壱、稲荷神社
長屋からさほど離れていない場所にある、小さな稲荷神社に参った折に、
怖々と近づいても、酒気の匂いは感じられない。時折、動く身体から推察するに、どうやら死人というわけではないらしい。
では、何故このような時分に、寂れた祠で寝ているのか。
「あの、もし? どこかお悪いのですか?」
つれて男の顔がちらりと覗く。
鼻筋の通った顔に「あら、なかなかの男前だわ」と独りごちる。
絲の呟きが聞こえたわけでもないだろうが、男の目蓋がぴくりと揺れて、薄く目が開く。
切れ長の瞳が数回まばたきを繰り返し、やがて自身を覗きこむ人影に気づいたか、絲の方を仰いだ。
乾いた唇が震え、声にならぬ声をあげる。
「お気がつかれましたか?」
「…………」
「もし立ち上がれぬほどでしたら、誰ぞ人を呼んで参りますが」
「…………た」
「はい? なんです?」
絲は腰を落とし男の傍近くに膝をつくと、小さな声を拾おうと顔を寄せる。男は、絲の耳元へ唇を寄せると、
「……らが、減った」
「はい?」
思わず問い返した絲に、男は再度呟く。
「腹が、減った」
「はい!?」
絲が返した言葉に、男の腹がぎゅるると返事をしたのである。
◇◆◇
「なんて罰当たりな」
「まあ、良いではないか。腹を
そう言って男は、ふたつめの握り飯に食らいつく。
絲の手で握ったそれは、男にはやや小振りであるせいか、その一口で半分以下にまで減ってしまっている。
勿体ないことを。
絲は溜め息を落とす。
そもそもこれは、稲荷神社へ
非難の目を気にするふうでもなく、男がさらに握り飯に手を伸ばすのを、黙って見守る。眉間に寄る皺を隠す気には、もうなれない。
だが、口元に米の粒をつけながら、幸せそうに頬張る姿を見るのは、悪い心持ちではない。団子屋の娘である絲にしてみれば、食べる時に浮かんでいる笑顔は嬉しいものなのだ。
切れ長の瞳が細められ、どこか狐を彷彿とさせるのは、ここが稲荷神社であるせいなのか。赤い前掛けをした神狐にかわり、狐目の男が握り飯を旨そうに食らっている。
複雑な思いを抱える絲の前で、男は大きな手を合わせて、頭を垂れた。
「旨かった。まっこと旨かった。おまえさん、なかなかの料理上手だな」
「握り飯なぞ、誰が作っても同じです」
「そうはいかんだろう。塩加減、握り具合、色々とあろうぞ」
「知っておりますか? 空腹に
「そう謙遜せんでもよいではないか」
指についた米粒をぺろりと舌で舐めとり、男は首を
「そのようなことはどうでもよいのです。それで、貴方様は一体何者なのですか? 何故、このような所で行き倒れておいでになるのですか?」
「行き倒れておったわけではないぞ。腹が減って動けなかっただけで」
「同じことではありませんか」
男は何やら
長屋に住む植木屋の親父も、とかく己の非を認めたがらないところがある。男もまた、似たような気質なのであろう。そういった
「では、私はこれで失礼いたします。これからは、なんぞ持ち歩くことをお勧めいたします」
「まあ、待て」
「なんですか?」
もう何も持ち合わせておりませんが? と問うと、男は、まだ朝だというのに、すでに今宵寝泊まりする場所を探しているのだという。
随分と気の早いことだと思いながらも、思案する。
この辺りは宿場町ではないので、旅籠なぞはない。長期逗留できるような場所となれば、もっと先へ進んだ方がよいだろう。
しかし男は、この付近から離れるつもりはないようで、ついにはこう言いはじめた。
「……ならば、どこぞの軒先でも」
「なにをおっしゃっているのですか。夜ともなれば、一層冷えます。だというのに、戸外で寝るおつもりですか?」
「まずいか?」
「当たり前です」
絲が怒気をこめてそう言うと、男は「そうか……」と考えこんだ。
その時である。
時の鐘が響き、息を呑んだ。男に付き合っているうちに、随分と時が経っていたらしい。腰かけていた石から立ち上がり、絲は男を見下ろした。
大きな身体つきのくせに、どこか儚く見えるのは、何故なのだろう。腹を空かして行き倒れ、今日の宿もないから軒先を探す、などということを聞いてしまったせいだろうか。
ああ、もう。仕様がない。
なんだか捨て置けなくて、絲は男に言った。
「ねえ、旦那。ひとまず、うちに来る? 軒先よりはましだと思うわよ」
「本当か?」
「気になって眠れやしないわよ。明日の朝、死人の話なんて、聞きたかないもの」
口を尖らせる絲に、男は立ち上がって傍へ寄る。
今までずっと座り込んでいたので気づかなかったが、男は見上げるほどに高かった。
驚いた己を少し恥じながら、絲は改めて男に問う。
「私は絲よ。旦那、名前は?」
「
男――佐田彦は、狐目を細めて笑った。
◇◆◇
「お絲、どこで油売ってやがったんだ」
「ごめんなさい、父さん」
しょんぼりと眉を下げた絲に、「まあまあ」と取りなすように声をかけたのは、兄の
「それでおまえ、後ろの御仁は一体なんだ?」
「拾った」
けろりとした面持ちでそう告げた絲に、父と兄は唖然とする。
きしと音を立て、背後から顔を出した
「まったくあんたは、犬や猫じゃないんだから、よりにもよって男を拾ってくることはないだろうに」
「だって宿無しだって言うんだもの。死体になって転がっていたら、夢見が悪いじゃない」
「どこで拾ったって?」
「……どこでだっていいじゃない」
母の問いに軽口を返していた絲だったが、そこで急に言葉を濁した。佐田彦は不審顔となり、小声で問う。
「もしや、あそこへ
黙することで答えた姿に、佐田彦はふむと頷く。なにやら抱えるものがあるらしい。
「五町(約三百メートル)ほど先の大木の所でな、腹が減って動けぬようになっていたところを、そなたらの
大きな背を丸めて、佐田彦が頭を下げる。
絲は目を剥いて驚いたが、家族の顔は男の方へ向いており、絲の顔に気づいた様子はなかった。
ふうと息をはき、絲は気を落ち着かせる。
あの稲荷神社へ
だからこそ、皆が起き出す前に、こっそりと抜け出しているのだ。
店の
ぐぐうと、地の底を這うような音がして、一同の目が佐田彦へ向かう。
男は腹を押さえ、頭をかく。
松が呆れたように呟いた。
「まあまあ、豪快な音だこと。本当に腹を空かしておいでなのねえ」
「面目ない」
「料理茶屋のようにはまいりませんが、ご一緒にいかがですか?」
「よろしいので?」
「腹を空かせた者を放り出すなど、曲がりなりにも食べ物を扱う店の名折れですよ」
「お絲、構わんだろう?」
「父さんたちが許すなら、私はかまわないわ」
そもそも連れてきたのが絲なのだ。支障などあろうはずもない。
松が手を打ち、各々が動き出す。身の置き所がない佐田彦は、邪魔をしては悪かろうと脇へと避けた。もともと火の入っていた鍋はすぐに温められる。絲が人数分の椀に味噌汁を注ぐと、直太郎が運んで並べていく。
子供らが動き、二親が座して待つのが、家族のいつもの風景だ。
商いを行う親を支えるべく兄妹が考えたことであり、そんな二人の心を無下にしないと、父親の
「さあ、佐田彦さん。召し上がってください」
「ご相伴にあずかります」
箸を取りあげて、味噌汁を
ほろりと口の中を柔らかく浸透していくなにか。
不思議と身体に馴染む、優しい味である。
知らず口元が
刻まれた油揚げが汁気を吸って、それだけで飯が進む。箸休めにと伸ばした漬物もまた旨く、これもまた飯のおかずに丁度良い。
見守る四人を知ってか知らずか、佐田彦の手は止まらず、飯茶碗の白米は嵩を減らしていく。
「気持ちがいい食べっぷりだねえ、旦那」
「胸がすくようだよ」
直太郎が感心したように言い、松は笑い声をだす。己の膳を持って座った絲はといえば、こちらはさきほどのことを覚えているものだから、呆れ顔である。
握り飯みっつをたいらげておきながら、まだこれだけの飯が食べられるとは。この方のお腹は、一体どうなっているだろう。
眉を潜めている絲に気づいた佐田彦が、にやりと笑う。
「もうよろしいのですか?」
手を差し出して問えば、絲の手に佐田彦の茶碗が触れる。
「おまえの飯は旨いな」
「……お世辞は結構です」
「なんだお絲。いつもならば偉そうにするくせに、なにを遠慮しているんだ」
「兄さん、余計なことを言わないで」
「さては男を相手に恥じらっておるのか? そんなたまでもあるまいに」
からからと笑う直太郎に、絲は憤怒の顔を作り、汁椀を取り上げる。
「そのような物言いをなさる方は、食べる必要ありません」
「おい待て、まだ最後まで食うておらん」
「あげません」
じゃれあう兄妹に、母親の松が手を叩く。
「食事中ですよ。集中なさい」
「はい、すみませぬ」
ぴたりと双方が固まり、定位置へと戻って箸を取る。絲は、お
なるほど。母には逆らえぬということか。
くくくと忍び笑いをもらす男に、隣に座る絲は口を尖らせた。
◇◆◇
絲の家は、
団子だけではなく、大福餅も取りそろえ、ひとつ四文(約六十円)。
武家御用達の大店が並ぶ界隈からは、遠く離れた場所である。商いの相手はもっぱら町人であるため、気軽に立ち寄れる良い店だ。
勿論、味だって悪いわけではない。
幼い頃より、その味で育った絲は、両親の作る団子に勝るものはないと思っている。
小豆を
冬場であっても、火の傍での作業は、汗を噴くものだ。
「手伝おうか」
「結構です」
「だが、
「餡を濾すだけと思ってもらっては困ります。これだって味の決め手なんですからね。
「なるほど、道理だな」
「わかっていただけたなら、話してくださいな」
「なにをだ?」
「この家を追い出してもかまわないのだけれど?」
「冗談だ」
ぎろりと睨むと、佐田彦は降参とばかりに両手をあげた。
しばし沈黙が続き、絲が餡を濾す音だけが場を支配した。表からは時折、団子や大福を買い求める客の声が聞こえてくる。
「俺は旅をしておってな」
「嘘ね」
「おい、いきなりだな」
「だって荷を持っていないじゃないの。旅をしていたっていうのなら、どこから来たか言ってみなさいよ」
「……道理だな」
一刀両断にされ、佐田彦は苦笑いを浮かべる。
さて、どうしたものかと思案しながら、絲を見た。
小豆色の縞木綿に、名の通り小豆餡が飛んでいることに、気づいているのかいないのか。懸命に餡を濾す孝行娘に、嘘を言うのは忍びない。
だが――と、腕を組んで、
するとそこで、ぽつりと絲が呟いた。
「ごめんなさい」
「どうした急に」
「誰にだって言いたくないことがあるのよね。いいえ、言えないことだわ」
口を引き結び、泣きそうな面持ちとなる。
「もういい、聞かない。ねえ、いつまでここにいるの? すぐには出立しないのよね」
「お絲――」
「旦那、お金は持っているの? ここの長屋は安い方だと思うわ。空きだって幾つもあるし、差配さんには、父さんに口をきいてもらえば大丈夫よ」
早口で話す絲に、佐田彦がなんと声をかけようかと迷った時だ。
ぱちりという音と共に、
火種を伴ったそれは、まっすぐに絲へと向かう。
咄嗟に右手で顔を庇った絲の身体を、佐田彦の大きな身体が庇う。目前にある鼠色の小袖に驚きながら、絲は男に問いかけた。
「……ねえ、旦那。どういうこと?」
「どういう、とは?」
「だっておかしいじゃない。私と旦那の間には、餡を載せた台があるのに、一体どうやってここへ来たっていうの」
「飛び越えてだな」
「嘘。勢いもつけずに飛び越せるわけがないわ」
詰め寄る絲に、佐田彦は後ずさる。
重い息を漏らしながら顔に手をやり、指の隙間から絲を見た。
「……本当に飛んだのだと言えば、信ずるか?」
「
「違うよ。ほれ」
言うが易しとばかりに、佐田彦は絲の両手を取る。
急に手を取られ恥じらう絲の前で、佐田彦の背が伸びた。
否。
背丈が伸びたわけではなく、男の身体そのものが空へと浮いたのだ。
目を丸める絲に、佐田彦が
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