第91話 猪1
初は苛立っていた。どうにも気持ちが収まらず、むしゃくしゃする自分を抑えられたない。
腹の底に溜まった鬱憤を晴らすため、初は夜叉丸たちを率いて山に入った。
「お気を付けください、姫様。ここいらは、足場が悪い。岩も多いから、うっかり足を滑らせると、大怪我するやもしれませんぞ」
案内役にと頼んだ蜘蛛丸が注意を促す。
その声にうなずきつつも、初はやや乱雑な足取りで歩を進めた。
(なにやってんだろうな、俺……)
山の斜面を歩きながら、初は胸中で独りごちた。
夜叉丸たちには、領民を守るためだと言ってある。
田畑に出没する物の怪の噂は、日毎に広まりを見せている。得体のしれない存在がうろうろしているようでは、おちおち農作業もしていられない。
領民の嘆願に耳を傾けるのも、立派な領主の務めだ。
相手が、物の怪と聞いて怖がる夜叉丸たちに、
「討ち取れば、お前らの名も上がる。所詮は
見事討ち果たせば褒美も出す──初に唆され、夜叉丸たちは山狩りに参加した。
五月も半ばを過ぎ、山には夏の気配が漂い始めている。
木々が陽光を遮ってくれるとはいえ、やはり暑い。歩くごとに汗が噴き出すような中でも、夜叉丸たちは手柄を立てようと勇んでいた。
「お前ら、もっとしっかり探せ! 相手は獣じゃ。適当に脅してやれば、簡単に尻尾を見せてっ」
「あまり騒ぐと、獣は逃げる。そううるさく吠え立てていては、いつまで経っても見つからんぞ」
「こら、てめえら騒ぐんじゃねえぞ! もっと静かに歩きやがれ!?」
騒々しい夜叉丸たちに、蜘蛛丸はやれやれと肩を竦める。
ビクつきながらも、懸命に物の怪を探す夜叉丸たちに、初は小さな罪悪感を覚えていた。
領民のためというのは、嘘ではない。安宅荘は狭い土地だ。ほとんど顔見知りばかりの領民が困っているなら、助けてやりたいとも思っている。
だが、本当にそれだけだろうか?
初は、山肌に突き出た岩に足を取られ、いらいらと舌打ちした。
蜘蛛丸が言う通り、ゴツゴツとした斜面は、ひどく歩きづらい。岩の表面には苔がまとわりつき、つるつると足を奪う。木々は、薄い土を奪い合うように根を伸ばし、ねじくれた幹の連なりが、独特の景観を生み出している。
大きく曲がった松の幹に手をかけ、乗り越える。
額の汗を拭う初を見て、先を行っていた蜘蛛丸は足を止めた。
「そろそろ一息入れましょうか」
「いや、私なら大丈夫──」
「こういうのは、急いだって見つかるものじゃございません。下手に動きまわると、いざという時に力が出ませんからな」
それに姫様が怪我をすると菊殿に怒られる、と蜘蛛丸は笑って見せた。その笑みに毒気を抜かれた初は、素直に休息をとることにした。
夜叉丸に命じて、一党も休ませる。
曲がった松の幹に腰を下ろすと、途端に重苦しい疲労が、初の全身に襲い掛かってきた。
思った以上に体力を消耗していたらしい。
強張った足を揉み解す初のもとに、蜘蛛丸は竹筒を持ってやってきた。
「クマザサを煎じた茶です。飲むと少しは落ち着きますぞ」
「ああ、ありがとう蜘蛛丸さん」
竹で出来た湯飲みを受け取り、口を付ける。クマザサで淹れた茶のすっきりとした味わいが、口中の苦みを洗い流していった。
これもどうぞ、と蜘蛛丸が差し出した握り飯を頬張る。少々きつめに利かされた塩が、疲れた身体に心地よかった。
「美味いですね、これ」
「凜が握ってくれましてな。まだまだ
洗いざらして、継ぎ当てだらけの着物を、蜘蛛丸は宝物のように撫でる。その姿に、初は頬をほころばせ、すぐに表情を翳らせた。
妹が縫い直してくれたジーンズも、弟が作ってくれたペン立ても。どちらももったいなくて、使わずじまいだった。痛まないよう押入れの奥にしまい、ときどき取り出しては、眺めていた。
不器用な縫い跡も、接着剤がはみ出た粗雑な造りも、愛おしくてたまらなかった。
あのジーンズとペン立ては、今でも押入れの中で眠っているんだろうか──
「──何やら、一悶着あったと聞きましたが」
物思いから覚めた初は、蜘蛛丸の顔を見上げた。
どこか迷うような素振りを見せた蜘蛛丸は「私ごときが口を挟むのは、無礼やもしれませんが」と前置きして、
「噂は聞き及んでおります。
「は?」
なに言っての? 初は眉根を寄せた。
「別に、あいつの言ったことなんて気にしてませんよ?」
「え? いや、しかし……姫様は、
「は?」
「え?」
話が噛み合わない。互いに首を傾げる。
詳しく話を聞いてみると、先日の一件が、館で働く者たちの間で話題になっているらしい。蜘蛛丸は、安宅館に山鳥を収めに行った際、侍女たちからこの話を聞いたという。
「なにやってんだ、あいつらは……」
口の軽い侍女たちに、初は呆れた。
あんな身内の恥を外に漏らすなんて。いったい、なにを考えているのか。
頭痛を堪えた初は、気遣わしげな顔をする蜘蛛丸に、
「あいつの言うことなんて、いちいち気にしてやれませんよ。むしろ、あんなことが話題になってるほうが問題だ」
帰ったら、きつく言っておかないといけない。
縁談が決まって以降、初は館の侍女たちの取りまとめをまかされている。武家の妻は、家内の大部分を差配する権利があるので、小夜から今のうちに練習しておけと言われたのだ。
こういう情報漏洩の対策も、妻の仕事の内だ。意外に多忙な女の役割に、初は驚いたものである。
「では、私の勘違いでしたかな? どうも姫様が沈んでいるように見えましたので、つい軽口を」
恐縮する蜘蛛丸に、初は苦笑する。
クマザサ茶に口を付けかけて、ふと、初の横顔が曇った。
「……蜘蛛丸さんって、ここいらの木地師には詳しいですか?」
「まあ、品物を売るときに顔を合わせるくらいですが」
それが何か? と問う蜘蛛丸に、初は竹の湯飲みを見つめたまま、
「大和の木地師がどうなってるか……なにか知りませんか?」
「さて。大和と申しますと、吉野か
首を振る蜘蛛丸。
初は顔を上げぬまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「この間、タケって奴から言われたんです……俺が作った旋盤のせいで、大和の木地師たちが仕事を失ってるって。父親がいなくなったのは、俺のせいだって……」
生産効率が上がれば、製品の単価が下がるのは当たり前だ。価格競争になれば、原始的な
そんな簡単なことに、初は気付かなかった。考えたことさえなかった。自分の作ったものが、誰かに不幸を招き寄せる。
一家が離散し、多くの者たちが職を失う血塗れの現実を前に、初は立ちすくんでいた。
蜘蛛丸には気にしていないと言ったが、本当は少し関係があるかもしれない。
信俊の言葉ではない。信俊に罵られる初のために怒ってくれた沙希の言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
「俺のやったことは、間違ってたんじゃないですか? 俺のせいで、タケの親はいなくなった。喜多七たちも、隣村の連中と争うはめになった」
竹筒を握る手に力をこめる。震える手にこぼれた茶のしぶきが掛かり、小指の先から、ゆっくりとしずくが垂れていった。
「俺は、まわりの人間のことなんて考えてなかったんですよ。ただ作らないとやってられなかった。あのまま生きてたら、俺は自分を保てなかったんだ。毎日毎日、自分の中身が、じわじわと腐っていくみたいな気がして……」
現代で学生をやっていたはずが、気が付いたら見知らぬ土地に立っていた。しかも、現代とは似ても似つかない戦国の世の中だ。
身体の性別まで変わり、そのうち自分が自分だった記憶が。
もしそうなったとき、自分はどうなってしまうのか──
初は、怖くて怖くてたまらなかった。
「俺は、みんなが思ってるような人間じゃないっ……俺はただ、俺のために物を作っただけだった。俺が俺でいるために、知識を広めた……俺がみんなのためを想ってしたことなんて、一つもなかったんだ……」
皆に想ってもらう資格など、自分にはない。こうやっている今でさえ、心のどこかでは他人事だと思っている──
うつむく初を、蜘蛛丸は無言のまま見つめた。
そのまま、しばし。
初が顔を上げる気配がないと悟り、蜘蛛丸は小さく嘆息した。
「たしかに、姫様がお作りになられた“せんばん”は、素晴らしいものでございました。あれのお陰で私などは、今までの二倍も、三倍も木椀が作れるようになりましたからな」
困ったように後頭を掻きながら、蜘蛛丸は告げる。
「安宅の職人たちは、品物を作るのが速く、他よりも安いと商人たちの評判も良い。せんばんを使うようになってから、私の懐具合も良くなりましてな。凜にも、ひもじい思いをさせずに済んでおります。今では、猟師のほうが余暇のようになっておるくらいでして」
しかしですな、と蜘蛛丸は初をひたと見つめた。
「安宅の木地師共の品が他より安いのは、作るのが簡単になったからだけではありませぬ」
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