守屋の遺書
*
『私が死ぬとき』
私が死ぬときこの国から消えるのは私のタマシイだけだろうか? 消える前に残しておくことにした、これはそう遺書だ遺言だ、まもなく私は死ぬだろうでもそれは私の望みではない、絶望が私にそれをさせるのだ
我ながら頭のなかにカスミかかったよう、しりめつめつだ、何も考えられない……
*
「……なんだ、これ? 日本語とは思えないな。しりめつめつって、
美しくととのった細い眉をしかめて、八重咲が不平を言う。そんな表情をされると、どうも、いかがわしい。
「そうだろう? 死ぬ前には、そうとう心を病んでいたみたいだな」
「病んでねぇ……」
「とにかく、続きを読んでくれよ」
八重咲は黒真珠のような瞳を手帳にむける。
*
私には学生時代からつきあっている人がいる。しかし最近べつに好きな人ができた、その人のことが気になってならない気がつくとあの人の姿を求めて住居のちかくをはいたいしている、ストーカーと思われてもしかたないほどだが私にはとめられずただただあの人に会いたくてさまよう、あの人香りが空気にとけて甘いので胸いっぱい生きを吸収して私は天国に待っているとあの人がコンビニでシーザーサラダとオニオングラタンを買っていだたので次の日から同じ物を買ってあげようと思った、毎日あの人が朝起きるまでにアパートのドアにかけておこうきっと喜ぶるきっときっときっときっとふふふふふふはふふふふ
*
「僕の読解力不足かな? 読めないんだけど」
八重咲はウンザリしたように手帳をなげだした。
衝撃でコーヒーカップがカチャンと音を立てた。
コナコーヒーの甘い香りがたゆたう。
そういえば、この前、会ったとき、守屋はコナを飲んでいた。あいつは長いことキリマンジャロを愛飲していたのに。
「そう言うなよ。守屋に好きな相手ができたのは、ほんとらしいんだ。香坂が『とつぜん、ふられた』って半年前に泣きついてきた。あいつら結婚の約束してたのに」
「香坂って誰?」
「何を言ってるんだ。ミス大学だぞ。それも二年連続。すごい美人がいつも、守屋にひっついてたろ?」
「そうだっけ? 死体以外の女には興味ないんだ。そもそも、僕の容姿に見劣りしないだけの女なんている?」
「まあ、そうだけど……」
「ふうん。守屋くん、フィアンセがいたんだ」
八重咲はたいして関心もなさそうに、白磁のカップを白い指で、すっと持ちあげる。ごくごくと彼の喉が動くのをながめた。
以前からずっとそうだったが、彼と話していると調子が狂う。
学生時代の八重咲は、どう見てもただの変人だった。フレームの太い奇抜な色つきメガネと目の下までかくれる大きなマスクで顔をおおっていた。何かを恐れるように、つねにオドオドしていた。
なのに、卒業してからほんの半年後、たまたま再会した彼は、まるで別人のようになっていた。むこうから声をかけてくるまで、綾野はそれが八重咲本人であることにすら気づかなかった。
そのとき、綾野は一週間ぶりに守屋と飲んでいた。
「やあ、あいかわらず二人、仲いいんだね」
バーのなかでポンと肩をたたかれて、ふりかえった綾野は、あぜんとした。見たこともないほど麗しい男が、スマートなスーツ姿で立っていた。あまりの美貌に、綾野も守屋も声が出なかった。
「あれ? おぼえてない? 八重咲だよ」
「えッ? 八重咲? あの八重咲? いつも、うつむいて教室のすみっこにいた、あの八重咲?」
「ああ、そうだよ。ストーカーにおびえて、ずっと顔をかくしていた八重咲だよ。でも、もうやめたんだ。なんだかバカバカしくなってね」
この瞬間に立場が逆転した。
学生時代には、誰にも相手にされないかわいそうなヤツをかまってやるんだという認識でしかなかった。
しかし、再会してからは、気まぐれな王子さまに声をかけてもらうのを待つ召使いに変わった。ことに守屋はそれが
守屋とは故郷が同じ幼なじみだ。それも、小学から中学まで、ずっと同じクラスの。
なぜなら、故郷はひなびた離れ小島だ。島の人口は千人に満たない。とうぜん、子どもの数は少なく、同い年の子どもは守屋一人だった。
守屋はスポーツが得意で、泳ぎが上手で、島のなかでは一等、輝いていた。高校に進学するために島を出るまで、つねに子どもたちのリーダーだった。
綾野は守屋が東京の大学へ行くというから、ついてきたようなところがある。
大学を卒業し、別々の会社に勤めるようになっても、定期的に会って、中坊のするような話で一晩を明かした。
そこに八重咲がまざることが増えた。
それはそれで、とても楽しかったのだが、八重咲のオカルト趣味につきあわされることに、綾野はだんだん
誘いを断ることが続いた。
守屋はそれでも、八重咲の趣味につきあっていたようだが。
そのやさき、とつぜん、守屋が亡くなったのだ。
守屋の借りていたマンションの一室で首をつっていた。
警察は自殺と判断したが、それじたい、綾野は疑問に思う。少し前、ひさしぶりに会ったときの守屋は、むしろ、ふだん以上にはしゃいで見えた。
「守屋は恋をしてたんだよ。あのころ、守屋によく会ってたのは君だろ? 守屋から何か聞かなかったかな?」
八重咲はコーヒーカップをソーサーの上に置くと、トントンとひらいたままの手帳を指さきでたたいた。
「これ、ほんとに守屋くんの筆跡?」
「そうだけど。活字っぽい角ばった字が特徴だったよ」
「僕も何度か学生時代にノートを見たことがあるけどね。たしかに特徴的な筆跡だった。でも、これは、守屋くんが書いたものじゃない」
「えッ?」
八重咲の指が手帳の文面冒頭の“死”という字を丸く指でかこんだ。
「守屋くんは漢字のハネの部分を三角形に書くクセがあった。この字は似せているけど、それがない」
「あッ、ほんとだ!」
「誰かが守屋くんの遺品のなかに自分で書いたものをまぎれこませておいたのさ」
「なんのために?」
「彼の自殺の原因をすりかえるため。あるいは、彼の死を自殺に見せかけるため」
「……守屋は殺されたのか?」
「ニュースで見たけど、守屋くんは首にロープをまき、マンションの六階の自室から飛びおりた。ロープの反対側の端は自室のベッドの脚に結ばれていた。だが、彼の飛びおりた寝室の窓にはベランダがない。つまり、誰かが背後から守屋くんをつきとばすことはできた」
「守屋は一メートル八十こえるマッチョだぜ。むりやり首にロープかけるのは不可能なんじゃないか?」
「睡眠薬で眠らせておけばできるさ」
たしかに、八重咲の言うとおりだ。だてに異常犯罪が好物なわけではないらしい。
「でも、じゃあ、誰がいったい、守屋を?」
「……」
八重咲は答えず、手帳の続きを読んだ。長いまつげが白い頬に影を落とす。
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