第95話 陣触
「まあ、お上手ですわね初様」
初が縫い上げた刺繍を見て、
布地に言われたとおり糸を通しただけだが、意外とうまく出来ている。絹糸で縫われた菊の花を見下ろし、初は小さく目を瞬いた。
「とてもはじめてとは思えませぬ。小夜様に習われていたのですか?」
「いや、まあ……鍜治場のほうで少々」
驚く華に、言葉を濁す。
母親を早くに亡くしたため、現代では縫物をする機会が多かった。
父親も祖父も、工作機械を使わせれば一流だが、針仕事はからっきし。独創性があり過ぎる妹と、何事も不器用な弟のために、名札や道具袋を作っていた経験が、こんなところで生きるとは。
「姫様は、何をやらせても名人ですから」
「うむ! なにせ、初姫様じゃからな!」
なぜか胸を張る
「この赤い糸のあたりが、特に良いですな! 実に、可憐で清楚で……」
「それ、アカシシ(カモシカ)だぞ?」
「そうでしたそうでした! この勇壮な感じが、なんとも武家らしくて良い!」
これ、絶対にわかってないな。
知ったかぶる大八に、初はジト目を向ける。
「今日のお題は、初様には物足りなかったかもしれませんね。これだけできるのでしたら、もう少し難しい図柄でも」
「い、いえ! 私など、まだまだですから。基本からお願いします!」
帳面を手にした華を見て、初は慌てる。
昔から身体が弱かった華は、床に臥せることが多かったという。あまり外を出歩けないため、裁縫や刺繍をして過ごす時間が長かった。
はじめは無聊を慰めるために行っていた刺繍だが、続けるうちに、だんだん楽しくなってきたと華は微笑んだ。
「野の草花に触れられずとも、刺繍ならば私にも愛でることができます。安宅家へ嫁いできてからは、よく直定様が異国の花を持ってきてくださって。それを刺繍の図柄におこすのが、何よりも楽しみなのです」
幼い頃からコツコツと積み上げてきた技術は、今では紀伊でも指折りと噂されている。それを証明するように、華が帳面に描いた図案は、どれも繊細かつ精緻極まりない。
それを事もなげに縫い上げて見せる華の技量は、まさに魔法だ。とても素人が真似できるものではない。
そんな華が言う“もう少し複雑”が、どれほどの技量を要求するか。想像するだけで、初は背筋が震えた。
華の指導を受けながら、初は糸を繰り続ける。
昔から、単純作業は好きだ。一つの動作を繰り返していると、だんだん無心になれる。徐々に心が平穏になっていく感覚には、何とも言えない心地よさがあった。
(そういや、実家の工場でも、よく旋盤を使ってたっけ)
縫い上げた刺繍を眺めながら、初は思い返した。
むしゃくしゃしたり、腹の立つことがあると、よく旋盤の前に立った。工場の片隅にある古い機械で、いろんなものを造るのだ。
文鎮、写真立て、キーホルダーと、使い道もないのに、いくつもいくつも。そうして自分が作業していると、必ず父親か祖父がやってきて、精度が甘いと苦言を呈する。それから、ああだこうだと騒ぎながら、また造り直すのが日課だった──
「──姉上!」
どたどたと廊下を走ってきた
胸に突き刺さる鈍痛を堪えた初は、飛び掛かってきた虎丸を、両腕で抱き留めた。
「おっと──また大きくなったか、虎丸? なんだか、前より重くなった気がするな」
「はい! 先日はかったら、背が一寸ものびていました!」
にぱーっと笑う虎丸。華は眉尻を下げるが、いいからいいからと、初は虎丸の頭を撫でた。
「手習いはよいのか、虎丸? 手を抜くと、また兄上に叱られるぞ?」
「今日の分は終えてきました。それより姉上、先日の話の続きを聞かせてください! 姉上は、どうやってあの大猪を退治なさったのですか!?」
虎丸の問いに、室内の空気が張りつめた。
沙希と大八が顔色を変える。あわあわとうろたえる沙希に対して、大八は、ぐっと口元を引き締めながら、
「虎丸様。そのお話は、少々……」
「いいよ、大八。別に、隠すことでもない」
虎丸を制止しようとした大八は、押し黙る。
安定の勘気をこうむってからというもの、初の身辺には、常に見張りが付くようになった。
どこへ行くにも、侍女や家臣たちが付いてまわる。以前は菊だけだったのが、近頃は隣の部屋、建物の角と、あらゆる場所に人の目が光っていた。
初の
無駄だからやめろと初は言っているのだが、大八に諦める気配はない。今日も、安定の命を受けた者たちを退けて、初の隣に侍っていた。
「──そのときだ! 身の丈八尺はあろうかという大猪が、私たちの前に躍り出てきた!」
沙希たちが気遣わしげな眼差しを向ける中、初は大仰な身振りで、大猪との戦いを語ってみせる。
すでに、何度も同じ話を繰り返した後なので、初の語り口もこなれている。ぐっと腰を落として猪と対峙する様や、夜叉丸たちの驚愕ぶりなど。
大猪との手に汗握る戦いを、初は克明に活写して見せた。
「八尺ってわかるか、虎丸!? なんと大八の倍はあるんだぞ!」
「え、大八のっ!?」
驚いた虎丸が、大八と初の顔を見比べる。初の手振りで立ち上がった大八を見て、さらに虎丸は仰け反った。
「脚は、大人の胴体ほどもあってな。口から伸びる牙は、まるで巨大な槍の穂先よ。目のまわりからは、ごうごうと炎が吹き荒れ、腐った卵のような吐息が、辺りに撒き散らされる──まさに、この世のものとは思えぬ異様な姿であった!」
ちょっと盛り気味に話すのは、ご愛敬である。まわりも、同じ話ばかり聞かされては退屈だろう。
華の足に縋り付いた虎丸を見て、さらに初は盛り上がる。
先ほどから菊が、すごい真顔な視線を向けてくるが、初はまるっと無視した。
「突進してきた猪を華麗にかわし、木の枝に飛び移った私は、右手に携えた槍を構え直し、奴の頭の上から、ズドンと!」
ズドンッ! ──と部屋の外から鈍い音が響き渡る。
槍を振り下ろしたところで、初は動きを止めた。初の話に聞き入っていた沙希は、びくりと肩を竦め、虎丸はぱっと華の胸に飛び込んだ。
「こぉら、貴様らァッ!? そんな場所で、何をしておるかァーッ!?」
障子を開け放った大八が叫ぶ。見ると、館の敷地内に広がる庭には、多くの人夫たちが行き交っていた。
障子越しに、かちゃかちゃと金属同士の擦れる音や、人夫たちの掛け声が聞こえてくる。蔵から運び出した武具や兵糧、竹木といった資材を持った奉公人たちが、そこら中を行き交っている。
蔵の近くで、鉄砲の試し撃ちをしていたらしい奉公人たちが、慌ててその場に平伏した。
迂闊な奉公人たちを一喝した大八は、太い白眉を怒らせながら、
「まったく、あやつらと来たら……よいな! もう騒ぐでないぞ!?」
ぴしゃりと障子を閉める。
正直、一番うるさいのは大八なのだが、言っても無駄なので指摘しない。代わりに初は、こっそりとため息を漏らした。
「皆、忙しそうですね……やはり、戦が近いのでしょうか?」
不安げな面持ちの華に、大八は大きくうなずく。
「
大八の言に、華の表情はますます暗くなる。
十日前。執務室へと集められた初たちは、戦への出陣が決まったと、安定に告げられた。
今回の戦には、紀伊の主だった国人、豪族、寺社のすべてが参陣する。その軍勢は軽く万を超え、兵士たちを養う武具、糧食だけでも、大変な量を必要とした。
近江からも味方も軍勢が出るとあって、商人たちの沸き立ちぶりも凄まじい。商機を逃すまいと、槍や刀、玉薬を山と積んだ舟が、紀伊の各地に出没していた。
周辺の豪族たちは、滅多にない大戦に、手柄を立てようと必死だ。領内から兵を集め、それで足りなければ
海賊衆である安宅家もまた、戦の熱に焙られていた。
本格的な戦は、はじめてである信俊は、郎党たちとの訓練に余念がない。ここしばらくの頽廃ぶりが嘘のように、溌溂とした様子を見せている。
「母上。父上は、戦に行ってしまわれるのですか?」
華の袖を握った虎丸は、どこか寂しげだった。優しい父親が、長期に渡って家を空けると知り、不安なのだろう。
「いけませんぞ、虎丸様!
うつむく虎丸を、大八が叱咤する。肉厚な身体を、わっと持ち上げ、顔を真っ赤にしながら吠え立てた。
「男子ならば笑いませ! 戦場に出るは、武士の本懐! それを悲しむなど言語道断! 武士の子ならば、父親の武勲を願い、我も我もとねだるくらいが本当の……!」
「大八、うるさい」
ぴしゃりと叱りつけた初は、震える虎丸の背を撫でた。まだ幼い虎丸は、強面な老人の迫力に、すっかりと怯えてしまっている。
首を竦めた大八をじろりと睨み、初は虎丸の目尻を拭ってやった。つきたての餅のように柔い頬を両手で挟み、にこりと笑いかけると、
「虎丸、いいものを見せてやろう」
「いいもの?」
「他の者たちには内緒だぞ? ばれると、また怒られるからな」
声をひそめた初は、さっとその場に立ち上がった。
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