参、長屋
とはいえ、脇街道には人の出入りも多くあり、市中の店には珍しい品が並ぶことも少なくない。
絲は、佐田彦を伴って買い出しに出ている。
周辺の案内をするにしても、何の目的もなく歩いては目立ちかねないと考えた。佐田彦は上背があり、顔立ちもまた、周囲のそれとは違っていたからだ。
冬だというのに少し浅黒く、たまに野菜を売りに訪れる農民のような肌をしている。顔立ちもはっきりとしており、煤竹色の目がより、男の印象を周囲から隔絶させているのである。
稲荷神社ではじめて相まみえた際は、まだ陽が昇りきっていない時分であったため、絲は気にとめてはいなかったようだが、長屋へ戻ってからは、その容姿は皆の目を引いた。
自身のそれを理解している佐田彦は、何をどう問われるのか身構えたものだったが、絲の家族らはとくに語ることもなく受け入れ、部屋を借りる手配までしてくれたのだから驚いたものである。
借り受けるにあたり、差配とも話をしたが、彼もまた深くは問わなかった。
長屋へ人を住まわせるのだ。身元を調べるのは当然のことであるにも関わらず、それをしないことに佐田彦は疑念を抱いた。
それを感じたのか、差配である
「亥之助の紹介だからな」
「それだけで?」
「だけというがな、そいつ以上に大事なもんはねえだろう。おまえさんのことを、
問われ、佐田彦は首を振る。
辰五郎は「そうだろうさ」と笑い声をあげた。
「俺はこの長屋に住む人間を信用してるんだ。どんな立派ななりをしていようがな、口利きのねえもんは受け入れねえと決めている」
「俺が言うのもなんだが、それで商売は成り立つのか?」
「身の内に信用なんねえもんを引き込んじまったら、裏からやられちまうだろうが。
「……なるほど、道理だな」
この長屋において、亥之助は相当に顔が利く立場にあるらしい。
差配の元へ向かうにあたり、二人で話したことを思い出す。
佐田彦の素性については、自分の遠縁で通すと言われたのである。だがそれは、と言いかけた佐田彦に、亥之助は黙って首を振った。
「旦那のその目の色は、ここいらとは少しばかり違うようだ。背も高い。話に聞く南蛮の人間かと思えば、言葉は通じるし、なにより旨そうに飯を食ってやがる。罪人の
「なんであろうか」
「いや、お絲のやつがな」
「お絲殿?」
「あれは昔から勘がいいんだ。おかげで、食い逃げには合ったことがねえ。事前にあいつが教えてくれるからな」
「そいつは、たいしたもんだ」
「お父ちゃん、あの人おかしいよ、ってな奴は、たいがい盗人だ。長屋では重宝されてるよ。そのお絲が連れてきたんだ。罪人であるはずがねえし、長屋の連中だって疑いやしねえ」
「……良い
「天からの授かり物だと思ってるよ」
そう言って浮かべた笑みは、家族を大事に思う父親の顔で、佐田彦はわけもなく苦しくなる。
家族とは、こんなにも温かなものなのだ。
佐田彦を有する稲荷神――
神の世界において、佐田彦は異端であり、人の子だと弾かれたことも一度や二度ではない。喧嘩を売られた場合は漏れなく買っていたため、神力の扱い方が上達したのは、怪我の功名である。
絲のおかげとはいえ、素性の知れぬ佐田彦を、亥之助は引き受けてくれた。
それはつまり、佐田彦が罪に問われるような行動を取れば、その
「辰五郎殿。亥之助殿の顔を潰すような真似は決してせぬと、誓おう」
「いい面構えだ」
居住まいを正した佐田彦に、辰五郎はにやりと笑う。
「店子は家族同然。おまえさんも、俺の息子だ」
「息子……」
「
「……いや、ありがとう、親父殿」
◇◆◇
買い物だというので、
「こちらに用があるのか?」
「用があるのは、旦那の方よ」
「俺か?」
佐田彦が首を傾げると、絲は深く溜め息を落とした。
「旦那、着物を持っていないのではない?」
「着ておるが……?」
自身の
「それ以外の物よ」
身を寄せ、小声で告げる。
「旦那は
「そう、だな」
足元へ目を転じると、地面より一尺(約三十センチ)ほど上がったところに裾がある。裸の足が覗いており、見ているこちらが寒々しいのだと絲は言う。
「今着ているものは仕立て直すとして、替わりの着物が必要でしょう? あと、羽織もね」
「必要か?」
「長屋で寒そうにしていたくせに、なに言ってるのよ。今だって、袷一枚で歩いている人、いないでしょう?」
佐田彦はぐるりと周囲を見渡してみる。
たしかに皆が、小袖の上に一枚羽織っており、綿の詰まった羽織を着込んでいる者も少なくない。
佐田彦の前で口を尖らせている絲も同じで、紅色の綿入れ羽織を重ねている。
「ふむ、なるほど」
「……神様の国は、どこかずれていらっしゃるのね。こんなことを言うと神罰が下るのかもしれないけれど、主人というのは、奉公人を飢えさせてはいけないもの。身なりだって気を配るべきなのよ。店の看板に傷をつける行いだわ」
「伝えておこう」
なるほど、とひたすら頷く佐田彦に、絲はやはり毒気をぬかれる。
父親から「田舎出の遠縁として扱う」とは聞かされたけれど、田舎は田舎でも、山奥の出としたほうがよいのではないだろうか。
とはいえ、佐田彦の身なりは小綺麗であり、丈が足りていない以外は問題はないのだ。使われている布は上質な物のようで、手触りがまるで違う。そして、その着物に『着られている』風な印象がない程度に、佐田彦という男は立ち居振舞いが町人のそれとは異なっている。そういった意味では、田舎や山奥住まいという素性もそぐわないだろう。
いっそのこと、大名の放蕩息子とでもした方が似合っている気もした。
町人の暮らしに疎いところも、それで説明がつくだろう。
絲の口から笑いが漏れる。
「どうした、お絲」
「なんでもないわ。さあ、入りましょう旦那。今の着物よりだいぶ質は落ちるけれど、品数は多いと思うわよ」
「俺にはよくわからん、お絲――」
「そう言うと思ったわ」
不安げに眉を下げた佐田彦を遠慮なく笑い、絲は男の袖を引いて、店へと足を踏み入れた。
佐田彦の背に合った袷はやはりなく、出来るだけ丈の長い物を買い入れた。糸をほどき、仕立て直せばよいだろう。
「助かった。礼を言う、お絲」
「似合ったものが見つかってよかったわ」
群青色の羽織を着た佐田彦が、満足そうに微笑み、羽織をしげしげと眺めている。
「綿を入れた方がよければ、そうするけど?」
「いや、構わん。これ以上は重くなる。そうなると動きが鈍る」
右手でなにかを握り、振り払うような仕草をする。それは剣術の型に似た動きで、驚いた絲は訊ねた。
「旦那も剣を使うお人なの?」
「使わんこともないがな。例の辻斬りとやらのように、鬼が人に巣食うておれば、こちらもそれに合わさねばならんだろう。だが、鬼自体は刃物で切り伏せられるものではないのだ」
「では、なにで斬るの?」
「気だ」
「き?」
「気の力。それが乗っておれば、その辺りに転がっておる、棒切れでも斬れぬことはない。相手が強ければ、それなりの道具を必要とするが、小鬼程度であれば、それで十分だ」
眉を寄せて考えこむ絲を見やり、佐田彦は笑みを浮かべて「深く考えるな」と声をかけた。
「思考に囚われすぎると鬼を呼びかねん。気を病むというだろう?」
「きというのは、そういう意味の『気』なのね。気合い」
「そういうことだ」
「では旦那はとても強いお人なのね。あの腑抜けた兄に、見習わせてやりたいところだわ」
「直太郎殿か?」
「店の手伝いもしないで、ふらふらと」
「どこへ参っておるのだ?」
「知らない。教えてくれないの」
「そうか」
「先月は、戯作者になりたいなどといって、部屋へ籠っていたの。原稿を持ち込んだところ、すげなく断られたそうよ。あれはあちらの才覚がないのだと憤慨していたけれど、才覚がないのは兄さんの方だと思うわ」
それ以外にも、同心の手先になりたいと直談判に赴き即座に叩き出されたなど、その変わった振る舞いは枚挙にいとまがない。妹である絲は、肩身が狭いのである。
思いついたが吉日とばかりに行動する直太郎だが、不思議と憎めないところがあり、「また直太郎かい、仕様がねえ野郎だなあ」で済まされてしまうのだから、始末が悪いと絲は考えている。
幼い頃からの数々の失敗談を笑いながら聞いていた佐田彦は、文句を言いながらも決して兄を嫌ってはいない絲に気づき、胸のうちがまたもどかしくなった。差配の辰五郎と言葉を交わした時と、似た感覚が飛来する。
川沿いの道に通りかかったところで、絲が立ち止まった。
「どうした」
「あそこ。
指差した先には、赤い色をした小袖に身をつつんだ童の背が見えた。
道行く人は気にも止めず通りすぎて行くのを見かねたのか、絲は佐田彦の言葉に耳を貸さず、小さな背中の方へと降りて行く。
佐田彦は、絲から渡された風呂敷を抱え直し、彼女の後を追った。
「どうしたの? 迷子?」
絲が声をかけると、子供は振り返った。
齢五つほどだろうか。大きな瞳に、ふくふくとした頬。あどけない顔つきをしたその子供は、絲を見て、目をまたたかせた。
しゃがみこんだ子の足元には、
親の手伝いでもしているのだろうかと思ったが、ここは商店が主に並ぶ道。子連れ家族が住まうような区域ではない。そして、食材をこのような往来の川で洗う行為もまたおかしい。そういったことは、井戸水を使うものだろう。
「なあ、お絲。そいつは――」
「小豆を洗っているの?」
佐田彦が声をかけるより前に、絲は子供に問うた。
数回まばたきをした子供は、絲をじっと見つめていたが、やがて頷く。
そして、小さな声をだした。
「うまく、できないの」
「おっかさんに頼まれた?」
「うまくできないの」
「そっか、難しいねえ」
「できない」
それだけを繰り返す子に、絲は手を伸ばして笊の中へ右手を投じる。指先に砂利の感触があり、これを洗い落とそうとしているのだとわかった。
だがこの場所では、いくら洗ったところで、土汚れが増すだけだろう。
「ねえ。お姉ちゃんのおうちに来る?」
「お絲――」
「帰りは坊やのおうちまで送ってあげるわ。一緒に小豆を綺麗にしましょうよ。ついでにお汁粉をご馳走してあげるわ」
ね、と笑いかける絲を見上げて、子供はこくりと頷いた。
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