第89話 軋み1
己の婚礼にまつわる話を、初はどこか他人事のように聞いていた。
「
「しかし、初に堀内家へ嫁げというのは、あまりにも……しかも相手は、あの小童だというではないですか」
自分を襲った相手と
不満の色を隠さない息子たちに対し、安定は穏やかな態度を崩さぬまま、
「堀内家の
「ようは、堺での失態で有馬家にいられなくなっただけでしょうっ」
直定は、侮蔑するように吐き捨てた。
「堀内家との婚姻にしても、奴らの狙いは我が家の財に違いありませぬ。斜陽の堀内家を支えるため、我らに尽力せよと、尾州様は
身を乗り出す直定を、安定は視線で制した。
「お主の言いたいことはわかる。だが、堀内家が揺れれば、熊野の半分が乱れよう。東の領主たちが動揺すれば、いらぬ気を起こす者とて出て来るやもしれぬ。大和の動静が収まらぬ今、伊勢の
「しかし、それでは初があまりにも……」
直定は、悲痛な声を上げる。頼定も無言のまま、気遣わしげな眼差しを初に注いだ。
「あなたたち、なぜ小難しい顔をしているの?」
沈鬱な場の空気を破ったのは、小夜の声だった。
「我が家の姫の婚礼なのですよ? それを、そんな風にうつむいて、悲しそうな顔をして。せっかくの門出が、台無しではありませんか」
「母上。これは決して祝い事などでは──」
「初の婚姻が、慶事ではないと言うの?」
小夜の流し目に、直定は口を噤む。
部屋の隅で、一人ぼうっとしていた初を、小夜は手招きした。いまだ事態を飲み込めぬ初の頬に手を当て、ゆっくりと撫でさすった。
「これから忙しくなるわ。嫁入り道具に、婚礼の衣装も用意しないと。夫を支える良き妻となるためには、学ばねばならないことも、たくさんありますからね」
小夜の手のひらが、初の頬の上を滑っていく。
深く澄んだ漆黒の瞳が、初を慈しむように微笑んだ。
「大丈夫よ、初。これから少しずつ、覚えていけばいいのだから。あなたはきっと幸せになれるわ」
いつもは苦手な小夜の瞳。だが、このときは不思議と心が穏やかになった。
それから、初の生活が大きく変わったかというと、そんなことはなかった。
いつもどおりの時間に目覚め、朝は菊たちと鍛錬をし、虎丸の相手をする。
しかし、たしかに変わったものもあった。
表面上はいつも通りに振舞っている侍女たちは、館のあちこちで噂話に花を咲かせた
「お方様が、出入りの商人たちを集められたそうよ。姫様の嫁入り道具を揃えるために、銭に糸目はつけないとか」
「堺の商人たちが、こぞって自慢の品を持ち込んでいるとか。ちらっと目にしたのだけれど、唐絵の描かれた金屏風は、それは見事なもので」
「姫様のご婚礼衣装を、どこが作るかで揉めているそうよ。お殿様は、都の職人に頼むつもりだったらしいのだけど、それを聞いた安宅の職人たちが怒り出しちゃって。自分たちの作る品を見てから決めてくれって、注文も受けてないのに張り切りだして──」
館の廊下を歩くたび、そこ、ここからひそひそ声が聞こえてくる。
館の外を出歩けば、婚姻の噂を聞き付けた領民たちが群がってきた。
「堀内家なんぞに嫁いで、姫様は大丈夫かいのう?」
「初姫様の母君は、
「もしも姫様に非礼を働くようなことがあれば、わしらが必ずお救いに参りますゆえ。なんでしたら、今からでも一発ガツンと!」
物騒な誘いをお断りするのが、初の日課となった。
「やっぱり、納得できません!」
「なんで姫様が、堀内家のような山出しに嫁がねばならないのですか!? しかも相手は、姫様を襲った男なのですよ? いくら
ぷりぷりと頬を膨らませる沙希を見て、菊は嘆息する。初の婚姻が決まって以来、毎日のように反対運動を繰り返しているので、いい加減見飽きたのだろう。
頬にお饅頭をくっつけた沙希は、窓際で手紙を読んでいた初に、にじり寄った。
「姫様も、なんとか仰ってください! このままでは、本当に堀内家へ嫁がされてしまうのですよ!?」
「そう言われてもなぁ。私の意志で、どうこうできる問題でもないし」
鼻息も荒く顔を寄せてくる沙希に、初は気の抜けた声を返した。
自分でも不思議なのだが、初は此度の縁談に対して、特に何も感じていなかった。
婚姻と言われても、どこかピンと来ない。まるで遠い外国の話を聞かされているような感覚で、周囲の人々が騒いでも、他人事のようにしか感じられなかった。
(あんなに嫌だったのに、今は別に何とも思ってないんだよなぁ)
単純に、自覚ができていないだけなのか。それにしても反発心すら湧いてこないのは、奇妙である。
縁談を潰すために、あれやこれやと巡らせていた策略も、今はどうでもいい。まるで心のどこかに、ぽっかりと穴が開いたように、初は気の抜けた日々を過ごしていた。
「父上の役立たずっ! 姫様の縁談には反対するようにと、あれだけ言い含めておいたのに、この体たらくなんてっ」
「亀次郎兄上も、頼りにならないし。うちの男共ときたら、どいつもこいつもっ」
イライラと爪を噛んでいた沙希は、反応を示さない初を見て、ますますむくれる。と、沙希の視線が、初の手元へ吸い寄せられた。
「……姫様、そのお手紙は?」
「うん? ああ、これはな。顔を見せに来いって、お誘いの……」
「恋文ですか!?」
手紙と見れば、恋文と疑う。耳年増な年頃にありがちな乙女脳を全開にする沙希に、初は苦笑しながら、
「違う違う。鍜治場の師匠からだよ。私が来ないと仕事が進まないって、愚痴を送って来たんだよ」
青涯に出入りを禁じられて以来、初は海生寺の周囲へ近づいていなかった。
何度か足を運ぼうとしたのだが、なぜか途中で足が止まってしまう。やる気が起きない、とでも言えばいいのか。子墨たちと試作を続けていた発電機や旋盤など、まだまだ手を加えなければならない品が、いくつもあるというのに。
産業革命を起こすと息巻いていた情熱は、今や欠片も残ってはいなかった。
「……姫様。もしかして、ああいう小汚い男たちが好みで……」
何やら深刻な顔をし始めた沙希に呆れていると、廊下からドスドスと床板を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
「玉薬を忘れるでないぞ! 火縄は、木綿をほぐしたものを使え。鉛玉は、六匁じゃ!」
矢継ぎ早に指示を飛ばしていた
こちらを侮蔑した態度に、初はむっとする。
直定、頼定とは比較的よい関係を築いている初だが、信俊とだけは、どうしても馬が合わなかった。何かにつけては突っ掛かり、難癖をつけられては、親近感など抱きようがない。
信俊のほうも同じようで、初の婚姻が決まったときも、何の関心も示さなかった。直定と頼定の二人が怒り心頭に発する中、
「なんじゃ、まだ館におったのか。てっきり、もう嫁に行ったものと思っておったぞ」
どこか濁った眼差しで睨めつけてくる信俊に、初は鼻白んだ。
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