第90話 軋み2
どこか濁った眼差しで睨めつけてくる信俊に、初は鼻白んだ。
「あいにくと、まだ縁談が決まっただけでして。婚礼を上げるのは、年が明けて以降になるそうです」
「もたもたしておると、貰い手がなくなるぞ。なにせ、安宅の
そういえば、そんなあだ名もあったなぁ、と初は思い返す。
舟比べをして海に落ちたのは、もう何年も前の話だ。襲ってきたサメを、ロレンチーニ器官への刺激で撃退し、いつしか領民たちの間で呼び習わされるようになった異名である。
鮫姫様、鮫姫様と、初に撫でてもらいたがる人々は、年を追うごとに増えていった。初に腹を撫でてもらうと、元気な子が生まれると言って──
「姫様?」
「いや……」
首を振った初に、菊が声を掛ける。何でもないと手振りで示しつつ、初は息をついた。
考えても詮無いことだ。初には、どうしようもなかったのだから。
初が物思いに沈む間も、外では騒がしいやり取りが続けられる。
信俊の郎党が鉄砲を運んでくるのを見つけ、初は眉間に皺を寄せた。
「……兄上。戦は取りやめになったはずですが」
「貴様に言われずともわかっておる」
苛立たしげに、信俊は応えた。
一向門徒の焼き討ちに参加して以降、信俊はしばらく真面目になった。酒も女遊びもやめ、武具の手入れや稽古も積極的に行うようになった。しかし、戦がなくなったと聞いた途端、また元の飲んだくれに戻ってしまった。
今も、郎党たちに指示を出しながら、しきりとえづいている。時折、顔をしかめるのは、二日酔いのせいか。
苦しげに口元を引き結んだ信俊は「今からやるのは、山狩りじゃ」と、初に告げた。
「山狩り? 山賊でも出たんですか?」
「いや、出たのは化け物らしいぞ」
にやりと、信俊は口角を吊り上げる。酒で淀んだ瞳が、面白がるように初たちに絡みついた。
「近頃、周辺の田畑に盗人が出るそうじゃ。そやつの姿は、全身が墨のように真っ黒で、身の丈は五尺を超えるほど。日暮れ時に現れては、
信俊の語り口に、沙希の顔が青ざめる。
身を寄せてくる沙希の背を擦ってやりながら、初は思案した。
「そういえば、凜がそんなようなことを言ってたな。蜘蛛丸が、山で奇妙なものを目撃したとか」
「異人の仕業でしょうか? 唐人町には、奇異な格好を好む者たちも多いと聞きます。流れ者が食うに困って、悪事を働いているのやも」
この時代の人間は迷信深い。真っ黒な出で立ちに、五尺の長身という格好は、領民たちを惑わすための仕掛けかもしれない。あるいは、熊や猪という可能性も──
冷静に犯人について語り合う初と菊に、信俊はつまらなさそうな顔をする。
郎党から鉄砲を引っ手繰ると、
「異人か物の怪か知らぬが、領民を惑わす不逞の輩だ。このわし自ら、始末してくれる」
何度か引き金を引いた信俊は、初を振り返ると、口元に卑しげな笑みを浮かべた。
「わしらは物の怪退治で忙しいというのに、
普段はガキのたわ言と受け流す初も、さすがにこれはイラっとした。
異議を述べようとした初を制したのは、沙希だった。
「兄上、それは少々口が過ぎる……」
「
さっきまで初の傍らで震えていたはずの沙希が、強い口調で告げる。
「なんだと?」と信俊に凄まれても、怯まない。沙希は毅然とした眼差しで、信俊を見上げた。
「先ほどのご発言、お取消しください。安宅本家に連なる初姫様に対して、あまりに無礼でございます」
「なにっ?」
「姫様は、見ず知らずの者たちの下へと嫁ぎ、そこで暮らさねばならないのですよ? それも、ご自身を害そうとなさった相手と、添い遂げねばならぬです。それが、いったいどれほどの屈辱かっ……それでも姫様はお家のため、必死で平静を装っておられるのです! そんな姫様に向かって、なんという口をっ」
別に何も考えていなかったのだが、沙希にはそんなふうに見えていたらしい。
感極まって涙ぐむ沙希に、初はバツの悪さを覚える。菊に視線で助けを求めるが、自業自得でしょうと、冷たい眼差しを返されるだけだった。
「そもそも、
目尻を拭った沙希は、逆に信俊を睨みつける。挑みかかるような沙希の瞳に、信俊の額が小刻みに震えた。
「何が言いたい?」
気色ばむ信俊に、「ご自身が一番おわかりでしょう」と、沙希は言い放った。
「
黙り込んだ信俊が、うつむく。
握りしめたこぶしを震わせる姿に、相手の痛いところを突いたと思ったか、沙希はさらに畳みかけた。
「巷では、朝から酒ばかり飲んでいる勘右衛門様に、呆れている者も多いとか。近頃は、鍛錬も休みがち。唯一の取り柄である武芸も錆びついていると、もっぱらの噂でございますれば」
沙希は、口元を引き結んだ信俊を見て、小さく嗤った。
「
沙希の言葉が終わるのを待たず、信俊は部屋に踏み入った。
振り上げた足を、沙希の幼い身体に叩きつける。小柄な沙希は、胸を一撃されただけで吹き飛び、襖の向こう側へと転がっていった。
「死にたいのだろう? ならば、わしがこの手で切り捨てて」
「信俊っ!」
初の声に反応した信俊は、顔面を目掛けて飛んできた花瓶を、とっさに手で払った。
帳面、
「ははっ! そんなもので、この俺が倒せるとっ」
菊は、
「姫様っ!」
「おうっ!」
長刀を受け取り、初は石突で信俊の胸を突いた。投げ付けられる物に気を取られていた信俊は、これをモロに食らう。
「ごぶっ!」と、息を漏らしながら、信俊は廊下から庭へと転げ落ちていった。
「沙希、大丈夫か!?」
信俊に刃を向けたまま、初は声を掛ける。いち早く沙希に駆け寄った菊は、咳き込む沙希の胸をさすっていた。
「骨は折れていないようです。沙希様、ゆっくりと息を吸ってください」
菊の診断に安堵しつつ、初は玉砂利の上にうずくまった信俊を、厳しい目で見下ろした。
「いいかげんにしろよ、お前。何が気に入らないのか知らんが、女に手を上げるなんて、クズのやることだぞ!?」
郎党たちが差し伸べた手を、信俊は振り払う。
咳き込みながら立ち上がった信俊は、初に憎悪のこもった眼差しを向けた。
「貴様に、何がわかるっ。わしが日々、どんな想いで暮らしているか、貴様にわかるのかっ!?」
「酒を飲んで、やさぐれてるだけの人間が考えることなんざ、わかるわけねぇだろっ!」
酔眼を血走らせた信俊は、腰の刀に手を伸ばした。周囲の郎党たちの制止も振り切り、外廊下に足を掛ける。
今にも斬りかかってこようとする信俊に、初は長刀の切っ先を向けた。
「二人とも、そこまでにいたせ」
緊張が張りつめた廊下に、重々しい声が響き渡る。
頼定は、刃を向け合う初と信俊に近づくと、有無を言わせぬ声音で言い放った。
「双方とも、得物を下ろせ。館内での殺生は、わしが許さぬ」
頼定から放たれる圧力に、初は後退った。力の抜けた手から、頼定が長刀を奪い取っていく。
「信俊、そなたもだ」
不満げに頼定を見返していた信俊は、薄く開かれた糸目に、慌てて刀を鞘に戻す。
「何があった? 兄妹で互いに刃を向け合うとは、尋常ではあるまい」
頼定の詰問に答えたのは、菊だった。
「
いまだ苦しそうな沙希を抱えて、菊は訴える。
沙希の様子に眉を立てた頼定は、信俊を振り返り、
「まことか、信俊? お主、年端もいかぬ女子を足蹴にしたのか?」
「違います、兄上! その者が、
「とはいえ、やり過ぎであろう。沙希にもしものことがあったら、どうするつもりじゃ」
怒りを示す頼定に、信俊はうつむく。その不満げな態度に、頼定は嘆息した。
「わきまえよ、信俊。もはや分別がつかぬ年でもあるまいに」
「……っ」
きっ、と頼定を睨みつけた信俊は、苛立たしげに踵を返した。
足音高く去っていく信俊の後を、郎党たちが追っていく。
信俊の背を見送った頼定は、振り返ると、その大きな手のひらで初の頭を撫でた。
「許せよ、初。あやつのことを悪く思わないでやってくれ」
「ですが、兄上。信俊兄上の振る舞いは、いくらなんでも目に余りまする!」
「わかっておる。信俊には、あとでわしがきつく言い聞かせるゆえ。だから初、あやつのことを嫌わないでやっておくれ」
あやつのこともわかってやってくれと、頼定は悲しげな顔で、初に言い聞かせた。
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