紅につづく道の果て<前>
「坊」
呼ばれた声に足を止め、振り返った。
それは母に似た声であったが、己に向けられたものではなかったらしい。童は前へ向き直り、歩を進めた。
抱え持った袋に詰められているのは、小豆。今からそれを洗いに行くのだ。
長屋から離れた河原へは、子供の足では時間もかかる。されど、その童にとっては、常より歩き慣れた道であった。
街道を離れ、細道を歩く。こちらのほうが近いのだということを、小さな頭で理解していたからだ。
引きずった
ゆるく蛇行しながら続くそれは、やがて方向を変えた。目的の河原に着いたのだ。
季節は冬。草も枯れる時節とはいえ、地に
おそるおそる踏み出した右足を取られ、童は地に尻をつけ、そのまま下まで滑り落ちた。
途中で手放した笊は遠くへ転がり、手に持った袋は摩擦で破れたか、小さな穴を開けた。そこからぽろぽろと零れ落ちる小豆に気づかぬまま、童は立ち上がる。擦り剥けた肌から滲んだ血は、治りきっていない以前の傷が破れたものだ。痛みには慣れている。
よろめきながら笊の元へ赴き、次に水場へ向かった。
底は浅く、足首が隠れる程度の深さである。そこへ笊を浸け、袋の口から小豆を取り出した。すっかり土と砂利に汚れた笊に手を入れ、童は小豆を洗いはじめる。
ひゅうと風が吹き、身体を冷やす。
水面を渡る風は冷たく、身体から体温を奪っていく。
水につけた手のひらや、足元からも冷気は這い上がり、ぶるりと身体を震わせた。
きちんと綺麗にするまで、帰ってくるんじゃないよ。
母の声が脳裏に響く。
赤く引いた紅が吊り上がり、子供の目にはひどく恐ろしいものに映った。
化粧をした姿は、あまり好きではない。
鼻に突き刺さるような匂いも、ちっともよいとは思えなかったが、大人たちはそうではないらしい。見知らぬ男が何人もやってきて、そのたびに童は外へ出された。
あちらこちらを歩いてまわった。界隈で、知らぬところはないのではないかと思うほどだ。
今日はきっと、なにか母を怒らせることをしてしまったのだと思う。
半刻ほど外を歩いて戻ってみても、家には入れてくれなかったから。
「……あ」
手が滑り、笊が流される。慌てて追いかけようとして、べしゃりと水面に倒れこんだ。
それでもなんとか手を伸ばして笊を掴みとると、引き寄せる。中の小豆は減っており、沈んでしまったものを目に見える範囲で取り上げていく。
川の中、すっかり濡れねずみとなりながら、童はひたすらに小豆を洗う。
一向に減らない砂利。
きちんとしないと、家には戻れない。
これを綺麗にしなければ、僕はどこにも行ってはいけない。
かじかんだ手から逃げる笊を拾っては流し、拾っては流しを繰り返しながら、童は川辺に座っていた。
すっかり濡れてしまった
ぺたりぺたりと、水に濡れた足跡が河原の石に残される。
太陽はすっかりかげり、足跡は蒸発することもなく、刻まれていく。
くしゅん。
繰り返すくしゃみは数を増し、それでも童はやめることなく、その場に居続けた。
いつしか、雪が降っていた。
見上げた空は灰色で、童はぽかんと口を開ける。
底知れぬ
足元の石が、だんだんと白く染まっていく。
歩くたび足の形をなし、また新しい白に上書きされていくさまが不思議で、童はぺたりぺたりと跡をつけてまわった。
手足が赤く腫れていっても、特に止める気持ちにはならなかった。
冷たいという感覚は、知らぬうちにいずこかへ、消えてしまっていた。
◇◆◇
くしゅん。
不意をついて出たくしゃみに対して、声がかけられた。
「紅丸、こっちへいらっしゃいな。寒いわよ」
振り返ると、火鉢の傍で手招く姿があり、童――紅丸は走り寄る。
「いと」
「なあに?」
「ぼく、なにすればいい?」
「今日のお仕事は終わりよ。紅丸のやりたいことを、やればいいのよ」
「やりたいこと?」
自分がやりたいことは、小豆を洗うこと。絲の手伝いをすることだ。
けれど絲は、いつだってそれを否定する。
ゆえに、紅丸は困ってしまうのだ。
自分は小さくて、なにをやってもうまくできない。周囲の大人たちに顔を顰められてばかりだったように思う。
記憶はおぼろげで、ところどころが抜け落ちている。名前のこともそうであった。
紅丸は、絲がつけてくれた名だ。
かつて――まだどこかの長屋に母親と住んでいた頃、なんという名だったのかは、記憶にない。かすかに覚えているのは、「坊」と呼びかけられていたことだけだ。
ひょっとしたら「ぼう」というのが己の名前なのかと思ったこともあったが、他にもそう呼ばれる童たちがいたことから、そうではないのだろうと理解はした。
理解はしたけれど、己の名が一体なんであったのかと問われると、
がらりと戸が開き、背の高い男が入ってきた。傍らの絲が立ちあがり、男を出迎える。
「おかえりなさい、旦那」
「……ああ」
見上げるほどに高い男は土間から上がり、こちらを認めると、ふっと相好を崩す。そうして大きな手がこちらに降りてきて、頭をゆっくりと撫でるのだ。
紅丸は、その瞬間がとても好きだった。
「賃金として、これを貰ってきた」
「お野菜。随分とたくさんね」
「俺だけでは食べきれぬ。お絲の家で使ってくれ」
「当分は食材に困らないわね。兄さんが仲介した仕事だから心配していたけれど、安心したわ」
「そうそう変な仕事ではなかったぞ」
座りこんだ男の傍に寄ると、紅丸はその袖を引き、問うた。
「さたひこ、ぼくもしごとする。なにすればいい?」
「お絲の手伝いをすればよいのではないか?」
「……でも、ぼく、とくをつむんだよね。なにすればいい?」
妖怪・小豆洗いは、小豆の神様になるため、修行を積む。
佐田彦が言ったそれを実行するため、紅丸は日々、小豆を洗っている。
しかし、本当にそれだけでよいのだろうか。
記憶の底に沈む生活の中では、もっと何かをなしていた。言いつけられたことをこなせず、怒られてばかりいたけれど――
「……俺は正確には、神ではないからな。何をもってして、
「ぼく、だめなの?」
紅丸が問うと、佐田彦は困ったような面持ちとなる。それはかつて、たくさんの人から向けられたものと同じであった。
川縁に佇んでいた頃。絲に出会うまでにも、幾人かに声をかけられたことがある。
それは男であったり女であったり老人であったりと様々ではあったが、覚束ない言葉を漏らすばかりの童に、一様に困った顔を浮かべていた。番所へ行こうと手を引かれたこともあるが、気づくとなぜか川縁に戻っていた。
幽鬼の類かと騒がれたことも一度や二度ではないが、不思議と祓われることもなく、留まり続けた。
小豆を綺麗にしなくちゃいけない。
どれほど水にさらしても一向に消えない汚れは、自身が作り出した怨念のようなもののせいであったのだが、それに気づくこともなく、ただ水面に笊を浸け続けていた。
うまく、できない。
できない、できない。
できないできないできないできない。
ただひたすら、それだけが頭を巡り、だからこそ絲の言葉は胸に風穴が開いたような心地がしたのだ。
お姉ちゃんのおうちに来る?
一緒に小豆を綺麗にしましょうよ。ね?
飛びこんできた明るい声と、温かな気配。
手を取られ、顔を覗きこまれた瞬間、身体がふわりと軽くなった気がしたものだった。
「もう。旦那ったら」
「……すまぬ」
二人の声がしたあと、絲が膝をついてこちらに目線を合わせた。
「あのね、紅丸。子供は、大きくなるのがお仕事なのよ」
「おおきくなるの?」
「そう。あと、どんなお仕事をするかは、それぞれのおうちによるわねえ。何がしたいのかにもよると思うのよ」
「ぼく、あずきあらう」
すかさず答えると、絲はしばし黙った。
何かおかしなことを言ったであろうかと不安に思った頃、絲の手が頭を撫でる。
「そうねえ。紅丸のおかげで、とっても助かってるわ。だけど、小豆を洗うだけではないでしょう? お部屋の片づけだってきちんとしてくれるし、御膳を並べることだって、上手だわ」
「ぼく、じょうずなの?」
「そうよ。とっても上手」
にこりと笑った絲の顔が嬉しくて、紅丸の身体はぽかぽかと温かくなる。
「そうやって、できることを増やしていけばいいの。すぐにできなくったって、かまわないのよ。たくさん失敗すればいいの。むしろ、失敗しなくちゃ」
「しっぱいすると、おこられるよ。だめなこって、いわれるの」
「……紅丸は、駄目な子なんかじゃないわ」
言い聞かせるような絲の声色に、紅丸は首を傾げた。
果たして、そうなのだろうか。
おまえは本当に凡庸な子。
どうして出来ないの、愚図ね。
ぼんようという言葉の意味はわからなかったけれど、褒められてはいないことは十分に伝わった。
そもそも、誰かに褒められたことなどないのではなかろうか。
母親のことを思い出す時、つきんと胸が痛む気がする。
高い位置から見下ろされ、諫められてばかりいた。そういうものだと思っていたから、絲が自分と視線を合わせて話してくれた時、ひどく驚いたのだ。
手を取って、なにをどうすればいいのか、教えてくれた。
温かなご飯をくれた。
綺麗な、自分のためだけの衣を作ってくれた。
なによりも、名前をくれた。
きっと自分は、誰かに呼ばれたかったのだろう。
幼い頭で、紅丸はそう思う。
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