紅につづく道の果て<後>
「にゃーではないと、何度言えば理解するか。小豆丸め」
「ぼく、べにまるなの」
「小豆を洗うのならば、小豆丸だ」
「にゃー、いじわる」
「にゃーではないっ!」
灰色の毛を逆立てて、二又の尾をピンと張った雷獣が唸り声をあげている。
猫ではないというけれど、紅丸にとって彼は、近くに寄って触ってみたいと思っていた「猫」という獣だった。
逃げるように家を離れ、刻を待つのはよくあることで。人の邪魔にならぬよう、軒先から離れた道の端に座っていた。
そんな折、道のあちらこちらでよく見かけた獣が、猫。
尾をあげて歩く姿は堂々としており、いつも自信なく隅っこに座っている自分とは真逆の存在に思えたのだ。これがきっと「恰好がいい」というやつなのだと考えていたことを、紅丸は覚えている。
白旺という雷獣は、とても恰好がいいのだ。
ゆえに、同格として
もっとも、紅丸にとって「はくおう」という名が、ひどく呼びづらいことも理由の一端にはある。
名というものは、決してたがえてはならぬもののはず。きちんと呼べるようになるまで、大事にとっておきたいと思っているのだ。
にもかかわらず、白旺はといえばこちらを「小豆丸」という名で呼ぶのである。
にゃーは、ぼくのこときらいなのかな。
ずんと胸が重たくなって、紅丸は泣きたくなる。
白旺だけではなく、絲や佐田彦も、みんなが自分を厭うているような気がしてきて、紅丸は苦しくて苦しくて仕方がなくなる。
きちんとしなくちゃ。
ぼくは小豆を洗わなくちゃ。
そうじゃなくちゃ――
きちんと綺麗にするまで、帰ってくるんじゃないよ。
ぞわりと背中に何かが覆いかぶさってきて、紅丸は震えた。
その時、カタリと戸が開く音がして、振り返る。
絲は店の手伝いをしているし、佐田彦はどこかへ出かけている。
紅丸は、白旺と留守を任されていた。今日のお仕事は留守居役なのだと、そう言われているのだ。
「おや、留守かえ?」
「…………あ」
「なんだい、坊や一人かい? ――いや、いるじゃないか、そこにイタチが一匹」
「イ、イタチでは、ない、のであるっ。お、俺様は、いと気高き、雷獣様なのである」
「まったく喧しいね、喰ってやろうか」
「ぴいぃ」
艶やかな着物を身に纏った女性――玉藻前は、天井に潜んでいる白旺に笑いかけると、次にこちらを向いた。
赤い紅がゆっくりと開き、その瞬間、紅丸の身体は強張った。
「紅丸、といったかい?」
「…………」
黙ったままの紅丸を見やり、玉藻前は笑みを浮かべる。
「おまえさん、そんなに私が恐いのかい? いいや、おまえさんの恐いものに、似ているのかい?」
「…………」
「なるほどねぇ。誰だい? そうかい、母親かい」
「……ちが、うの」
「違わないさ。おまえは、母親が恐かったんだよ。だから、似た私が恐い。そうだろう?」
母親に似た女が、似た口調でそう言った途端、遠く記憶の彼方で声が響いた。
なんだい、その顔は。
おまえは私が憎いというのか。
なんて忌々しい子だろうよ。親を嫌うだなんて、まったく鬼のような子だね。
ペチリと音を立てて叩かれた小さな腕が、赤く腫れあがる。
頬に、背中に、足に。
赤く熱を持った痕が刻まれる。
童は、ごめんなさいと何度も謝罪した。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
ぼくはわるいこだから、だめなこだから、たくさんぶたれるのは、しかたがないの。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ぼたぼたと涙を流しながら、頭を抱えて座り込んだ。
忘れていたことを思い出して、紅丸はうずくまった。
絲が、佐田彦が。
優しくしてくれたから、忘れていた。
何故、小豆を洗うのか。
そうしなければならぬ理由。
そうしなければならぬと、己を戒めていたその理由。
言われたことをなさなければ、きっともう、一緒にはいられなくなるからだ。
それが嫌で。
ずっとずっと一緒に――傍にいたくて。
だから紅丸は、きちんと「仕事」をしなければならないのだ。
「留守宅に上がり込んで、格下の者をなじるなど、不届き
「なんだいイタチ」
「イ、イタチでは、ないのであるっ」
「……にゃー?」
「なにをしておるか小豆丸。このような者の戯言に、惑わされておる場合ではないのである」
紅丸が顔をあげると、天井の梁にいたはずの白旺が、いつの間にか傍らに立っていた。
見上げていた時は灰色に見えた毛並みは、こうして近くに来ると、光の加減か白く映った。
小刻みに震える尾は、武者震いか恐怖か。
だが、どちらにせよ、あんなにも逃げまどっていた白旺が、玉藻前に対峙しているのだ。なんと気高い姿なのだろう。
涙に濡れた顔をぬぐい、紅丸は顔をあげた。
すると玉藻は膝を折り、こちらに目線を合わせたものだから、目を丸くする。
「母親」は、こんなことはしなかった。
違うのだと理解する。
似ているけれど、まったく別の人なのだと理解した。
「おまえは良い人に出会ったものだね」
「よいひと?」
「悪縁は絶たれた。おまえはおまえの縁を結んでいける。これから、幾らでも。おまえは始まったばかりだよ」
言っている意味は少しも分からない。
けれど、悪いことではないのだろうということは伝わってくる。
赤い紅も、くっきりとした目元も。恐ろしく映っていたはずのものすべてが、柔らかく感じられるのは何故なのだろう。
ほっそりとした指が伸びてきて、身体が強張る。けれど、背中をあやすように撫でられ、顔がゆるんだ。
「絲のことは好きかい?」
「すき」
「なら、佐田彦のことはどうだい?」
「すき」
「――そうかい」
玉藻前は、何故か泣きそうな面持ちとなった。自分はまた悪いことを言ってしまったのであろうかと眉をさげると、くすりと笑われた。
「おまえは赤子のようなものなのだから、そのように思い悩む必要などないよ」
「あかごってなに」
「名を覚えているかい?」
「ぼく、べにまる」
「それ以前のことだよ」
「……なまえ、ないの」
問われ、思い出した。
そもそも、名なぞなかったのだ、と。
記憶していないわけではなく、初めから名付けられてなどいなかったのだ。
あんなにも心が震えたのは、絲が名前をくれたから。
そうしてようやく、童はこの世に生まれたのだ。
◇◆◇
佐田彦が扉を引くと、中にいた玉藻前が笑みを浮かべて振り返った。
「邪魔しているよ」
「……何用だ」
「用がなきゃ、訪ねちゃいけないかい?」
「そういうわけではないが……」
玉藻が絲を相手になにやら頼み事をしているのは知っているが、今この部屋にいるのは紅丸一人だった。
玉藻が持参したらしい玩具を、熱心に眺めている。白旺の姿が見えないが、おそらくまた天井へ姿を隠しているのだろう。
「さたひこ、たまもがくれたの」
顔をあげた紅丸が笑みを浮かべ、佐田彦に見せるようにそれを掲げた。朱色に塗られた木彫りの置物は、なにかの動物をかたどっているらしい。
「そうか、礼は言ったか」
「あ! あいがとお」
「はいよ」
ぺこりと頭を下げる紅丸に、玉藻は艶やかに笑った。
はたして玉藻前は、こんなふうに子供をあやす者だっただろうか?
訝しむ佐田彦の考えは見抜かれているのか、女はにやりと笑って口を開く。
「おまえさんより、ずっと素直だねえ、紅丸は。少しは見習うがよいぞ」
「……いらぬ世話だ」
「ほうれ、可愛げのない」
からからと笑う玉藻前と、苦虫を潰したような顔の佐田彦を見やり、紅丸は首を傾げる。
その動きに合わせ、手に持った猫の置物、その尾がカタリと左右に揺れた。
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