禍、転じて福となりけり<後>

 俯き、拳を握りしめる絲を見やり、佐田彦は苦しさと同時に、喜びの気に溢れた。

 離れがたく感じるのは、絲も同じなのだと知ったことが嬉しい。彼女の哀しみに喜びを覚えるなど、なんと不届きなことだろう。

 石壁に預けていた背を起こし、絲の傍へと寄ると、震える肩に手を置いた。抱きこむように腕の中へ囲えば、縋るように身を寄せてくる。

「俺は、人だ。人になると、そう決めたのだ」

「だけど、神さまにお仕えしているのでしょう?」

宇迦うかさまは俺の恩人だからな。あの御方がいなければ、俺はとっくに死んでおる」

「死――!?」

 不穏な言葉に仰天した絲が顔を上げる。まなじりの涙を指の腹でぬぐいながら、佐田彦はゆるく笑みを浮かべる。

「俺がどうして常世へ渡ることになったのか、聞いてくれるか」

「い、言いたくないのならば、無理には聞かないし、言わなくてもいいのよ」

 苦しそうに眉根を下げて、絲が首を振る。

 そういえば、出会った頃も似たようなことがあった。

 稲荷神社で行き倒れになっていた理由。

 荷もなく、身体ひとつで忽然と現れた怪しげな男に対し、誰にだって言いたくないことがあり、言えないこともあるのだからと、事情を深く知ろうとはしなかった。

 しかし、その優しさに甘えているだけでは、駄目なのだ。

 ここで生きると、決めたのであれば。

「いや、俺が話しておきたいのだ。あまり、心地のよい話ではないやもしれぬが、聞いてくれるか?」

「佐田彦さまが、それを望むのであれば」

「俺はこの辺りで生まれたのだと思う――」


 父がどんな名であったのか、おぼろげだ。母の名もまた、記憶に薄い。己の名さえ呼ばれることも少なく、声をかけられたとしても「おまえ」と言われるだけだった。

 母は「鬼の子」と呼び、いつしかそれが呼び名となった。

 家の外では、夜叉子と呼ばれていたのだろう。

 逃げ出した夜、それを知った。

 母の嫁ぎ先はどこであったのか。幼い記憶では、距離は測れないが、一昼夜、牛車に揺られた記憶もないことから、さほど離れていたわけではないのだろう。

 離縁して戻った母の生家は、おそらくはこの付近。村の名を直接耳にすることはなかったため、本当にここ――賀根町であるか、実のところ定かではない。村人に追われた己が現世うつしよを離れた後、村は絶えたと思われる。

 だが、あの稲荷神社は間違いなく、佐田彦を常世とこよへと誘った場所なのだ。寂れた小さなほこらだけが、唯一の証だった。

 うっすらとした記憶を辿りながら、佐田彦は己の半生を絲へ語った。

 意に添わぬ密通により、宿った子であったこと。

 やがて父に知れることとなり、離れに追いやられ、その後に離縁が決まった。

 心を病んだ母は、狐憑きと噂された。その根源たる己は引き離され、忌み子をかまう人もやがていなくなり、何年もの間、一人で過ごした。

 飢饉に喘いだ村人が屋敷を襲った。

 たった一人、闇にまぎれて脱走し、供物を喰らって常世への扉を開いた。

 あちらはあちらで排斥され、餓鬼道へと堕ちかけた。

 それを救ったのは、いずこからか捧げられた供物であり、以後もそれに救われてきたこと。

 あの供物が――、絲が供えた食事によって佐田彦は生き延びた。

 常世に生きながら「人」としての形を保っていられたのは、現世の物を身の内へと取り込んでいたからなのだ。


「宇迦さまが俺を救った以上に、俺はおまえに救われてきたのだ。こちらへ住まうようになってからも、俺はお絲によって生かされている」

「私は、私のしたいことしか、していないのに」

「ならば、それは俺にとって良いことだな。おまえのしたいことが、俺の命に繋がっている」

「生き死には大袈裟だわ」

「そんなことはなかろう。お絲の作る飯がなければ、俺は腹を空かして倒れる自信があるのだからな」

 腹に手を当てて呟くと、絲がそれに手を添わせる。

「もっとおいしい料理を作る人は、たくさんいる。他にもいい人はきっと、もっとたくさんいるのよ」

「俺を見出してくれたのは、おまえなのだ。俺の縁は、はじめからおまえにしか繋がっておらぬ。これから先も、ずっとそうだ」

「これから先があるの?」

「俺が生きるのはこの世界で、そのためにはお絲が必要だ。言っておくが、飯だけの話ではないからな」

 念を押すように加えられた言葉に、絲の顔に笑みが広がる。その拍子にぽろりと涙が流れ落ち、再びそれをぬぐう。

 頬に添えた掌が、じんわりと彼女の熱を伝える。赤らんだ表情が愛おしく、佐田彦の胸はどうしようもなく高鳴った。

 顔を寄せ、薄く色づいた唇に触れようかという時に、がさりと草を揺らす音が響き、我に返った絲が佐田彦の腕から逃れる。

 消えたぬくもりを空虚に感じ、じろりと音の方へ目を転じると、座り込んでいたのは童と獣。

「おとなしくしておれと言ったではないか、馬鹿者」

「あし、いたいの」

「辛抱がたりぬ」

「しんぼー?」

「我慢だ。まったく、少しは雰囲気というものをよむものであるぞ」

「いっぱいがまんしたもん」

 機嫌を損ねた声色で立ち上がった紅丸が、こちらへ駆けてくる。

「ぼくもおはなしする」

「なにかあったのか?」

「あのね、あっちにいぬがいたんだよ」

「狛犬かしら?」

 首を傾げて、絲が言う。

 神社をぐるりと探索していた紅丸と白旺だ。稲荷に鎮座する神狐には慣れていても、狛犬の姿は見慣れぬもので、目を引いたのだろう。

 案内するのだと手を引く紅丸に、絲は苦笑してついていく。

 その姿を名残惜しげに見る佐田彦に、白旺が告げる。

「気にせずともよい。絲は俺様のものではあるが、いと気高き存在である俺様は度量も大きいのだ。融通ぐらいはきかせてやろう。しかし、独占はよくないのであるぞ」

「誰がおまえのものか、イタチの分際で」

「雷獣である!」

「お絲はおまえになぞやらぬ、俺のだ」

「ふん、言うようになったではないか、神使め」

 静かな火花を散らす男共を、早く来いと、絲が手招く。

 そういえば、贈り物をしろと兵衛に言われていたな。

 銭を入れた巾着を握りながら、佐田彦は絲の下へ、歩を進めた。



  ◇◆◇



 店というよりは、路地を塞ぐ扉といった印象が強い。狭い界隈に無理に据え付けたような場所で、はて、本当にこんなところでよいのだろうか? と、首を傾げた。

 掲げられた看板にはただ、墨字で「占」と書かれているのみ。随分と素っ気ない。

「本当にこんな商売が成り立つのかしら」

「兵衛殿曰く、問題はないらしい」

「兵衛の言葉は軽すぎると思うわ」

 絲の隣で腕を組んだ佐田彦が、苦笑いを浮かべる。

 先日の祭り以来、なにやら話をしているかと思えば、まさか辻占商売を始めるとは思ってもみなかった絲である。

 どうも、兵衛を含めた、近隣の店が後押ししてのことであるらしい。

 祭りで売られた辻占菓子は、評判を呼んだ。

 菓子そのものの味わいではなく、お御籤みくじの方である。

 紙片をお守りとして身につけていると、書かれた通りにうまく事が運んだと、声があがった。噂は噂を呼び、兵衛の店へと問い合わせが増えたのだという。

 その内容が菓子ではなく、御籤の方であると知った兵衛が、佐田彦に商売にすることを持ちかけた。

 福男の店があれば、運気もあがるというもの。

 客が足を運べば、人の流れも増えるという考えだ。

 そんなふうに利用するのはどうなのかと絲は腹を立てたが、驚いたことに、佐田彦は話を受けたのである。本人が請け負ってしまえば、口出しもできない。

 長屋の住人らの仕事を手伝ったりと、決まった仕事に就いていたわけではなかった佐田彦だ。肩身が狭い心持ちがあったのやもしれぬが、直太郎という例が身近にいるだけに、絲はさほど気にしていなかった。

 あの兄に比べたら、誰だってしっかり者である。

「世話をする相手が職もないとあれば、お絲も立つ瀬がなかろうが」

「まさか、父さんや母さんが何か言ったの?」

「いや、だが俺も考えておらぬわけではないのだ。この先、ここで暮らすのであれば、何かをなさねばならぬだろう?」

 現世うつしよで暮らすと決めたとはいえ、佐田彦は宇迦之御魂神うかのみたまのかみに仕える身――神さまの奉公人なのだ。あちらの事情で動かざるを得ない状況が、こないともかぎらない。

 そのため、己自身で都合がつけられる商いは、悪い話ではなかった。占いともなれば「日が悪い」などという名目でも店が閉められよう。

「ここならば、長屋からも近い。いくらでも都合はつけられる」

 そうと決めてしまっているのであれば、あれやこれやと口を挟んでも仕方がないだろう。

 嘆息し、絲は改めて店構えを見る。

 こじんまりとし、大勢が寄る店ではない。訊ねてきた客を一人、相手にする程度の間取りしかないため、店は通いで行う。裏店うらだなから出るわけではないのだと知って、少しだけ安堵した。

 変わらない。

 けれど、少しだけ変わっていく。

 隣に立つ佐田彦の横顔を見上げていると、視線を感じたか、こちらへ顔を向けた。

 恥じて、目を伏せる。

 俯いた頭に、佐田彦の手が伸びた。

 男の手が触れるのは、朱色のかんざし。祭りの日に、佐田彦から贈られた品だ。

 頬が緩み、胸の内があたたかくなる。

「今日のところは帰るか、お絲」

「そうね、紅丸がお腹を空かせて待っているわね」

「俺とて腹は減っておるぞ」

「食べたいものはある?」

「お絲が作るものであれば、なんでも旨い」

「大袈裟ね」

「俺の身体はおまえの心で作られておる。それ以外は受け付けぬ」

「……本当に、大袈裟なのだわ」

 受け取ってくれる神さまのためにと供えつづけた食事は、すべて佐田彦の下へと導かれていたという。

 十歳の頃から折に触れ、そして、こちらへ渡ってきてからは毎日のように、絲が心を尽くしたものを喰らってきた身体は、男の言う通り、絲で作られているといっても、過言ではない。

 改めて告げられると、とても不思議で。

 けれど、ずっと繋がっていたのだと思うと、心が騒ぐ。

 これからも共にあってよいのだと、神が告げているような気がするのは身勝手だろうか。

「商いとするのであれば、宇迦さまへ申しておくべきであろうな」

「では、このままご報告へ伺う?」

「――いや。腹を満たしてからだな」

 ぐう。

 合いの手のように腹の音が聞こえ、絲は笑みを零した。

 朝の残りを食べてしまいましょう。

 胡瓜の酢漬けが、そろそろ頃合いかしら。

 唐辛子を加えてピリリとさせれば、よいおかずになるけれど、紅丸と白旺にはきっと合わない。では、ふたりは甘酢にしようかしら。

 梅肉を添えた豆腐も、口を涼やかにしてくれる。

 通り過ぎた棒手振りの声を聞きながら、絲はふと考えた。

 佐田彦がこの場所で商いをするのであれば、昼餉は届けてやるべきだろうか。

 握り飯を作り、竹筒には汁物を。

 あの、供物のように。

 塩握りもよいけれど、たまには変わった物も届けよう。

 古くなった沢庵を小さく刻んで混ぜ合わせると、歯触りのよい飯となろう。青菜のおひたしをつければ、彩りもある。

 紫蘇の葉を刻めば香り高い薬味になる。

 ああ、蕎麦もよいな。


 あれやこれやと思案しながら、絲は幸せを噛みしめる。

 沿道の軒先で、風鈴がチリリと涼やかな音を奏でた。



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