。物事を知れば知るほど無知になることを知っている。自分が罪深いと知っている。お前はその辺のことがどうやらわかっていそうだ。おれは悠日を歓迎しよう」


 氷狩京介。とても賢い人物のようだった。

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