Layer2-√レ―積層現実―

 












 悠日ユウヒはアパートから上田城を眺めていた。雄大な城に六文銭の旗が靡いている。


 日本国、長野県上田市。今日は天気が良い日だった。青すぎる快晴。城の向こうで白い雲がゆっくりと通り過ぎていく。過去には遺跡だった上田城は、今は〈積層現実〉の恩恵によって完全に城の姿を復元させている。


 上田市は、アーテルの〈積層現実〉が人工的に再現された実験特区だった。数年前、〈積層現実〉を管理するNALEAナリア国際積層現実NAtional Layerlity研究開発機構 Exploration Agency)によって『積層現実に関連する科学技術振興に資する条約』が制定され、それを批准する国につき一都市を上限に、実際に〈積層現実〉を人々の生活領域で稼働させ、それが都市機能や暮らしぶりにどのような影響を与えるか検証するモデル地区の設置が進められている。


 上田市は、誘致に対する市民の理解度が高く、人口は少なすぎず過密すぎずで、歴史的建造物の再現も意義深く、かといって〈積層現実〉に依存しなくとも維持できる文化があり、導入にあたって最適なバランスであると評されていた。そんな地方都市に悠日は暮らしている。ただし、望んで暮らしているわけではない。NALEA職員として否応なしに派遣されているのだ。


 ほんのり温かい風が部屋の中に入ってきて、退屈をボーっと紛らわしている悠日の前髪をさらさらとなびかせた。この街に来てからは本当にやることがない。上田市は田舎だった。商業施設が少なければ人も少ない。しかしなぜか車だけは多く、夕方には慢性的な交通渋滞が発生する。


 せっかくの〈積層現実〉なのだから、仮想マナ粒子を利用して巨大なテーマパークをつくったり、空に道路を作ったりすれば、この街に暮らす人々の生活の質Q O Lは確実かつ圧倒的に向上するはずだ。ところが日本政府は仮想粒子による建築物描写やインフラ整備に慎重だった。その気持ちもわからなくはない。中国では〈積層現実〉が突然シャットダウンして高層ビル群が消滅したため、多くの人が空中に放り出されて落下し犠牲となる事故が起こったばかりだ。人工的な〈積層現実〉は、まだまだ未完成だった。


 夕方のラッシュまでには、もう少し時間がある。特にやることもないので、悠日はいつもどおりドライブでもすることにした。退屈しのぎと、一応、NALEAの〈積層現実〉観察官として、街の状況を把握して分析するという任務がある。


 悠日は手の甲の〈紋白端末タトゥ〉を操作し、車を申請した。〈紋白端末〉は二〇五〇年頃にはもう生み出されていた古い発明品だ。肌に彫られ埋め込まれた端末は、ただそれだけでは白く光る紋様でしかない。しかし〈ガラス体〉という特殊加工されたディスプレイを介して覗くことで、その紋様が立体ホログラムとして表示され〈拡張現実〉として機能するのだ。〈ガラス体〉にはいくつか型があり、コンタクト型と眼鏡型が主流だった。しかし〈積層現実〉が展開されている上田市の中では、その〈ガラス体〉も必要ない。空間そのものがディスプレイの役割を果たしてくれるためだ。


〈紋白端末〉から『実行?』というホログラム文字が飛び出して、その立体ゴシック体がゆっくりと回転している。悠日はその文字を軽くタップした。質感がある。


 なぜ〈積層現実〉は実体を持つ仮想粒子を描くことができるのか──この新たな時代の幕開けは、黒色矮星アーテルへの有人飛行が成功してからはじまった。


 黒色矮星アーテルは、宇宙に光り輝く恒星の粒子が燃え尽きて残骸だけが残った、いわば命を失った星だ。星の構成元素は純粋な炭素で──それは想像を絶する高温と高重力と長い歳月によって練り込まれ、半導体に似た超高位の結晶ダイヤモンド相となり網目状のネットワークを構築している。さらにそのネットワークは部分的に対称性のある数学的構造を形成し、それは炭素相の物理構造を一部超越して形成されていたため、ネットワークに特定の信号インプットを走らせることで、その数学的構造周囲にすら形式的体系圏域を発生させる状態になっていた。これら刹那の作用と伝播の自然現象は、そのために理論化が容易であり、それは数学的構造内で三次元配置された二次元面からの三次元世界を描くだまし絵トリック・ホログラフィー的な一面の定義も内包している。そうして生まれたものがアーテルの〈積層現実〉というキャンバスであり、仮想粒子の正体だった。


 悠日の要請により、アパートの駐車場に緑色の線図が現れて蚕の糸のように絡み合い、段々と車の形を生み出していく。


〈積層現実〉によるデータ描写は、この街ではもう珍しいものではない。線図にボディが貼り付けられ、悠日が申請した白い四つ目のスポーツカーが構成された。靴を履いて一階に降り、車に乗り込むと、スピーカーから明るい挨拶が流れる。


『市営〈積層現実〉特区カーシェアリングサービスのご利用、誠にありがとうございます。こちらのサービスは上田市内に限り無料でご利用いただくことができます。それでは行先を〈紋白端末〉からドラッグ&ドロップまたは車へ直接入力してください』


 特に目的地はなかったため、悠日は車のオートドライブ機能を解除し、ハンドルを握りしめた。車内のあちこちに『車内を傷つけないでください』というステッカーが張られている。その下部には小さな文字で『仮想粒子は一部でも傷がつくとすぐに崩壊してしまいます』と書かれている。もちろんこの車は多少の傷では崩壊しないよう──あるいはそうそう傷がつかないような処置がされているはずだ。ステッカーは悪質ないたずらを牽制するためのものだった。


 車の座席は革張りで、身体を包み込んでくれるように柔らかい。しかし、どこかおもちゃの世界に生きているかのような感覚があった。というのも、車内には汚れがなさすぎるのだ。仮想)粒子で描かれた物質は、どこか違和感がある。


 車は千曲川に架かる橋を渡り、右折して、悠日はそのまま川沿いに車を走らせた。途中、結婚式場を通り過ぎる。上田市が〈積層現実〉の特区になってから、この式場の予約が殺到しているらしい。お目当ては特区特別ウエディングプランだ。〈積層現実〉を活かす、まるで式場が天空にあるかのような演出。どこかの魔法学校のような、空飛ぶ燭台とキッチンから隊列を作り流れてくる食器たち。花婿も花嫁も羽のドレスを身にまとって、とても幻想的な式を挙げることができるそうだ。


 文化が、変わりはじめている。


 悠日は車を走らせ続けた。徐々に夕刻となり道が混みはじめてきたころ、悠日はアパートに戻ってきた。狭い1Kのアパートだ。上着を脱ぎ捨て、今日のレポートに手を付ける前にベッドへと倒れ込む。この田舎での〈積層現実〉観察官としての暮らしはいつまで続くのだろう。新卒でNALEAに就職し、世界的かつ文明最先端技術に携わる機関職員であることや、年齢別平均月収を越える給料であることに胸を撫で下ろす儀式は今も定期的に繰り返している。就職活動時代の悠日は、人生をしくじるわけにはいかないという漠然とした危機感でいっぱいだった。しかし、いざ就職してみると、その仕事は末端だった。世界各地を転々とし──これはいい。一つの土地に根を張らないのは悠日の性に合っていた──、その土地に〈積層現実〉が導入されたことでどのような変化が起こったかをレポートする退屈で単調な仕事内容だ。悠日はそれを五年間続けている。そろそろ別の変化がほしくなってきていた。〝上〟にだって関心が出てくる年頃だ。けれど、そんな音沙汰は一向にない──


 睡魔の成すがままになった悠日は、夢の入り口がいつだったかわからなかった。夢の中の自分は手慣れたようにくたびれたスーツを着て、ワンルームの一室を出て行く。出勤する人々の群れに紛れ込んでダルそうに駅まで歩き、途中、子供にぶつかって本気で怒鳴り散らした。けれど一度仕事がはじまれば、悠日は誰よりも肩を丸めて周りの様子を伺い、常に謝りたおしていた。上司の荷物を両手で大切に抱える。──おれは何してるんだろう。ここはどこだろう。もっと大切な役割を持って生きてきたように思っていた。


 朝日が差し込んできて、カーテンを開けっ放しで寝てしまっていたことに気付く。時計を見るとまだ朝の六時だった。もう少し眠ていても大丈夫だ。悠日は目を閉じた。


「ここは……」


 突然声が聞こえたので、驚いて目を開ける。窓際に誰かいた。外からの光でちょうどシルエットになっていたので顔を見ることはできなかったが──泥棒……? しかし軽く目をこすったら、その影はいなくなった。悠日はドッと枕に頭を落とす。……病んでいるのだろうか。今の人影はなんだか自分に似ているような気がした。まるで先ほどの夢の中から出てきたかのようだ。


 ベッドの中でほんの少しだけ目を閉じて過ごしていると、『ピンポーン』とアパートのレトロなチャイムが鳴った。自慢ではないが来客の少ない我が家なので、来客といえば宗教勧誘か受信料の徴収くらいしか思い当たらない。いつもなら居留守を使い、無駄なエネルギーを消費しないようにしている。しかし今回は、同時に〈紋白端末〉が強制通知メールを受信した。件名には『異動通達』と書かれている。本文は固く丁寧な言葉で何十行も文章が連なっていたが、要約すると『人事担当が直接説明に行く』と極めてシンプルな内容だ。またチャイムが鳴る。玄関へ行き扉を開ける。背の高いスーツ姿の男が一人、立っていた。細身の白人で、ツンツンの金髪に、黒いサングラスをかけている。〈紋白端末〉が白く発光し、リアルタイム翻訳アプリが起動する。


「〈魔法管理局〉人事担当のヴィアルです」


「はぁ」


〈魔法管理局〉はNALEAが持つ外郭団体であり、正式名称ではないが彼らはそう名乗っている。〈積層現実〉のテクノロジーを専門に扱うスペシャリスト部門だ。


「身分証です」


 ヴィアルのサングラスの表面に白い線図が走り、彼の顔の横にパスポートのような写真と文字列が浮かび上がる。


『有効な身分証明書です』悠日の〈紋白端末〉が反応した。しかしその写真でも彼はサングラスをかけている。……果たしてこれで〝有効〟なのだろうか。


「NALEAからの通達はすでに受け取っていますか?」とヴィアルは言った。


「はい。ついさっき。……あがりますか?」


 けれど彼は「いえ」と首を振り、悠日に一枚の封書を手渡した。



  辞令

  NALEA所属

  日本国 上田市

  積層現実 観察官 悠日 殿


  魔法管理局 調査員に任命する



 シンプルな文字列で記載された内容を悠日は見つめた。〈魔法管理局〉の調査員?


 悠日の様子を見てヴィアルが頷く。「あなたは調査隊に選任されました」


「調査隊、ですか……」でも、一体なんの。


「あなたは〈魔法管理局〉調査隊の一員としてアーテルへ派遣されます」


 アーテルへ派遣。何のことかわからなかったので、悠日はゆっくり考えた。要は、また異動だ。悠日のような若手の独身職員は時々こういう目に遭わされる。本部はこちらの都合など一切考えていないのだ。そして、今度の異動先は、アーテル。……アーテル?


 それは、もしかして、あの黒色矮星の──



 思わず、悠日は取り乱した。

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