第97話 要求1
館の中は、大混乱となった。
時刻はすでに
安宅館の周辺には、墨を流したような闇が広がり、その中を無数の松明が右に左に動いていた。
「いったい、何が起きて……」
奉公人たちが騒ぐ声に、何事かと部屋の外を覗いた初は、声を失った。
安宅館の周囲は、高い塀と堀によって囲まれている。
普段は、夜番の者たちが焚く
館を守るはずの塀の縁が、無数の炎によって照らされている。暗闇の中に、いくつもの人影が揺らめく様は、初の胸に名状しがたい恐怖を湧き上がらせ、なんとも落ち着かない気分にさせた。
「初姫様!」
「菊。これは、何の騒ぎだ?」
廊下を駆けてきた菊は、いつになく緊張していた。
「ご説明している暇はありません。早く、こちらへ」
切羽詰まった口調。余裕をなくした菊の横顔に、初の不安は膨れ上がる。
大広間には、館に詰めていた家臣たちが集まっていた。
「兄上!」
「おお、初。無事であったか!」
広間の中央に立つ
畠山家の軍勢に加わっていた直定だが、五日ほど前に、安宅荘へ帰還していた。
三好家の本拠地である
数年前から幾度も改修を繰り返し、堅牢な石垣と堀に囲まれた岸和田城を、畠山軍は攻めあぐねていた。
対陣が長期に及ぶと判断した畠山軍は、兵糧の追加を指示。その輸送を命じられた安宅家は、直定を館に戻し、物資の集積を進めているところだった。
小姓たちが、直定の身体に鎧をまとわせていく。
手早く身支度を整え、刀を腰に差した直定の姿に、初の緊張は高まった。
「兄上。いったい、何があったのです?」
初の問いかけに、直定は「わからん」と首を振った。
「今、物見を出しておるところじゃ。とりあえず、周辺に住む者たちは館に集め、各所を見張らせておる。お前も、万一に備えて得物を持っておけ」
菊に差し出された
「姉上!」
侍女たちに付き添われて、虎丸と華がやって来る。華の手には、赤子の
初に駆け寄ろうとした虎丸を、華は引き留めた。
その表情は、いつになく厳しい。
安定が不在の今、館の主は嫡男である直定だ。その嫡子である虎丸が騒いでいては、家臣たちに示しがつかないと思ったのだろう。
しゅんとうなだれる虎丸を慰めていると、物見に出ていた者たちが戻ってきた。
「
鎧姿の信俊は、ちらりと初の姿に目を止めた。すぐに表情を正すと、直定の前に片膝をつく。
「ご報告申し上げます! 外の騒ぎは、おそらく領民たちの仕業と思われます。その数、ざっと百人ほどかと」
「何? 領民たちが?」
直定は、眉間に皺を寄せる。
民が、何かしらの要求を持って、館を訪れることは珍しくない。
だが、こんな刻限に、それもこれほどの大人数でとなると異例だ。
「直訴か?」
直定の問いに、信俊は首を振った。
「わかりませぬ。奴ら、館の周囲にたむろするばかり。何が目的なのか、皆目見当が」
某が追い散らして参りましょうか? 信俊は、直定に伺いを立てる。
集まってきた領民たちは、特に武装している様子もない。
こちらが騎馬武者を繰り出し、鉄砲の二、三発も射ち込んでやれば、簡単に追い払える。
「その程度であれば、我ら郎党だけでも」
「待て。何の理由もなく、これほどの人数が集まるはずもない。今しばらく様子を見るべきであろう」
「しかし、今この館におる手勢は二十人ばかり。それ以外は、
「あらあら、随分と騒がしいこと」
広間に入ってきた小夜は、ことさらに落ち着いていた。
誰もが、とるものも取り敢えず駆け付けた中、一人だけしっかりと正装を身に付けている。
議論を交わす直定たちを見て、小夜はくすりと微笑んだ。
年齢を感じさせない美貌には、薄く化粧まで施されていた。
「夏の祭りには、まだ早いのではなくて? あんなに、たくさん松明を焚いて。みんな待ちきれなくて、集まってきてしまったのかしら?」
小夜は浮き足立った家臣たちをからかいながら、悠然と広間に入ってくる。
なよやかな態度には一部の動揺もなく、それまでの騒ぎが嘘のように、広間の喧騒が収まっていく。
小夜は、畏まる信俊の背に手を当て、呆然とする初に微笑みかけた。
自分の頬を人差し指で突っつき、初は慌てて口元のよだれ跡を拭った。
「直定、いったい何が起こっているのです?」
「は。どうやら、領民たちが館に押しかけているようです」
「あら、年貢の交渉ならもう少し先ではなくって? まだ刈り入れも行っていなのに」
「それが、何を目的にしておるのかが不明でして……」
首を傾げる直定のもとに、家臣の一人が駆け込んできた。
「
家臣の報告に、初は直定を見上げた。
広間中の視線が集中する中、直定は口元を引き結ぶと、大きく一つうなずいた。
「使者を館の中に入れよ。ただし、使者以外の入場はまかりならぬ」
やってきたのは、一人の僧侶だった。
切れ長の瞳に、しゅっと通った鼻筋。年の頃は三十ほどの甘やかな美形は、良く通る声で名乗りを上げた。
「
広間の中央に腰を下ろした青峰は、にこやかに微笑んだ。
周囲を鎧姿の男たちに囲まれているというのに、まったく動じる気配がない。
上座に座った直定は、内心のうかがえぬ眼差しで、青峰を見つめると、
「ああ、覚えておる。
「いえいえ、某の語りなど大したことは」
謙遜してみせる青峰。手を振る動作一つも洗練されていて、なるほどこれは人気が出るわけだと、初は妙に納得する。
先ほどから小夜が、隣でうずうずしている。新しい玩具を見つけたとでも思ったのか、青峰の顔を眺めまわして、きらきらと瞳を輝かせていた。
「初。あの子なら、
いや、私に聞かれましても……
初が辟易していると、直定は手にした扇子を、ぴしりと手のひらに打ち付けた。
「して、これはどのような次第か? こんな刻限に、あれほどの大人数で押し掛けるとは。よほど重要な話なのであろうな?」
下手なことを言えば許さぬ──直定の気迫を、青峰は涼やかに受け流した。
「なに、難しい話ではありませぬ。
家臣たちが絶句する中、青峰は一人にこやかな笑みを浮かべた。
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