壱、稲荷神社

 いとがその男を見つけたのは、明け六つ(午前六時)を過ぎた頃だった。

 長屋からさほど離れていない場所にある、小さな稲荷神社に参った折に、ほこらに寄りかかるように伏している男の姿があったのである。

 怖々と近づいても、酒気の匂いは感じられない。時折、動く身体から推察するに、どうやら死人というわけではないらしい。

 では、何故このような時分に、寂れた祠で寝ているのか。

「あの、もし? どこかお悪いのですか?」

 やまいにでもおかされたのかと絲が声をかけると、僅かばかりにうごめいた。

 つれて男の顔がちらりと覗く。

 鼻筋の通った顔に「あら、なかなかの男前だわ」と独りごちる。

 絲の呟きが聞こえたわけでもないだろうが、男の目蓋がぴくりと揺れて、薄く目が開く。

 切れ長の瞳が数回まばたきを繰り返し、やがて自身を覗きこむ人影に気づいたか、絲の方を仰いだ。

 乾いた唇が震え、声にならぬ声をあげる。


「お気がつかれましたか?」

「…………」

「もし立ち上がれぬほどでしたら、誰ぞ人を呼んで参りますが」

「…………た」

「はい? なんです?」

 絲は腰を落とし男の傍近くに膝をつくと、小さな声を拾おうと顔を寄せる。男は、絲の耳元へ唇を寄せると、れの声で呟いた。

「……らが、減った」

「はい?」

 思わず問い返した絲に、男は再度呟く。

「腹が、減った」

「はい!?」

 絲が返した言葉に、男の腹がぎゅるると返事をしたのである。



  ◇◆◇



「なんて罰当たりな」

「まあ、良いではないか。腹をかせた者に食物を施すのだ。稲荷神とて怒るまい」

 そう言って男は、ふたつめの握り飯に食らいつく。

 絲の手で握ったそれは、男にはやや小振りであるせいか、その一口で半分以下にまで減ってしまっている。

 勿体ないことを。

 絲は溜め息を落とす。

 そもそもこれは、稲荷神社へそなえるための物であって、決して、この得体の知れない男が食すための物ではないのである。

 非難の目を気にするふうでもなく、男がさらに握り飯に手を伸ばすのを、黙って見守る。眉間に寄る皺を隠す気には、もうなれない。

 だが、口元に米の粒をつけながら、幸せそうに頬張る姿を見るのは、悪い心持ちではない。団子屋の娘である絲にしてみれば、食べる時に浮かんでいる笑顔は嬉しいものなのだ。

 切れ長の瞳が細められ、どこか狐を彷彿とさせるのは、ここが稲荷神社であるせいなのか。赤い前掛けをした神狐にかわり、狐目の男が握り飯を旨そうに食らっている。

 複雑な思いを抱える絲の前で、男は大きな手を合わせて、頭を垂れた。


「旨かった。まっこと旨かった。おまえさん、なかなかの料理上手だな」

「握り飯なぞ、誰が作っても同じです」

「そうはいかんだろう。塩加減、握り具合、色々とあろうぞ」

「知っておりますか? 空腹にまさる味はないのですよ」

「そう謙遜せんでもよいではないか」

 指についた米粒をぺろりと舌で舐めとり、男は首をかしげた。

「そのようなことはどうでもよいのです。それで、貴方様は一体何者なのですか? 何故、このような所で行き倒れておいでになるのですか?」

「行き倒れておったわけではないぞ。腹が減って動けなかっただけで」

「同じことではありませんか」


 男は何やらかたくなに行き倒れという言葉を否定し、絲はもう諦めることにした。

 長屋に住む植木屋の親父も、とかく己の非を認めたがらないところがある。男もまた、似たような気質なのであろう。そういったやからには、言うだけ無駄であることを絲は承知している。


「では、私はこれで失礼いたします。これからは、なんぞ持ち歩くことをお勧めいたします」

「まあ、待て」

「なんですか?」

 もう何も持ち合わせておりませんが? と問うと、男は、まだ朝だというのに、すでに今宵寝泊まりする場所を探しているのだという。

 随分と気の早いことだと思いながらも、思案する。

 この辺りは宿場町ではないので、旅籠なぞはない。長期逗留できるような場所となれば、もっと先へ進んだ方がよいだろう。

 しかし男は、この付近から離れるつもりはないようで、ついにはこう言いはじめた。

「……ならば、どこぞの軒先でも」

「なにをおっしゃっているのですか。夜ともなれば、一層冷えます。だというのに、戸外で寝るおつもりですか?」

「まずいか?」

「当たり前です」

 絲が怒気をこめてそう言うと、男は「そうか……」と考えこんだ。

 その時である。

 時の鐘が響き、息を呑んだ。男に付き合っているうちに、随分と時が経っていたらしい。腰かけていた石から立ち上がり、絲は男を見下ろした。

 大きな身体つきのくせに、どこか儚く見えるのは、何故なのだろう。腹を空かして行き倒れ、今日の宿もないから軒先を探す、などということを聞いてしまったせいだろうか。

 ああ、もう。仕様がない。

 なんだか捨て置けなくて、絲は男に言った。

「ねえ、旦那。ひとまず、うちに来る? 軒先よりはましだと思うわよ」

「本当か?」

「気になって眠れやしないわよ。明日の朝、死人の話なんて、聞きたかないもの」

 口を尖らせる絲に、男は立ち上がって傍へ寄る。

 今までずっと座り込んでいたので気づかなかったが、男は見上げるほどに高かった。

 驚いた己を少し恥じながら、絲は改めて男に問う。

「私は絲よ。旦那、名前は?」

佐田彦さたひこだ」

 男――佐田彦は、狐目を細めて笑った。



  ◇◆◇



「お絲、どこで油売ってやがったんだ」

「ごめんなさい、父さん」

 しょんぼりと眉を下げた絲に、「まあまあ」と取りなすように声をかけたのは、兄の直太郎なおたろうである。

「それでおまえ、後ろの御仁は一体なんだ?」

「拾った」

 けろりとした面持ちでそう告げた絲に、父と兄は唖然とする。

 きしと音を立て、背後から顔を出したまつは、棒立ちの亭主と息子を見やり、そうして娘に向かう。

「まったくあんたは、犬や猫じゃないんだから、よりにもよって男を拾ってくることはないだろうに」

「だって宿無しだって言うんだもの。死体になって転がっていたら、夢見が悪いじゃない」

「どこで拾ったって?」

「……どこでだっていいじゃない」

 母の問いに軽口を返していた絲だったが、そこで急に言葉を濁した。佐田彦は不審顔となり、小声で問う。

「もしや、あそこへまいっていたのは、内密のことなのか?」

 黙することで答えた姿に、佐田彦はふむと頷く。なにやら抱えるものがあるらしい。

「五町(約三百メートル)ほど先の大木の所でな、腹が減って動けぬようになっていたところを、そなたらの娘御むすめごに救っていただいたのだ。流れ者ゆえ勝手のわからぬところ、ひとまずは店へと誘うていただいた。不躾で申し訳ない」

 大きな背を丸めて、佐田彦が頭を下げる。

 絲は目を剥いて驚いたが、家族の顔は男の方へ向いており、絲の顔に気づいた様子はなかった。

 ふうと息をはき、絲は気を落ち着かせる。


 あの稲荷神社へもうでは、男の言ったとおり、誰にも話していないことである。

 だからこそ、皆が起き出す前に、こっそりと抜け出しているのだ。

 店の支度したくがあるため、朝餉あさげは絲が作っている。ひそかに握り飯を用意するぐらいは、造作もないことだった。

 ぐぐうと、地の底を這うような音がして、一同の目が佐田彦へ向かう。

 男は腹を押さえ、頭をかく。

 松が呆れたように呟いた。

「まあまあ、豪快な音だこと。本当に腹を空かしておいでなのねえ」

「面目ない」

「料理茶屋のようにはまいりませんが、ご一緒にいかがですか?」

「よろしいので?」

「腹を空かせた者を放り出すなど、曲がりなりにも食べ物を扱う店の名折れですよ」

「お絲、構わんだろう?」

「父さんたちが許すなら、私はかまわないわ」

 そもそも連れてきたのが絲なのだ。支障などあろうはずもない。


 松が手を打ち、各々が動き出す。身の置き所がない佐田彦は、邪魔をしては悪かろうと脇へと避けた。もともと火の入っていた鍋はすぐに温められる。絲が人数分の椀に味噌汁を注ぐと、直太郎が運んで並べていく。

 子供らが動き、二親が座して待つのが、家族のいつもの風景だ。

 商いを行う親を支えるべく兄妹が考えたことであり、そんな二人の心を無下にしないと、父親の亥之助いのすけは受け入れている。


「さあ、佐田彦さん。召し上がってください」

「ご相伴にあずかります」

 箸を取りあげて、味噌汁をすする。

 ほろりと口の中を柔らかく浸透していくなにか。

 不思議と身体に馴染む、優しい味である。

 知らず口元がほころび、佐田彦の目が細まった。

 刻まれた油揚げが汁気を吸って、それだけで飯が進む。箸休めにと伸ばした漬物もまた旨く、これもまた飯のおかずに丁度良い。

 見守る四人を知ってか知らずか、佐田彦の手は止まらず、飯茶碗の白米は嵩を減らしていく。

「気持ちがいい食べっぷりだねえ、旦那」

「胸がすくようだよ」

 直太郎が感心したように言い、松は笑い声をだす。己の膳を持って座った絲はといえば、こちらはさきほどのことを覚えているものだから、呆れ顔である。

 握り飯みっつをたいらげておきながら、まだこれだけの飯が食べられるとは。この方のお腹は、一体どうなっているだろう。

 眉を潜めている絲に気づいた佐田彦が、にやりと笑う。悪戯いたずらを仕掛けた子供のような顔に、毒気を抜かれる。

「もうよろしいのですか?」

 手を差し出して問えば、絲の手に佐田彦の茶碗が触れる。

「おまえの飯は旨いな」

「……お世辞は結構です」

「なんだお絲。いつもならば偉そうにするくせに、なにを遠慮しているんだ」

「兄さん、余計なことを言わないで」

「さては男を相手に恥じらっておるのか? そんなたまでもあるまいに」

 からからと笑う直太郎に、絲は憤怒の顔を作り、汁椀を取り上げる。

「そのような物言いをなさる方は、食べる必要ありません」

「おい待て、まだ最後まで食うておらん」

「あげません」

 じゃれあう兄妹に、母親の松が手を叩く。

「食事中ですよ。集中なさい」

「はい、すみませぬ」

 ぴたりと双方が固まり、定位置へと戻って箸を取る。絲は、おひつから白米をよそい、佐田彦へと渡す。受け取った佐田彦は、ちらりと家族を一瞥して得心する。

 なるほど。母には逆らえぬということか。

 くくくと忍び笑いをもらす男に、隣に座る絲は口を尖らせた。



  ◇◆◇



 絲の家は、表店おもてだなで「萩屋はぎや」という団子屋を営んでいる。

 団子だけではなく、大福餅も取りそろえ、ひとつ四文(約六十円)。

 武家御用達の大店が並ぶ界隈からは、遠く離れた場所である。商いの相手はもっぱら町人であるため、気軽に立ち寄れる良い店だ。

 勿論、味だって悪いわけではない。

 幼い頃より、その味で育った絲は、両親の作る団子に勝るものはないと思っている。

 小豆をしながら、首から掛けた手拭いで、滲んだ汗をぬぐう。

 冬場であっても、火の傍での作業は、汗を噴くものだ。


「手伝おうか」

「結構です」

「だが、女子おなごにばかり働かせておるのは――」

「餡を濾すだけと思ってもらっては困ります。これだって味の決め手なんですからね。他所よそのお人に任せるわけがないでしょう」

「なるほど、道理だな」

「わかっていただけたなら、話してくださいな」

「なにをだ?」

「この家を追い出してもかまわないのだけれど?」

「冗談だ」

 ぎろりと睨むと、佐田彦は降参とばかりに両手をあげた。

 床几しょうぎに腰を落とし、吸い込んだ息を吐き出す。絲は手を休めずに、男の口に任すままにする。

 しばし沈黙が続き、絲が餡を濾す音だけが場を支配した。表からは時折、団子や大福を買い求める客の声が聞こえてくる。


「俺は旅をしておってな」

「嘘ね」

「おい、いきなりだな」

「だって荷を持っていないじゃないの。旅をしていたっていうのなら、どこから来たか言ってみなさいよ」

「……道理だな」

 一刀両断にされ、佐田彦は苦笑いを浮かべる。

 さて、どうしたものかと思案しながら、絲を見た。

 小豆色の縞木綿に、名の通り小豆餡が飛んでいることに、気づいているのかいないのか。懸命に餡を濾す孝行娘に、嘘を言うのは忍びない。

 だが――と、腕を組んで、くうを睨む。

 するとそこで、ぽつりと絲が呟いた。

「ごめんなさい」

「どうした急に」

「誰にだって言いたくないことがあるのよね。いいえ、言えないことだわ」

 口を引き結び、泣きそうな面持ちとなる。

「もういい、聞かない。ねえ、いつまでここにいるの? すぐには出立しないのよね」

「お絲――」

「旦那、お金は持っているの? ここの長屋は安い方だと思うわ。空きだって幾つもあるし、差配さんには、父さんに口をきいてもらえば大丈夫よ」

 早口で話す絲に、佐田彦がなんと声をかけようかと迷った時だ。

 ぱちりという音と共に、かまどから薪が跳ねた。

 火種を伴ったそれは、まっすぐに絲へと向かう。

 咄嗟に右手で顔を庇った絲の身体を、佐田彦の大きな身体が庇う。目前にある鼠色の小袖に驚きながら、絲は男に問いかけた。

「……ねえ、旦那。どういうこと?」

「どういう、とは?」

「だっておかしいじゃない。私と旦那の間には、餡を載せた台があるのに、一体どうやってここへ来たっていうの」

「飛び越えてだな」

「嘘。勢いもつけずに飛び越せるわけがないわ」

 詰め寄る絲に、佐田彦は後ずさる。

 重い息を漏らしながら顔に手をやり、指の隙間から絲を見た。

「……本当に飛んだのだと言えば、信ずるか?」

軽業師かるわざしなの?」

「違うよ。ほれ」

 言うが易しとばかりに、佐田彦は絲の両手を取る。

 急に手を取られ恥じらう絲の前で、佐田彦の背が伸びた。

 否。

 背丈が伸びたわけではなく、男の身体そのものが空へと浮いたのだ。

 目を丸める絲に、佐田彦がにがい笑みを浮かべた。



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