Layer4-√レ―炭酸水と星の泡―

 












 ぼんやりとした意識があった。


 真っ暗な世界。気泡が生じる音がする。それが水面でしゅわしゅわとはじけ、目を開けると、ソーダの泡が暗闇に煌めいて見える。ぼーっとした意識ながらも自分の意識がここにあることを悠日は自覚した。ここ……? ここって、どこだ?


 悠日は辺りを見渡した。暗い部屋だ。天井はなく、延々と暗闇と光の粒が点在している。悠日は小さい頃、黒いテーブルに炭酸水を零してしまったある日のことを思い出した。細かい気泡が黒い背景の中で光り、はじける世界。まるでそれは宇宙のようだった。


 オレンジ色の電気がゆっくりと点灯した。悠日は柔らかいベッドの上にいて──体を起こし──果てまで続いているようにみえた天井は一面ガラス張りだった。悠日の左右には同じくベッドが等間隔で並べられており、その上で悠日のように身体を起こしている者や、横になっている者がいる。


 床頭台にペットボトルと眼鏡が置いてあった。おそらく〈ガラス体〉だ。自分のものではなかったが、悠日は手に取ってかけてみる。そして右手の甲を持ち上げようとしたが──その前に眼鏡の先の空間に、どこかで見た覚えのある男性のホログラムが表示された。


「おはよう調査員。君たちは冷凍睡眠から覚めたところで、今はまだ多くの記憶を展開できていない状態にある。今からその記憶を開花させたいので、まずは話を聞いて欲しい。私はヴィアル。〈魔法管理局〉の人事担当だ」


 悠日の頭の中で、パッと記憶が広がる感覚があった。なんの前触れもなくNALEAからメールがあり、ヴィアルが現れて、ジャクソンビルへ連れてこられたのだ。しかし──冷凍睡眠? 記憶を開花させる? なんの話かさっぱりわからなかった。


「あれか……ごほっ」


 言いかけた所で、悠日は酷くむせた。声帯が喉の奥でくっついてうまく声が出ない。ペットボトルを手に取って蓋を開ける。シュッとガスが溢れ、容器の内側に気泡が煌めいた。中身は淡泊な炭酸水だった。口をつけるとそれは喉に沁みて、まるで生き返るようだ。


 改めて「あれからどれくらい経ったんですか?」と悠日は聞く。


「質問は受け付けていない。これは録画データだ」とヴィアルのホログラムは言った。特定の質問が入った際にカウンター的に挿入されるメッセージのようだ。


 ホログラムのヴィアルの解像度は極めて細かく、サイズは等身大だった。油断していると本当に実在しているかのような錯覚を起こす。見分ける手がかりとしては、光源を無視して描写されているため異様に浮き出た明るさを持っていることと、影がないことだ。そして眼鏡をずらすと、そこには誰もいない。これは〈拡張現実〉だった。しかし、その発生源であるハズの〈紋白端末〉──悠日の手の甲──は光っていない。


 目を擦ってしっかりと手の甲を確認してみると、どうもタトゥは綺麗にそこから消えている。ではこのホログラムはどこから生じているのか──意識して視界の中を探してみると、〈紋白端末〉はどうやら悠日の両小鼻に目立たない形で彫られているようだった。最新機種なのだろう、しかしこの辺りの記憶は全く思い出せない。


 サングラスの白人男性──ヴィアルは言う。「君たち調査員はすでに訓練を終え、四年前に最新鋭スペースシップ〈ルーフス〉に搭乗しアーテルへ向かった。つまり君たちが持つ最新の記憶はもう四年前のものだ。それから四年経った今〈ルーフス〉の船内で君たちは目覚めたのだ。現在も〈ルーフス〉はアーテルへと向かい航行中であり、地球からの距離は253AUだ」


 単位の解説が目の隅に入る。しかしそれよりも悠日は驚いた。初めて出会った頃とやや口調が違うこの男性は、あの記憶からもうすでに四年の時が経っていると言っている。悠日にとってヴィアルと共にエレベーターを下ったのは、つい今しがたのことのように感じられる。それが四年前と言われても、なんとも実感がわかなかった。


「航行は順調に進んでいる。船はアーテルに繋がる入星都市シェアルに到着する予定だ。シェアルは主都アップリスから〈雲の糸〉と呼ばれる軌道エレベーターで繋がっている。ちなみにシェアルはアーテルの〈積層現実〉圏外なのでマナは操れないことを忘れないように」


 ここで冷睡室の奥から誰かが歩いてきた。ホログラムではないが、その姿がすべて見える前に影の中に〈ルーフス〉〈素体〉という二つのタグが眼鏡の中に浮かびあがった。


 ヴィアルのメッセージは続いている。「そろそろスペースシップ〈ルーフス〉の〈素体〉が動き出した頃だろう。〈ルーフス〉はこの船の名称であり、搭載されたAIの名前でもある。彼女からもまた、任務についての説明があるだろう」


「彼女……。AIに性別が?」思わず悠日は呟いた。


「質問は受け付けていない。これは録画データなのだ」


  悠日は外人のように肩をすくめてみせる。


「君たちが地球で積んだ訓練を完全に思い出すにはまだしばらく時間がかかるだろう。しかし君たちの身体はすでに任務に耐えることができるよう鍛えられている。安心して任務に従事して欲しい。それでは最後になったが、今回この人事異動を快く受け入れてくれたことに感謝する。ありがとう」


 サングラスをかけた顔が少しだけ笑うと──そうと思った瞬間にホログラムは線図崩壊した。


「おはようございます」


 小さな女の子を思わせる声がした。崩壊したホログラムの奥から、背の小さい──白いローブを羽織り、フードをすっぽりかぶった人影が現れた。


「私はこの船〈ルーフス〉の〈素体〉です。シェアル到着まであと一二〇時間ほどになります」


 フードを覗き込むと、真っ赤な髪の毛に真っ赤な瞳の少女の顔があった。悠日の眼鏡が相手の網膜を解析する。


『〈素体〉。ナギハ社製EKH18976型。個体識別名称・ルーフス』


「まずは食事をどうぞ」


 ルーフスがそう言うと冷睡室の照明が切り替わり、灯りは一本の通路を浮き上がらせた。他のベッドから次々と調査員が起き上がり、歩きはじめている。悠日もその流れに加わった。後ろからポンと肩を叩かれる。四角い顔をした東洋系の男性が微笑んでいた。


だ。悠日だろ? おれたちはバディになるということを覚えている。よろしくな」

 悠日にその記憶は全くなかった。どこか狐につままれているような夢心地のまま、悠日は「よろしく」と呟き、食堂に向かった。



 *



「なんで僕がこんなところにいるんだ!」


 悠日と峩が食堂に入ったとほぼ同時に、そんなヒステリックな声が聞こえた。


「みんな僕を騙しているんじゃないか!?」


 騒いでいるのは、細身で長身、まだ十代にも見える若者だ。彼はブロンズ色の髪の毛をさらさらと揺らし、食堂の中央で、集まってきている調査員たちに敵意を向けている。


「ここはどこなんだ!? 地球から253AU!? ついさっきまで僕はロンドンにいたんだ! 僕は騙されないぞ!」


「不憫だな」峩が呟く。「異動の記憶がまだ開花していないんだろう。おれも記憶が戻らなければ、きっとああなっていた」


 ルーフスも食堂に入ってきた。「アダム・オーシャンアイズ。誰もあなたを騙してなどいません」ツカツカと感情のない言葉を発する。「すべてはホログラムで説明があった通りです。ただし、あなたは相当悩んでこの任務を受け入れました。その時の決断がリセットされたのですから、混乱は当然です」


 ルーフスとアダムはしばらくやり取りをしてから、船内を確認してくると言って食堂から出て行った。悠日と峩はビュッフェ形式の食堂で野菜やら肉やら穀物やらを盛り付けてから、二人で座れる席を探す。食堂は妙に広く、それほど苦労はしなかった。


 この食堂にいる人の数を数えてみると、自分たちと同じように冷凍睡眠から目覚めたばかりと思われる調査員は、出て行ったアダムを除いて十一名。〈ルーフス〉の船員を証明するタグを表示させている男性が三名いた。この食堂には六人掛けのテーブルが八つ用意されている。タグ付きの船員は三人固まって一つのテーブルを利用していて、空いているテーブルに点々と調査員たちが座っている。


「しかし不思議だな、人間の脳ってのは」席に座った峩が、スパゲッティを巻きながら言った。「冷凍睡眠は、状態が落ち着いた段階でおれたちの脳みそを完全に停止させた。だとしたら、電気信号の流動によって保持された記憶は二度と復元できないはずだ。それなのに、個人差はあるもののおれたちはそれをしっかりと思い出すことができている」


「電気信号をやり取りしやすいように、脳細胞が構造的に変化してるのかもしれないですね」悠日はシーフードサラダのエビ、エビチリのエビ、エビピラフのエビを順に食べながら言った。「人間の記憶力はそんなに大容量ではないですけど、圧縮技術は驚異的だという話を聞いたことがあります。その圧縮された情報をどのように検索しどのように解凍するか──峩さんはうまくいったようでうらやましいです。僕は未だに、ジャクソンビルに到着して以降の記憶を思い出せません」


「そのうち開花するさ。それよりも、その気持ち悪い敬語をなんとかしろ」


 峩は席をたち、プレートを持ってまた別の料理を取りに行った。悠日も追いかけようと思ったが、若干胃が重かった。もっとも、一年近くも寝ていたのだから当たり前だろう。


 食事を終えたままその席でくつろいでいると、ルーフスが調査員たちを〈ルーフス〉のデッキへ案内した。宇宙船内部は、悠日が知る現実的かつ古典的なつくりとは違い、クルーズ客船のように廊下が広く、一つ一つの個室も大きそうだ。重力もしっかりある。デッキはガラス張りのホテルのフロントのような広間で、絨毯は厚く、座り心地の良さそうなソファがランダムに配置されいる。


 ガラスの先は宇宙空間だ。それは〈ルーフス〉の進行方向を一望できるようつくられていたが、船内が明るいため、そこに映るのは暗い闇の世界でしかない。遅れてアダムもやってきた。どうやら落ち着きを取り戻してたようだ──しかしその表情は冴えておらず、ふてくされているように見える。まだ記憶が戻らず、納得できていないのかもしれない。


 デッキの電気がゆっくりと消えた。灯りのフェードアウトに合わせ、宇宙からキラキラ輝くの光の粒があふれだす。もう少し暗闇に目が慣れる必要がありそうだったが──その景色に周囲から「おお」と感嘆の声がもれた。地球ではまずお目にかかれない、一面煌めく星の海。宝石を散りばめたかのような大宇宙だ。


 星々の中で特に目立っていたのは、月ほどの大きさで輝くアンドロメダ銀河だった。Wを描くカシオペア座も地球でみるのと同じ姿で確認できる。〈ルーフス〉は、どうやら地球から見て冬の夜空方向に向かっているようだ。なにより悠日は宇宙の明るさに驚いていた。天の川銀河を形成する星々も青白く輝き、デッキは幻想的な灯りに照らされている。


 その中に一点、煌めく星たちを黒く塗りつぶしたかのように、なんの光もない異質な暗黒の空間がある。


「あれが、私たちの目的地です」とルーフスが言った。


 デッキの窓がその黒い空間を拡大する。


「黒色矮星、アーテル」峩が呟いた。


 眩しい夜に、穴があいているかのような光景だ。それからは日を追うごとに〈ルーフス〉はアーテルへ近づいていった。アーテルははじめはサッカーボールほどの大きさだったが、三日もすると宇宙一面を覆うかのような大きさになった。つまり、デッキから見える風景はほぼ暗闇となったのだ。


「おいおい、近過ぎねぇか?」峩が笑顔を引きつらせて言う。


 悠日も同感だった。ヴィアルに連れられスカイボートに乗った時のことを思い出す。宇宙飛行士がみる光景──アーテルは今、その時の地球と同じくらいの大きさに見えた。このまま直進していたら、数時間後には地表に衝突してしまうのではないだろうか。


「心配いりません」とルーフスがやってくる。「近く見えるのは、アーテルがそれだけ巨大な星だからです。我々はまだアーテルの重力圏内にも入っていません」


 悠日は、真っ赤な髪の毛を白いフードで隠している少女に質問をした。


「そもそも、黒色矮星って?」


「教わっただろ」横から峩が言うが、悠日はまだ思い出せていない──というより、もう忘れてしまったと言った方が正しいのかもしれない。


 ルーフスは紅い瞳を悠日に向けて答えた。「赤色巨星が超新星爆発をせず白色矮星になり、そのまま化学現象を終えた星のことです。量子コンピューターによって太陽系からほど近い星々の動きをシミュレートした際、当該座標に高重力体の存在が示唆されました。ここに重力がなければ、星の動きに矛盾が生じてしまうことが計算によりわかったのです。しかし地球からの観測では、そこになにがあるか観測することが中々できずにいました。今考えれば当然のことです──黒色矮星は光を吸収する天体であるため、ある種のステルス機能を備えているからです。それでも研究者たちは暗黒物質の分布などあらゆる要素を盛り込み、〝そこに目に見えない天体があるはずだ〟との結論を出すに至りました。とはいえ黒色矮星は超高齢の星です。それが黒色矮星であると識者たちが納得するには時間を要しました。今の宇宙の年齢からすると、黒色矮星の存在は疑問視されるからです。その黒色矮星のアーテルですが、星齢は推定一兆歳とされています」


 峩が肩をすくめる。「宇宙の歴史がまだ一三八憶年だっていうのにな」


「その矛盾に今も答えは出ていません」


 悠日は再びアーテルを眺めた。一兆年前は、この星も太陽のような恒星として光り輝いていたはずだ。それが今や暗黒のこの姿となっている。その一兆年という時を、この星はどこでどうやって過ごしてきたのか──ビッグバンの前からだろうか。それとも、どこか別の場所から──?


 眩しい宝石が散りばめられた宇宙を穿つ、漆黒の穴──アーテル。悠日が持つ疑問も、その穴の中に吸い込まれていくかのようだった。

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