第94話 手
とりあえず異人たちは、蜘蛛丸が海生寺へ連れていくことに決まった。
言葉が通じない相手に、身振り手振りでどうにか意志を伝える。領民たちを驚かせないよう、蜘蛛丸には山の中を通って行くように頼んだ。
「いいんですかい、姫様? 畑へ盗みに入ってたのは、たぶんあいつらですよ?」
夜叉丸は、渋い顔で黒人たちを見つめる。せっかくの手柄を、みすみす逃してしまうのが惜しいのだろう。
初は、ぞろぞろと蜘蛛丸について行く異人たちを見ながら、
「ま、食うに困ってやったことのようだし。幸い、被害はそれほどでもないんだ。許してやれよ」
「でも、これじゃ安宅家の体面が……」
「困ってる人を助けるのだって、領主の務めさ」
だろ? と視線を向ける初に、夜叉丸は押し黙った。
それに、手柄を逃したわけじゃない。すでに十分な褒美が、目の前に転がっている。
初たちが巨大猪を連れて戻ると、安宅湊は大騒ぎになった。
「なんと恐ろしい猪じゃ。見てみいあの口を。人の頭なぞ、丸呑みにしてしまうぞ」
「大きいのう。並の猪の倍……いや、三倍はあるぞ」
「これを初姫様が仕留められたのか?」
巨大猪を載せた舟の隣。もう一艘の舟の舳先に立った初を、領民たちは驚きの目で見つめた。
異人たちを送り出した後。初は巨大猪の亡骸を運ぶよう、夜叉丸たちに指示した。
夜叉丸にはああ言ったが、それで納得する人間ばかりでもない。畑を荒らした犯人には、ちゃんと罰が下されたという建前は必要だ。その建前として、この猪は打ってつけの存在である。
猪を山から降ろすのは、大変な作業だった。
猪の巨体に縄を掛け、猪がなぎ倒した木々をコロに使って、少しずつ山を下っていく。コロが使えない岩場では、全員で猪を押しまくった。
運搬作業では、体格に優れた
湊に降り立った初は、周囲を囲う領民たちを見回し、声を張り上げた。
「皆、よく見るがよい! これが先日より、領内を荒らしまわっていた物の怪の正体である! 我らは熊野の山へ分け入り、見事この化け猪を討ち取って見せた!」
初の口上に、どよめきが上がる。
畑荒らしの目撃者は、それなりの数に上る。黒人を目にした者たちには、猪が犯人と説明しても、納得してもらえない可能性が高い。そこで初は、別の話題で黒人たちの噂を、上書きできないかと考えた。
これだけ大勢の前で、これほど巨大な猪を披露してしまえば、噂は勝手に広まっていく。黒い人影の話など、すぐに猪の話題に取って代わられるはずだ。
人々が猪に注目した頃を見計らい、初はさらに続けた。
「この猪を仕留めた者たちこそ、ここにいる我が郎党! 皆、この者たちを称えてやってくれ!」
初に紹介された夜叉丸たちは、驚いた顔で、目を瞬かせる。領民たちが歓声を上げると、子供たちは身体を仰け反らせた。
「ようやったぞ、お前ら!」
「ただの悪ガキ共だと思っとったが、さすがは初姫様の郎党よ」
「あとでうちまで来い! 酒を振舞ってやるぞ!」
領民たちの歓呼に、夜叉丸は頬を紅潮させた。これまで誰かに褒められるということがなかったから、その感慨はひとしおだろう。
他の郎党たちも、喝采を送る周囲にどうすればいいかわらず、まごついている。初が舟から降りるように指示すると、顔を見合わせながら、おずおずと足を踏み出した。
群衆に飲み込まれ、やんやと褒め称えられる夜叉丸たち。
誰が手配したのか、湊に荷車が運ばれてくると、人々は猪の巨体に群がった。
数十人がかりで、猪を荷車に移し替える。一台では足りず、もう一台の荷車を縦に連結して、ようやく猪の巨体が収まった。
それからは、まさにお祭り騒ぎだった。
猪を積んだ荷車を山車代わりに、人々が領内を練り歩く。
安宅湊から日置浦へ向かい、唐人町の異人たちを驚かせる。普段は舟で過ごす蛋民たちが、猪を一目見ようと押しかけた。
猪の上に乗った初は、人々が声を上げるたび、大きく手を振って応えた。
荷車の隣を歩く夜叉丸は、会う人会う人に祝福され、叩かれて、揉みくちゃだ。伊助は娘たちに囲まれてたじたじとなり、荷車を引く岩太にも歓声が飛ぶ。
と、群衆の一人が、餅を荷車に投げ付けた。それを目にした岩太の首が、素早く動く。
嬉しそうに餅を咀嚼する岩太に、人々は面白がって、次々と食べ物を投げ始めた。
初たちを乗せた荷車は、日置浦を巡り、道を折り返して武家屋敷が集まる通りへ。
表に出てきた家臣たちが、猪の巨体に驚き、その上に立った初を見て、さらに驚く。
領民から手渡された旗を、初は猪の上で広げた。
安宅家の家紋である
初は、ゆっくりと荷車の上から降りた。無言のまま背後に寄り添ってきた菊に、びくびくと身体が震える。
猪を載せた荷車は、やがて安宅館の正門前へとたどり着いた。
「これは……いったい、何の騒ぎじゃ?」
警戒した様子で表に出てきた
「初、この大猪は何じゃ? いったい、誰がこんな化け物を……」
「おお、
家臣の一人が、直定の前に進み出る。
頬から首筋にかけて、大きな傷跡を走らせた男は、初を示して、
「初姫様と、その郎党たちが討ち取ったそうで。いやはや、これほどの獲物を仕留められるとは。まさに、
領民たちの歓呼を受ける初を見て、男はからからと笑った。
「
「はっ! やはり、熊野権現のご加護ですかな?
権助は、
困惑する直定を押しのけるようにして、安定は荷車に歩み寄る。
菊から放たれる無言の圧力にうつむいていた初は、安定に気付くと、意外そうな顔をして、
「父上。これはその……私もここまで騒ぎが大きくなるとは」
「初」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。たたらを踏んだ初は、ゆっくりと顔を上げる。
口元を引き結んだ安定は、振り抜いた右手を、胸元に引き寄せた。その隣では、直定が悲痛そうな面持ちで初を見つめている。
じわりと熱を持った左頬に、初は指先を添えた。触れた場所から、肌が引き攣るような痛みが走り、それでようやく自分が叩かれたのだと、初は理解した。
「この痴れ者が……なぜ、このような真似をしたのだ?」
心底から絞り出すような声で、安定は言った。そこに普段のような平静さは、微塵も感じられなかった。
「お前は、婚姻を控えた身なのだぞ? それも
安定は、何かを堪えるような眼差しで、初を見つめる。その苦しげな顔に、何かを言わねばと、初は必死に頭を回転させた。
「ち、父上……私は、ただ領民を……」
「言い訳はよい。初、お主はもう何もしてはならぬ」
安定の言葉に、初は胸を突かれた。何か言い返そうとするが、うまく言葉が出てこない。
ぱくぱくと口を開閉させるだけの初を無視して、安定は領民の前に進み出た。
「よいか! これより、我が家の姫に対する請願は、一切認めぬ。たとえどんな事情があろうとも、違反した者には相応の罰を下す故。皆、心せよ!」
安定の宣言に、群衆はどよめいた。そんな勝手が許されるかと、幾人かの者たちが訴え出るが、安定はすべてを無視した。
「初。本日より、館の外に出ることは許さぬ。嫁入りの日まで、大人しく花嫁修行に……」
初は、最後まで聞いていなかった。
こぶしを握り締めた初は、周囲の制止を振り切り、群衆の中へと駆け出した。
その後、どこをどう走ったのかは覚えていない。
初は藪の中に倒れ込むと、何度も荒い息を吐いた。
肺が焼けるように痛い。どこかに手足をぶつけたのか、擦り傷やひっかき傷が、そこら中にできている。
初は、こぶしを藪に叩きつけた。枝が着物の袖に絡まったので振り払う。ぶちぶちと着物が裂けていくのも構わず、初はこぶしを振り回した。
「ふざけるなっ……ふざけるなふざけるなふざけるなっ! どいつもこいつも、全部俺が悪いみたいに言いやがって!」
腕に絡みついた
「俺は、そんなに悪いことをしたか? 間違ったことをしたか?
俺が作ったものに、みんな感謝してだろ。もっと欲しいって言ってだろ! 俺は、その通りにしただけだ。みんなが欲しがるものを作っただけだ。なのに……なんで戦になるんだよ!? 人が不幸になるんだよ!? あんなもん、現代じゃみんな使ってるものじゃねぇか! それが、なんでっ……」
落ちていた木の枝を、ぶん投げる。樹の上にいた
「いきなり刀を抜き始めたり、かと思ったら簡単に仲直りしたり……足りないものを巡って争って、殺し合って……極楽へ行くために、人混みへ身を投げるだと? 意味わかんねえんだよ、お前らはっ!? もっと、まともに物を考えろっ!」
幹を蹴りつけた反動で、初はひっくり返った。
後頭部を打った痛みが、じわじわと広がっていく。手当たり次第に草木を引っ張った指先は、擦り切れた血と痛みで感覚がない。どれだけ鍛えても貧弱なままの身体は、わずかに酷使しただけで動かなくなる。
「なんでだよ……なんで俺が、こんな目に遭うんだよ……俺が、いったいどんな想いで、ここにいると思ってんだ……」
鉛のような手足を、初は地面に投げ出した。
惨めだった。何もかも、初のまわりにある全てのものが、ままならなかった。
「俺は、初なんかじゃねえ……俺は、
熱を持った瞼を、初は両腕で覆った。決して流すまいと思うのに、滴は後から後から溢れてきた。
薄汚い藪の中で、初は声を押し込めた。
「帰りてえよ……帰してくれよ……俺をもとの居場所に帰してくれ……」
食いしばった歯の間から息が漏れる。
いっそ死んだほうがマシだったと、初は闇の中で思った。
日が沈み、すっかりと闇の中に没した館の一室で、小夜は小首を傾げた。
「よいのですか? あの子、随分と憤慨しているようでしてよ?」
どこか面白がるような口調に、安定は憮然とした。
手にした盃を飲み干し、ぐいと無言のまま小夜に突き出す。
普段あまり飲まない男の珍しい様子に、小夜はくすりと笑みを深めた。
「殿。
小姓の声に、安定は「入れ」と短く答える。
障子を開けた直定の後ろに、
三人の息子たちは、素早く部屋に入ると、安定の対面に腰を下ろした。
「父上。このような刻限に、いったい何用でしょうか?」
緊張に頬を固くする直定。普段から表情の読めぬ頼定は、今宵はいっそう無表情に務めている。
また飲み過ぎたのか、信俊は少々ふらついている。
三人の顔を順に見渡した安定は、ゆっくりと盃を傾けた。
舌の上で酒を転がし、息を整えた安定は、ひたと三人を見据えた。
「
「では、やはり」
鋭敏に事態を察した直定に、安定は小さくなうなずいた。
「戦じゃ。敵は、
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