禍、転じて福となりけり<後>
俯き、拳を握りしめる絲を見やり、佐田彦は苦しさと同時に、喜びの気に溢れた。
離れがたく感じるのは、絲も同じなのだと知ったことが嬉しい。彼女の哀しみに喜びを覚えるなど、なんと不届きなことだろう。
石壁に預けていた背を起こし、絲の傍へと寄ると、震える肩に手を置いた。抱きこむように腕の中へ囲えば、縋るように身を寄せてくる。
「俺は、人だ。人になると、そう決めたのだ」
「だけど、神さまにお仕えしているのでしょう?」
「
「死――!?」
不穏な言葉に仰天した絲が顔を上げる。
「俺がどうして常世へ渡ることになったのか、聞いてくれるか」
「い、言いたくないのならば、無理には聞かないし、言わなくてもいいのよ」
苦しそうに眉根を下げて、絲が首を振る。
そういえば、出会った頃も似たようなことがあった。
稲荷神社で行き倒れになっていた理由。
荷もなく、身体ひとつで忽然と現れた怪しげな男に対し、誰にだって言いたくないことがあり、言えないこともあるのだからと、事情を深く知ろうとはしなかった。
しかし、その優しさに甘えているだけでは、駄目なのだ。
ここで生きると、決めたのであれば。
「いや、俺が話しておきたいのだ。あまり、心地のよい話ではないやもしれぬが、聞いてくれるか?」
「佐田彦さまが、それを望むのであれば」
「俺はこの辺りで生まれたのだと思う――」
父がどんな名であったのか、おぼろげだ。母の名もまた、記憶に薄い。己の名さえ呼ばれることも少なく、声をかけられたとしても「おまえ」と言われるだけだった。
母は「鬼の子」と呼び、いつしかそれが呼び名となった。
家の外では、夜叉子と呼ばれていたのだろう。
逃げ出した夜、それを知った。
母の嫁ぎ先はどこであったのか。幼い記憶では、距離は測れないが、一昼夜、牛車に揺られた記憶もないことから、さほど離れていたわけではないのだろう。
離縁して戻った母の生家は、おそらくはこの付近。村の名を直接耳にすることはなかったため、本当にここ――賀根町であるか、実のところ定かではない。村人に追われた己が
だが、あの稲荷神社は間違いなく、佐田彦を
うっすらとした記憶を辿りながら、佐田彦は己の半生を絲へ語った。
意に添わぬ密通により、宿った子であったこと。
やがて父に知れることとなり、離れに追いやられ、その後に離縁が決まった。
心を病んだ母は、狐憑きと噂された。その根源たる己は引き離され、忌み子をかまう人もやがていなくなり、何年もの間、一人で過ごした。
飢饉に喘いだ村人が屋敷を襲った。
たった一人、闇にまぎれて脱走し、供物を喰らって常世への扉を開いた。
あちらはあちらで排斥され、餓鬼道へと堕ちかけた。
それを救ったのは、いずこからか捧げられた供物であり、以後もそれに救われてきたこと。
あの供物が――、絲が供えた食事によって佐田彦は生き延びた。
常世に生きながら「人」としての形を保っていられたのは、現世の物を身の内へと取り込んでいたからなのだ。
「宇迦さまが俺を救った以上に、俺はおまえに救われてきたのだ。こちらへ住まうようになってからも、俺はお絲によって生かされている」
「私は、私のしたいことしか、していないのに」
「ならば、それは俺にとって良いことだな。おまえのしたいことが、俺の命に繋がっている」
「生き死には大袈裟だわ」
「そんなことはなかろう。お絲の作る飯がなければ、俺は腹を空かして倒れる自信があるのだからな」
腹に手を当てて呟くと、絲がそれに手を添わせる。
「もっとおいしい料理を作る人は、たくさんいる。他にもいい人はきっと、もっとたくさんいるのよ」
「俺を見出してくれたのは、おまえなのだ。俺の縁は、はじめからおまえにしか繋がっておらぬ。これから先も、ずっとそうだ」
「これから先があるの?」
「俺が生きるのはこの世界で、そのためにはお絲が必要だ。言っておくが、飯だけの話ではないからな」
念を押すように加えられた言葉に、絲の顔に笑みが広がる。その拍子にぽろりと涙が流れ落ち、再びそれをぬぐう。
頬に添えた掌が、じんわりと彼女の熱を伝える。赤らんだ表情が愛おしく、佐田彦の胸はどうしようもなく高鳴った。
顔を寄せ、薄く色づいた唇に触れようかという時に、がさりと草を揺らす音が響き、我に返った絲が佐田彦の腕から逃れる。
消えたぬくもりを空虚に感じ、じろりと音の方へ目を転じると、座り込んでいたのは童と獣。
「おとなしくしておれと言ったではないか、馬鹿者」
「あし、いたいの」
「辛抱がたりぬ」
「しんぼー?」
「我慢だ。まったく、少しは雰囲気というものをよむものであるぞ」
「いっぱいがまんしたもん」
機嫌を損ねた声色で立ち上がった紅丸が、こちらへ駆けてくる。
「ぼくもおはなしする」
「なにかあったのか?」
「あのね、あっちにいぬがいたんだよ」
「狛犬かしら?」
首を傾げて、絲が言う。
神社をぐるりと探索していた紅丸と白旺だ。稲荷に鎮座する神狐には慣れていても、狛犬の姿は見慣れぬもので、目を引いたのだろう。
案内するのだと手を引く紅丸に、絲は苦笑してついていく。
その姿を名残惜しげに見る佐田彦に、白旺が告げる。
「気にせずともよい。絲は俺様のものではあるが、いと気高き存在である俺様は度量も大きいのだ。融通ぐらいはきかせてやろう。しかし、独占はよくないのであるぞ」
「誰がおまえのものか、イタチの分際で」
「雷獣である!」
「お絲はおまえになぞやらぬ、俺のだ」
「ふん、言うようになったではないか、神使め」
静かな火花を散らす男共を、早く来いと、絲が手招く。
そういえば、贈り物をしろと兵衛に言われていたな。
銭を入れた巾着を握りながら、佐田彦は絲の下へ、歩を進めた。
◇◆◇
店というよりは、路地を塞ぐ扉といった印象が強い。狭い界隈に無理に据え付けたような場所で、はて、本当にこんなところでよいのだろうか? と、首を傾げた。
掲げられた看板にはただ、墨字で「占」と書かれているのみ。随分と素っ気ない。
「本当にこんな商売が成り立つのかしら」
「兵衛殿曰く、問題はないらしい」
「兵衛の言葉は軽すぎると思うわ」
絲の隣で腕を組んだ佐田彦が、苦笑いを浮かべる。
先日の祭り以来、なにやら話をしているかと思えば、まさか辻占商売を始めるとは思ってもみなかった絲である。
どうも、兵衛を含めた、近隣の店が後押ししてのことであるらしい。
祭りで売られた辻占菓子は、評判を呼んだ。
菓子そのものの味わいではなく、お
紙片をお守りとして身につけていると、書かれた通りにうまく事が運んだと、声があがった。噂は噂を呼び、兵衛の店へと問い合わせが増えたのだという。
その内容が菓子ではなく、御籤の方であると知った兵衛が、佐田彦に商売にすることを持ちかけた。
福男の店があれば、運気もあがるというもの。
客が足を運べば、人の流れも増えるという考えだ。
そんなふうに利用するのはどうなのかと絲は腹を立てたが、驚いたことに、佐田彦は話を受けたのである。本人が請け負ってしまえば、口出しもできない。
長屋の住人らの仕事を手伝ったりと、決まった仕事に就いていたわけではなかった佐田彦だ。肩身が狭い心持ちがあったのやもしれぬが、直太郎という例が身近にいるだけに、絲はさほど気にしていなかった。
あの兄に比べたら、誰だってしっかり者である。
「世話をする相手が職もないとあれば、お絲も立つ瀬がなかろうが」
「まさか、父さんや母さんが何か言ったの?」
「いや、だが俺も考えておらぬわけではないのだ。この先、ここで暮らすのであれば、何かをなさねばならぬだろう?」
そのため、己自身で都合がつけられる商いは、悪い話ではなかった。占いともなれば「日が悪い」などという名目でも店が閉められよう。
「ここならば、長屋からも近い。いくらでも都合はつけられる」
そうと決めてしまっているのであれば、あれやこれやと口を挟んでも仕方がないだろう。
嘆息し、絲は改めて店構えを見る。
こじんまりとし、大勢が寄る店ではない。訊ねてきた客を一人、相手にする程度の間取りしかないため、店は通いで行う。
変わらない。
けれど、少しだけ変わっていく。
隣に立つ佐田彦の横顔を見上げていると、視線を感じたか、こちらへ顔を向けた。
恥じて、目を伏せる。
俯いた頭に、佐田彦の手が伸びた。
男の手が触れるのは、朱色の
頬が緩み、胸の内があたたかくなる。
「今日のところは帰るか、お絲」
「そうね、紅丸がお腹を空かせて待っているわね」
「俺とて腹は減っておるぞ」
「食べたいものはある?」
「お絲が作るものであれば、なんでも旨い」
「大袈裟ね」
「俺の身体はおまえの心で作られておる。それ以外は受け付けぬ」
「……本当に、大袈裟なのだわ」
受け取ってくれる神さまのためにと供えつづけた食事は、すべて佐田彦の下へと導かれていたという。
十歳の頃から折に触れ、そして、こちらへ渡ってきてからは毎日のように、絲が心を尽くしたものを喰らってきた身体は、男の言う通り、絲で作られているといっても、過言ではない。
改めて告げられると、とても不思議で。
けれど、ずっと繋がっていたのだと思うと、心が騒ぐ。
これからも共にあってよいのだと、神が告げているような気がするのは身勝手だろうか。
「商いとするのであれば、宇迦さまへ申しておくべきであろうな」
「では、このままご報告へ伺う?」
「――いや。腹を満たしてからだな」
ぐう。
合いの手のように腹の音が聞こえ、絲は笑みを零した。
朝の残りを食べてしまいましょう。
胡瓜の酢漬けが、そろそろ頃合いかしら。
唐辛子を加えてピリリとさせれば、よいおかずになるけれど、紅丸と白旺にはきっと合わない。では、ふたりは甘酢にしようかしら。
梅肉を添えた豆腐も、口を涼やかにしてくれる。
通り過ぎた棒手振りの声を聞きながら、絲はふと考えた。
佐田彦がこの場所で商いをするのであれば、昼餉は届けてやるべきだろうか。
握り飯を作り、竹筒には汁物を。
あの、供物のように。
塩握りもよいけれど、たまには変わった物も届けよう。
古くなった沢庵を小さく刻んで混ぜ合わせると、歯触りのよい飯となろう。青菜のおひたしをつければ、彩りもある。
紫蘇の葉を刻めば香り高い薬味になる。
ああ、蕎麦もよいな。
あれやこれやと思案しながら、絲は幸せを噛みしめる。
沿道の軒先で、風鈴がチリリと涼やかな音を奏でた。
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