弐、神使
絲が住まう
まだ火を入れて間もない部屋は冷たく、引き寄せた火鉢に手をかざした。
「なあ、お絲」
「なあに?」
「言っちゃあなんだが、おまえさん。少々、用心が足りないのではないか?」
「そうかしら」
首を傾げる姿は、つい先頃見せた驚愕の顔とは裏腹に、あどけない。
「わかっていないのは、旦那の方だと思うわよ」
「俺が何をわかっていないって?」
「うちの長屋の結束具合よ。ここで私が悲鳴をあげたら、お縄になるのは旦那の方だわ」
曰く、向かいには腕っぷしの強い大工屋がおり、剣術の師範代、町火消、鳶職人と、なんでもござれと揃っている。下手な泥棒なぞものともせず、奉行所顔負けの働きを誇るらしい。
力では勝てないと言われたようなもので、嬉しくない心持ちだ。
あぐらを解いて前のめりになり、絲に睨みをきかせる。
「なめられたもんだな。俺がそこいらの男に敵わないとでもいうのか?」
「力自慢の話じゃないわ。騒動の種になることは、しないのではないか、ということよ」
「……違いない」
佐田彦が本気ではないとわかっているのか、絲はたいして震えもせず、こちらに湯飲みを差し出した。
団子屋で使っているものと同色の湯飲みを受け取ると、手のひらが温まる。火鉢を挟んで絲が前に座り、こちらも湯飲みを両手で包み、暖を取っている。
「寒いな」
「こんなものよ。お狐様が住む地は、よほど暖かな地なのね」
「狐ではないと言うとろうが」
「じゃあやっぱり天狗なの?」
「それも違う。俺は、まあ、いうなれば
「――よくわからないわ」
眉をひそめる絲に、佐田彦は肩をすくめた。
調理場で、絲の手を取り、浮いてみせた佐田彦は、自身は稲荷神の御使いだと言ってのけた。
夢物語を――と附することは、絲には出来ない。たった今、己を火種から助けてくれたのは、この男なのだ。
絲の身を守っただけでなく、付け火となるところをも、この男は救ってくれたのだと気づいたからには、「馬鹿なことを」と流せるわけもないのである。
餡を取りにやってきた松が見たのは、両の手を取り、見つめ合う男女の姿で、「おや、もう春が来たかえ?」とのたまい、絲を慌てさせた。
「ち、違うから。火の粉が飛んじゃって、助けてくれたの、それだけなのっ」
「顔を真っ赤にして言うことかい」
「母さんが変なことを言うからよ!」
「悪いねえ、あまりからかってやんないでおくれよ」
「お松殿ほどではないかと思うが」
話の種に使われた絲は、濾し終わった餡を、松へと押し付ける。
「はい、出来上がり」
「火の粉が飛んだなら、きちんと冷やしておきなよ」
「わかってる」
膨れ面のまま外へ出ていく絲を、佐田彦は追いかけた。
足早に井戸へ向かう後ろ姿に、声をかける。
「すまん、お絲。平気か?」
「なにが」
「
「助けてくれたから、どこにも」
「ならば――」
「あれ以上、からかわれるのは御免だもの。逃げたに決まってるでしょう?」
「お松殿には筒抜けだと思うがな」
「それもわかってるわよ! 母さんには勝てっこないんだから」
声を張り上げる姿に、くくくと佐田彦は笑った。
◇◆◇
裏店の一角にある小さな稲荷の前で、軽く手を合わせる。
絲の隣でそれに倣う男をちらりと横目で盗み見て、ふむと頷く。
この界隈では見慣れぬ総髪。
ただの不精かと思っていたが、そもそもが
「どうした」
「旦那はお狐様だったのね」
「――どこから来た発想だ」
「だからあの稲荷神社に居たのでしょう? 御供えだって平気で食べたし」
「だからといってだな」
「私、お礼が言いたかったのよ。だから嬉しいわ」
「一体、何の話なのだ」
「辻斬りよ。あのお騒がせな輩を退治してくれたのは、お狐様なのでしょう? 私、ずっとお願いしていたの」
ここ、
時節柄、厚い綿入れ羽織を着ている者も多く、だからこそ、この程度で済んだのだともいえる。夏場の
「危ないから陽が落ちた後は外へ出るなって言われるし。男衆は徒党を組んで見回りをしていたけど、斬られて戻ってくる人も居たの。医術の心得なんてないし、私が出来るのは、せいぜい羽織を縫い直すくらいなもので。もう、歯がゆいったらなかったわ」
「そうか」
「ねえ、お狐様」
「だから違うというに」
そこで、がらりと音を立てどこぞの扉が開いた。裏店のひとつから出てきた男の目が二人を捉え、固まる。
不審者を見る眼差しを向けられ、佐田彦は
このままでは自分の事を「辻斬り被害から町を救ったお狐様」と吹聴しかねない。
そう案じた佐田彦は、絲の袖をついと引くと、小声で告げた。
「戸外でする話でもなかろう。場所を変えんか」
そういった訳で移した場所というのが、裏店のひとつなのである。
もともと、宿を探すつもりであったこともあり、佐田彦は亥之助の口利きで、部屋を借りた。
生活を送る上での調度品も一式揃っており、定期的に手入れもなされているらしく、すぐにでも暮らせる状態である。藁で編んだ
「お狐様でも天狗でもないといっても、神仏ではあるのでしょう?」
「俺自身はべつに、神ではないのだがな」
「だけど、空を跳んだじゃない」
「あの程度の神力であれば扱える」
「それなのに、神仏ではないの?」
「ああ、そうだ」
そしてそれは、動物の
人の形をしている、という意味ではなく、彼は正真正銘の「人」なのだ。神の力を借り受けて行使することは出来るが、それだけである。
「ようは使い走りだ。
「格?」
「
「お武家様の肩書みたいなものかしら」
「そちらには、古来よりのお家事情もあるだろうが、神の世界は神力がすべてだ。俺のような『はぐれ者』は、足元にも及ばんよ」
明るい声を出してはいるが、なにやら一口には語れない事情もあるらしい。
男の出自は気になるけれど、それよりも今は、神の御使いがやってきた理由の方が大事である。
家から持ち出した団子を勧め、自身も串を持ち上げる。
それに倣い、佐田彦が団子を口に運ぶのを見やりつつ、絲は男が落ち着くのを待った。
甘味は大事だ。
茶屋で食べる菓子も良いが、絲は両親の作る団子が好きなのである。
「旦那がお狐様じゃないのはわかったけれど、それでも神様からのお達しがあって、此処にいるのよね」
「後始末のようなものだがな」
「なんの始末をつけるの?」
「辻斬りが出たといっておったな」
「下手人はもう捕まったわよ」
「そいつはどうなった?」
「よくは知らないけど、もっと大きな町へ連れていかれたのだと思うわ。裁きを受ける者は、みんなそうだもの。……ねえ、その人がどうかしたの?」
「おそらく、ではあるがな。その者は鬼に囚われたのだ」
「鬼?」
「悪鬼は、人の心の隙間を狙って付け入る。人の良い悪いは関係なく、弱った心を狙うのだ。
「どうして、そんなことをするの?」
「罪を犯した者は極楽へは行けぬというであろう? 鬼どもは人を悪へと導き、そうやって黒く染まった魂を得ようとしておるのだ。それが奴らの
清らかな心ではなく、憎悪に染まった心ほど、極上の味となる。
人の魂をなによりも糧とする彼らは、
ひもじさに喘ぐ過疎の地よりも、こういった町中である方が、殺める人の数は増えていく。そうして事切れた魂もまた、鬼にとってはたまらぬもの。死する間際の哀しみや絶望が、このうえなく愉悦であり、歓喜となるのだ。
悪辣極まりない、性根の曲がった輩である。
「此度のこと、元となる悪鬼は他所へ行ってしまったようであるが、気配はまだ残っておる。
「旦那はその始末に来たということ?」
「まあ、そういうことだ」
「わかったわ」
合点がいったように頷いた絲に、佐田彦は眉根を寄せる。
狐だ天狗だと言い、神使の存在すらあやふやな娘が、何を以て頷いているのか。
「おまえは一体なにを心得たというのだ」
「神使というのは、神様にお仕えしているのよね」
「そうだな」
「つまり、奉公人ってことじゃない」
そう言ってのける娘に、佐田彦はしばし呆け、その後に笑みを漏らした。
なんと、まあ。神使を「奉公人」扱いするとは。
――上が聞いたら、どう思うのかねえ。
人である佐田彦を御使いに召し上げた、すべての神を束ねる『彼の御方』を思うと、可笑しくてたまらない。
「どんなふうな始末をつけるの?」
「まずは気配を辿り、要因を探る必要があるな」
「気配とやらは、見えるものなの?」
「普通の人間には見えぬだろうな」
「つまり、旦那は神様の奉公人だから、見ることができるということね」
「ああ、だから――」
言い終えるよりまえに、絲は喜色の笑みで問いかけてくる。
「私は何をすればいいかしら?」
「まて、お絲」
「なあに?」
「おまえに何かを課するつもりはないぞ」
「あら、どうしてよ。仕事は分担したほうが良いと思うわ」
「人であるおまえに、妖退治なぞ、させられるわけがなかろうが」
「陰陽道に通じる人だっているじゃないの」
「だが、おまえはそうではなかろうが」
「でも――」
「お絲」
その先の弁を封じるように名を呼ぶと、絲もさすがに押し黙る。
しかしながら、まだ納得はしていないような面持ちだ。佐田彦は小さく笑う。
「なあ、お絲」
「……私は迷惑かしら」
「そのようなこと、あるわけなかろうが。あの稲荷で俺を助けてくれたのはおまえだ」
「たまたまだわ」
「かもしれぬ。だがな、その偶然が、大切なのだ」
畳の目を数えるように俯く絲の頭に、手を置く。
「俺のような得体の知れぬ男を招き入れ、こうして住まいまで整えてくれた。俺一人では、こうはいかんかっただろうさ」
軒先を探して宛もなく
長く
「本当に何かが起こるとはかぎらん。俺は、もしもの為の存在なのだ。だからな、お絲」
「……なあに」
「俺を助けてくれるというのであれば、付近の案内を頼まれてくれるか」
「そんなことでいいの?」
「この辺りの事情には明るくないからな。この町のどこに『ほころび』があるのか、探す手伝いをしてくれ」
「ほころび?」
「鬼が現世に渡ってきたからには、どこかに穴があるやもしれんということだ」
「穴?」
言葉尻を捕まえては首を傾げる絲は、生来の
「人の目に見えるようなものではないぞ」
「それも、神様の御力がなければ、見ることが適わない
「いけずと申すか」
神の意は、人が図れるものではないだろうが、人も神も同列に語る娘に、佐田彦は胸にある
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