第96話 陣触2

「沙希、菊、ちょっと手伝ってくれ」

「は、はい!」


 大八の大音声に耳を塞いでいた沙希は、急いで立ちあがる。


 障子を開けると、廊下で待機していた侍女が顔を上げるが、菊の顔を見て引き下がった。

 見張りは、菊がいれば十分ということだろう。幼い頃から、初の世話をしてきただけあって、家中の菊に対する信頼は絶大だった。


 自室へ戻り、目的の物を抱えて引き返す。


「姉上、それはなんです?」


 虎丸は興味津々と、初が運んできた物を覗き込む。

 片目をつぶって見せた初は、虎丸の頭をひと撫でし、目的の装置を組み上げた。


「これでよし、と。大八、水を汲んできてくれ」


 部屋の隅で縮こまっていた大八が、どたどたと廊下に飛び出して行き、あっという間に戻ってくる。


「これでよろしいですかな!?」

「いや、湯飲み一杯で良かったんだが……」


 大きなたらいに、なみなみと水を注いできた大八に、初は呆れる。


 小さな金属缶の中に、盥の水を注ぎ、蓋をする。蓋には小さな穴が二つ開いていて、初はその片方に黄色い柔らかな管を差し込んだ。

 管の先は、三又に分かれた真鍮管に繋がっている。


 真鍮管の残った口と装置を、同じく黄色い管で繋ぐ。

 陶製ランプに油が入っているのを確認した初は、虎丸を振り返った。


「さて、うまくいくかな?」


 わくわくと身を乗り出す虎丸に、おどけて見せる。初は菊から受け取った火種を、灯心に近づけた。


 火のついた陶製ランプを、金属缶の下に設置する。


 缶が炎の熱で温められ、頃合いを見計らった初は、素早く装置に触れた。

 指先でつついたピストンが、身震いするように動き出す。それに合わせて、ピストンと連結したクランクシャフトが、素早く回転し始めた。


「お、動いた動いた!」


 見事稼働した装置に、初は両手を叩き合わせた。

 すでに何度か動かした後だったので心配したが、杞憂だったらしい。


 シュルシュルと、音を立てて動き続ける装置に、室内にいた者たちは目を見張った。


「うわーっ、うわーっ!」と身体を揺する虎丸の横で、華は口元を覆っている。いつもは無表情な菊も、珍しく瞳に興味の色を浮かべ、よくわかっていないらしい沙希が首を傾げた。


「ひ、姫様……もしや、これは妖術……」


 腰を抜かした大八に、初は苦笑した。


「違う違う。これは蒸気機関の模型だよ」

「じ、じょうききかん?」


 顔色を青くする大八に、初は模型の金属缶部分を示した。


「ここに水を入れただろ? 水は熱するとお湯になり、蒸気になる。そうすると体積が変わって圧力差が──」


 説明をしかけて、初は中空を睨んだ。この原理を理解させるのに、いかほどの努力が必要か計算し、顔を戻すと、


「──これは、湯気の力で動いてるんだ」

「なんと! 湯気を使って、こんなことができるのですか!?」


 まあ工人相手じゃないしな、と初はおざなりにうなずいて見せる。


 この時代の動力は、人力か動物、あるは風や水といった自然エネルギーしか存在しない。産業の発展を促すためにも、蒸気機関の開発は必須だった。


 この世界には、まだ存在しない蒸気機関。その原理を教えるため、初は簡単な模型を用意することにした。

 ニューコメン機関や、ワットの蒸気エンジンなど。ああでもない、こうでもないと工人たちと試作した中で、特に出来が良かったのがこのVツインエンジンである。


 二つのピストンが交互に動き、クランクを回転させる様は、現実のエンジンと遜色ない。蒸気機関の肝であるピストンも、このくらいの大きさなら、職人の腕で製作可能だ。

 特に、一番工夫を凝らしたのが、ボイラーからピストンに蒸気を送るための管だった。


 最初は、和紙に漆を塗ったものを使おうとしたのだが、途中で蒸気が漏れてしまう。いろいろと考えた結果、初はゴムを使おうと思い立った。


 ラテックスは、主にゴムノキから採れるが、実は他の植物からも採取できる。現代では、タンポポの根から採れる樹脂が注目され、代替素材として開発が進められていた。

 それを思い出した初は、大量のタンポポを採取し、その根から樹脂を抽出。鍋で煮詰めて、種々の添加剤と硫黄を加えると、見事にゴムが出来上がった。


「この管の中を、蒸気が通るんだ。それで、このピストン中に入って、クランクを動かす。わかるか?」

「はい! 全然わかりません!」


 力強くうなずいた虎丸に、初は声を上げて笑った。


 ためしに管状に成型してみると、ゴムはしっかりと機能した。現代のゴムに比べると、少々強度が足りないが、それはこれからの課題だろう。


 虎丸は、ぐるぐると模型の周囲を歩き回る。ひとりでに動く模型が、面白くてならないらしい。


(あいつらも、俺が工作してると、よく覗きに来たっけ)


 現代の弟と妹を思い出し、初は口元を緩める。

 ゴムがあれば、絶縁体や蒸気機関のパッキンも作れる。一気に現実味を帯びてきた産業革命に、初は胸を熱くしたものだ。


「姉上! これは、何の役に立つのですか!?」

「うん? そうだなあ。このクランクに車輪を取り付ければ、馬がなくても荷車を動かせる。工作機械にも使えるし、もっと大きなものを造れば、舟だって──」


 蒸気機関の使い道を、一つ一つ数え上げる。


 ──あの頃の熱情は、今はもう初の胸には存在しない。それが良いことなのか、悪いことなのか、初にはわからなかった。


「本当に初様は、いろいろなことがお出来になるのですねぇ」


 模型を眺めていた華は、しみじみとした口調で呟いた。

 その顔に嫌味はない。肉付きの薄い頬には、どこか羨ましがっているような色が見え隠れした。


「湯気で動く仕掛けを造ったり。化け物のように大きな猪を倒したり。とても私には、真似できません……」

「失礼ながら、初姫様のほうが奇態なのです。華様が、羨まれる必要はないかと」


 失礼なことをぬかす菊に、華は小さく微笑んだ。


「初様を見ていると、自分がちっぽけな人間のように感じます。この方はきっと、何か大きなことを成し遂げられる。まるで太陽のような初様を見ていると、私などは目が潰れてしまいそうで──」


 華は、模型に夢中となった虎丸を、愛おしげに見つめる。


「──けれど、どんな偉人傑物であろうと、一人ですべてを成し遂げることはできませぬ。それがこの世をひっくり返すような大事とあれば、なおのこと」


 華は、ひたりと初に視線を据えた。眉を下げて笑うその顔から、初は目が逸らせなかった。


「一度、阿波守やすさだ様と話し合われてはいかがですか? 初様の思うところを、お父上にぶつけみては?」


 初は口を噤んだ。


 稼働し続けていた模型が、カラカラと異音を立て始める。それまで綺麗に回転していたクランクがぶれ始め、ピストンの動きが滑らかさを失っていく。


「止まっちゃった……」


 動きを止めた模型に、虎丸が呟きを漏らした。

 ボイラーの水は、まだ残っているはずだ。おそらく、部品の精度か耐久性が足りなかったのだろう。試作品なので、長時間稼働できるようには造っておらず、何度も動かすうちに、どこか壊れたのか。


「また造ってやるから。そんな顔をしないでおくれ」


 止まってしまった模型を、虎丸は悲しげに見つめている。


 ふと、初は自分がまだ幼かった頃の記憶を思い出した。


 小学生になるかならないかの頃。近づいてはダメだと言われていた工場に、入り込んだ込んだことがある。

 父親や従業員たちが、毎日なにかを造っている作業場が、あの頃の自分にはとても魅力的な場所に思えた。固く閉ざされた扉の隙間に身体をねじ込み、見つけた工作機械の数々は、宝の山のように見えた。


 夢中で作業場の中を駆け回っていると、物音を聞き付けた父親が走り込んできた。

 工作機械に触れる自分を叱り飛ばし、ここがどれだけ危険な場所か、なぜ近づいてはいけないのか、懇々と諭された。


 うつむく自分に嘆息すると、父親は古い旋盤に電源にを入れた。

 適当な鋼材を削り、見る見るうちに形を整えていく。繊細な作業をこなす父親の指先を、幼い瞳で一心に見つめていたのを覚えている。


(親父は、俺に好きなことをさせてくれたんだよな……)


 間違ったことをしても頭ごなしに怒らず、小さな子供の話にも耳を傾けてくれた。


 自分は、恵まれていたのだろうか?

 それを確かめられないことが、ひどくもどかしかった。

      








 出陣式は、厳かな雰囲気の中で行われた。

 安宅館の北に位置する八幡山はちまんやま。その麓に鎮座する八幡神社の境内には、安宅家の家臣団がずらりと顔を揃えている。


 天気は、快晴。抜けるような青空には、出陣を妨げる要素など、何一つ見当たらない。

 具足姿の男たちが見つめる先では、総大将である安定が床几しょうぎに腰かけている。


 鱗を模した胴鎧に、赤い絹糸でおどした草摺くさずり佩楯はいだて。職人が粋を凝らした具足は、主将が身に着けるに相応しい代物だった。

 安定の左右には、直定、頼定、信俊の姿もある。


 安定と直定が手にした盃に、小夜が瓶子へいしから酒を注ぐ。

 二人が酒を飲み干すと、次に進み出た華が、同じく酒を注いだ。


「さあ、初。あなたも」


 華から瓶子を受け取り、初はゆっくりと舞台の前に歩み寄った。

 大勢に見守られ、さすがの初も緊張する。

 酒をこぼさないよう、慎重に瓶子を傾ける。なんとか注ぎ終わったときには、思わず息を吐きそうになった。


 安定の手が、盃を口に引き寄せる。

 ことさらにゆっくりと酒を飲み干した安定は、土器かわらけの盃を境内に投げ捨てた。盃は玉砂利にぶつかり、粉々に砕けて見えなくなる。


「出陣──」


 低めた声が境内に響き渡る。具足姿の男たちが一斉に立ち上がる音が、山の木々に反響した。


「殿、ご武運を」


 境内に額ずいた小夜へ、安定はうなずく。その視線が、小夜の隣へと向けられた。


 玉砂利の上に跪いた初へ、安定は何かを告げようとした。口を開きかけて、しかし、結局なにも言わぬまま、口を閉じた。ただ視線だけが、初の瞳を捉えていた。


「ご武運を──」


 手をつく初に、安定がどのような顔をしたのか。初は最後まで、目にすることはなかった。

      







 出陣より一週間後。畠山家の軍勢が、三好方の拠点である岸和田きしわだ城を囲んだと報せがあった。


 劣勢の三好勢は、城に籠城。近江を発った六角ろっかく勢は、将軍山城しょうぐんやまじょうおよび神楽岡かぐらおか付近に陣を張り、上洛の機会を伺っている。

 戦はお味方の優勢で順調に推移していると、報告を持ってきた家臣は嬉しげに告げた。

 家中の者たちも、一先ずは胸を撫で下ろし、さあこれからだぞと気合を入れ直す。

 こんな時でさえ、婚姻の準備は滞りなく進み、初の身辺も徐々に騒がしさを増してきた。


 いつもと同じようでいて、しかし、何かが決定的に違う日常。

 ただ過ぎていく日々を眺めながら、初はさらに一月の時を過ごした。








 ──安宅館を大勢の領民が取り囲んだのは、夏も盛りの八月のことだった。

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