禍、転じて福となりけり<中>
顔を出すうちに馴染みとなった客からは、福男が来たと声をあげられ、佐田彦は苦笑で返す。声を聞いた兵衛が現れ、招かれるままに奥へと進んだ。
「助かったぜ、旦那」
「礼ならば、お絲に言ってくれ。俺は、書いただけだ」
「そうかい。まあ、祭りで奢ってやるかね――、いや、これは旦那の役割だな」
「俺がなんの役を担うのだ」
訝しげな様子の佐田彦に、兵衛は肩を落とす。
「……旦那はさ、お絲をどう思ってんだ?」
「どう、とは」
「女として見てるのかってことだよ。ああ、性別としての話じゃねえからな」
兵衛が付け加えて告げると、佐田彦は神妙な面持ちで頷く。わずかな沈黙を経て、口を開いた。
「お絲は、良い娘だ。俺のような流れ者の世話もして、面倒見もよい。自分以外の者に心を尽くす、情の深い、誰にでも親切な娘だ」
「そうだな。それで?」
「……うむ」
「旦那がお絲を嫌ってはいないのはわかってるんだ。この際、聞いておきたいんだが、どの程度の気持ちなんでい。添い遂げたいと思ってるのかい?」
「それはつまり、
口にして、佐田彦の胸は澱んだ。
頭を
幼い時分に少しだけ「父」と呼んだ男と、己を鬼の子と蔑んだ母。
佐田彦にとっての両親とは、自身の面子や体面を
異なる者を排除し、目先の平穏を求める「人」という存在。
この町へ降り、萩屋をはじめとした長屋の住人らに出会い、人とは、それだけではないのだと知ったのだけれど、瘴気を取り込み、鬼となりかけた己のことは、未だどこか信用がおけない。
もしもまた「鬼」となれば、周囲を傷つけることになる。
紅丸や絲に害をなすかもしれぬと考えると、肝が冷えるのだ。
「――俺の両親は、とても冷えた仲だった。故に、家族というものが、俺にはよくわからぬ。亥之助殿、お松殿のような関係が、俺に作れるとは思えぬのだ。俺と共にあって、お絲が幸せかどうか……」
「俺も人のことをどうこう言えた筋じゃねえんだけどな。でもよ、自分でわかっているのなら、大丈夫なんじゃねえのかい? それに、もしもお絲の身になにかが起こるようなことがあれば、周りの連中が黙っちゃいないさ」
長屋の連中は手強いぞ――と笑う兵衛に、佐田彦も肩の力が抜ける。
「たしかにそうだ。俺など、ひとたまりもないな」
「仮に、お絲が他の男と所帯を持つとしたら、旦那はそれで平気なのか?」
「……平気かどうかはわからぬが、良い心持ちではない」
「そういう顔ができてりゃ、問題ねえさ」
「どういう意味だ?」
「まあ、いいってことよ。なあ、旦那。ここいらの祭りは初めてなんだろう?」
「そうだが」
「色んな店が出るからよ、お絲と一緒に見てまわりゃいい。ついでに贈り物のひとつでもすりゃ、完璧だな」
「なにが完璧なのだ」
「男としての面子だよ」
「そういうものか?」
「そういうもんだ。惚れた女には、いいところを見せてえじゃねえか」
「なるほど、道理だな」
◇◆◇
お囃子の音が響く中、並んだ屋台の一角で絲は汗を拭いながら、真鍮製の椀に白玉を盛る。甘い水に合わせて小さめに作った白玉がころりと転がるさまは、目に涼しい。
絲の足元では紅丸がしゃがみこんでおり、冷や水を飲んでいる。
白旺もまた同じで、こちらは獣らしく、椀に頭を寄せて舌でぴちゃぴちゃと舐めるように飲んでいた。
「あまいの、おいしいね」
「悪くはないのである」
「飲みすぎちゃ駄目よ」
「だいじょーぶなの」
はて、あやかしはお腹を冷やしたりするものだろうか?
小豆洗い兼小豆の神見習いの紅丸が、砂糖水で口をべたつかせているのを、濡らした手ぬぐいで拭いてやりながら、絲は考えた。
幼い子供にしか見えないため、ついそう扱ってしまうが、小さいながらも「人」ではないのだ。その証拠に、兵衛には姿が見えていない。
白旺の方はといえば、姿を偽る程度のことはできるらしい。
そのため、彼にとっては不本意ではあるだろうが、猫に扮してもらっていた。菓子も、白旺にやる振りをしながら、紅丸の腹へと収まっている。
「お絲、無理におらずともよいのだぞ」
「ここに居て、悪いわけではないのでしょう?」
「それはそうだが」
「なら、売り子をするわ」
言うと、吹き出して笑ったのは隣に店を構える兵衛であった。
まったく遠慮のない幼馴染の態度に、絲は口を尖らせる。
「なにがおかしいのよ」
「いやあ別に? 佐田彦の旦那は目を引く男だなーって思っただけで」
言外に匂わせたことがわかってしまうのは、ともに過ごした年月のなせるわざなのか。
絲はふんと顔を背ける。
兵衛が言うように、佐田彦は屋台の中でも特別目を引いた。
大柄な背もさることながら、目鼻立ちが少し変わっている。異国の血が流れていることもあるのだろうが、それでなくとも整った顔立ちだ。長屋には年頃の娘がいなかったせいで、気にもしていなかったが、さきほどから屋台に訪れる娘たちの態度がどうにも気になって仕方がない。
これではまるで、妬いているみたいではないか。
兵衛に気づかれる程度には顔や態度に出てしまっているのかと思うと居たたまれないが、肝心の佐田彦はこちらの機微には気づいていないらしいことも、なんだか腹立たしい。複雑である。
「おや、福男じゃないか」
「その名はやめてくれぬか、御仁」
「いいじゃねえか、目出度い名だ」
「ふくおとこ?」
「知らねえかい? この兄さん、占い名人なんだ。おれの知ってる中で一番だね」
父親ほどの年齢の男は、快活に笑いながらも、団子を数本、手に取った。
銭を受け取りながら話を聞くに、兵衛の店界隈では佐田彦がかなり名を売っていることを知る。兵衛が誇張して話しているわけではなかったらしい。
「兄さんみたいな男が、俺の息子になってくれりゃーいいと思ってたんだが、残念だな」
「なにが残念なのだ」
「美人の嫁さんがいるんじゃ、仕方ねえってことだ」
「嫁?」
目を丸くする絲の横で、佐田彦が間違いを正そうとするも、それよりも先に兵衛の声が飛ぶ。
「おっちゃん、違うんだよ。まだ所帯はもってない。口説いてる最中だ」
「なんでい、福男のくせにだらしがねえなぁ」
大きな声で笑うと、佐田彦の背を平手で叩く。隣にいた絲にも聞こえたぐらいだ、さぞかし痛かったことだろう。
その男を皮切りに、噂の福男の顔を見にやってきた客が多数、そこへすかさず兵衛が「福男の辻占菓子」を売り込むものだから、飛ぶように捌けていく。
便乗してこちらの品も売れてゆき、半刻も経たぬうちに全てがなくなってしまった。
あまり数を持ってきてはいなかったとはいえ、なくなるとは思ってもみなかった絲は、驚きの息を漏らす。
「すごいわ。佐田彦さまは本当に福男なのね」
「お絲までそれを言うか」
「あら。悪い名で呼ばれるよりは、ずっとよいことだわ」
「――だが俺は……」
夜叉子。
鬼の子。
脳裏によみがえるのは、闇夜に響く村人の声、揺れる松明。
振り払われた手、蔑みの眼差し、捨て置かれる日々。
あの頃は、常に腹が減っていた。
邸内から見る空は狭く、立ちはだかる板塀のせいで、自由な場所なぞどこにもなかった。
福とは真逆の、
村に飢饉がおとずれたことすら、本当に佐田彦が呼んだことであったのやもしれぬ。
生まれた時から――、生まれたこと、そのものが「禍」だったのやもしれぬのだ。
どろりと胸の内が重くなった時、ふと足元があたたかくなった。
視線を落とすと、腰の高さにも満たない位置に紅丸がおり、こちらを見上げている。己に向かって伸ばされた小さな手を握ると、童は満面の笑みを浮かべた。
「おかし、おいしかったね」
「そうだな」
「いっぱいひとがきたね」
「そうだな」
「うれしいね」
「……そうだな」
同意を返すと満足そうに頷き、次に絲へ手を伸べる。
紅丸を介して絲と繋がる。
いや、繋いだのは絲だ。
紅丸を見つけ、縁を繋いだ。
冬の早朝、あの稲荷で己を見つけ、縁を繋いだ。
それよりも前――、餓鬼道へ落ちようかという自分を救ってくれた供物もまた、絲の手によるものだった。
救いの手は、いつだって絲が持っている。
「お絲の方が、よほど福を持っておるよ。おまえのおかげで、俺はここにいるのだからな」
「またそうやって大袈裟なことばかり」
「まことのことだ」
神妙な面持ちの佐田彦に、絲は
場の気配を察したのか、兵衛が明るく声をかける。
「萩屋は完売だろう? せっかくの祭りだ。お絲、佐田彦の旦那を案内してやんな」
「――うん、そうね。佐田彦さま、行きましょう」
絲は、佐田彦の袖を引いた。
◇◆◇
人の多い場所を避け、木立へ向かう。
男の様子から、そのほうがよいのではないかと踏んでのことだ。
祭りの喧騒も遠のいた神社の敷地端。石壁に背を預けた佐田彦が、ぽつりと言葉を落とした。
「……すまぬ」
「大勢を相手にしたのだもの、疲れて当然だわ」
「そうではない。俺は――、人の傍にいてよいものではないのだ。いつ鬼となるやもしれぬ身だ」
「あれは、あの時は、そういうモノがいたせいなのでしょう?」
春になる少し前。絲が
佐田彦の力により、絲自身も手を貸して、事態は収束した。
あれからずっと佐田彦はこちらに留まっているが、やはりこの地を去る日が近いということなのだろうか。
ねっとりとした感情が飛来し、絲は
「――佐田彦さまは、やっぱり常世へ帰ってしまうの?」
「そのほうがよいのであれば、だが――」
「私は、私は旦那が言うほどできた人間ではないのよっ」
佐田彦の方を見ぬようにして、絲は声を大きくした。
湧き出してくる心は抑えようもなく、言葉となって口から零れ落ちる。
これは澱みだ。
悪い気というやつだ。
人にぶつけてよいものではないとわかっていても、何故か止まらなかった。
「冬の朝、旦那を連れて帰ったのだって私の我儘だし、紅丸に声をかけたのだってそうだわ。店のことだけをせず、縫物の仕事をしているのだって我儘だし、さっきだって、たくさんの人が旦那に声をかけてるのを見て、嫌な気持ちになって、なんなのよって感じだわ。おまけに今も、旦那が常世へ帰るかもって聞いて、すっごく嫌で、ずっとずっと嫌だと思っていて。だから、ずっと言わないで、聞かないようにしていた。そうしたら、なかったことにできるかもって。そうしたら、ずっとここに居てくれるのではないかしらって、そう思って」
言いながら、涙がせりあがってくる。
「やっぱりもう帰ってしまうの? 神さまだから、人とは暮らせないの? 紅丸だって、白旺だって、人の世にずっといるわけではないのでしょう?」
ああ、それが嫌なのだと、絲は悟った。
彼らはきっと、自分を置いてゆく。
やはり自分は我儘な娘だ。
あれもこれもと欲しがって、手放さなければならないとわかれば、拗ねて文句を言い連ねる。
まるで、幼子のように。
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