第77話 船倉2
はじめから、断られることはわかっている。なので初は、論理的に亀次郎を説き伏せることにした。
「このままほっといたら、あとで問題になるかもしれんぞ」
「も、問題って……」
早速腰が引けた亀次郎に、初は畳みかけた。
「相手は、衰退したとはいえ熊野衆の一角。無下に扱えば、後々、面倒ごとの種になる。下手をすると、戦の原因になるかも」
亀次郎の目に、逡巡の色が浮かぶ。初は、亀次郎の瞳を、じーっと覗き込んだ。
しばらく悩んだ末、亀次郎はきょろきょろと周囲を見回して、
「……菊殿はいませんよね?」
「今は、屋形で横になってるよ。ここんとこ、まともに寝てなかったからな。しばらくは起きて来ないはずだ」
うんうん唸っていた亀次郎は、やがて自分を納得させるように、一つうなずくと、
「差し入れだけですからね。早くしてくださいよ」
「わかってるって」
亀次郎の手で、板戸を固定していた
戸口と板戸の間に開いた、わずかな隙間から、初は荷室の内部へと入り込んだ。
狭苦しい荷室の中にいたのは、一人の少年だった。
「……何の用だ」
刺々しい声を出した
二畳ほどの空間に、文机と
室内は、きれいに拭き清められており、汚らしさは感じられない。出発に当たって、大急ぎで用意されたわりに、居住性は悪くなさそうだった。
さすがに灯りの類はないため、室内は薄暗い。舟板の隙間から、わずかに差し込む光の中に、楠若の白い顔が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
「腹が減っているのではありませんか?
「いらん、失せろ」
けんもほろろとは、このことだろう。ぷい、とそっぽを向いた楠若の腹が鳴ったのは、そのときだった。
室内に、微妙な沈黙が下りる。
うつむく楠若を、なるべく見ないようにしながら、初は干飯の入った袋を戸口の前に置いた。
「腹が空いたときにでも、口になさってください。それでは、私はこれで」
「笑いに来たのか」
踵を返しかけた足を止める。
文机の隣に腰を下ろした楠若は、小さく肩を震わせていた。握ったこぶしが、膝の上で小刻みに揺れている。
「雑人共に荷を奪われ、貴様らへの意趣返しも成しえず。挙句の果てに、河原乞食どもの
「有馬家の荷ならば、返却されたはずです」
半分だけだけど、という言葉を初は飲み込む。
夜叉丸党は、湊で盗んだ荷を、一時的に保管しておく場所を持っていた。
全体の半分ほどは売り払われた後だったが、残った分は光定たちの手によって、有馬家に返却されている。
これで有馬家は、安宅家への襲撃に失敗し、当主を捕らえられた上に、情けまで掛けられたことになる。もはや、武家としての体を為さぬほどの失態だと、楠若は嘆じた。
「このような恥をさらしながら、おめおめと家に帰るのじゃ。今頃熊野では、わしは物笑いの種になっておろうて」
「それは、考えすぎなのでは……?」
ネットも電話もない時代に、それほど速く情報が伝わるはずがない。そんな風に考えていた初を、楠若の視線が射抜いた。
「事の顛末は、街道を歩く
人の口に戸は立てられない。現代に比べれば、はるかに外部の情報に触れ辛い時代である。それだけに、人の口を介して広まる噂には、誰しも過剰なほど敏感になっている。
紀伊から遠い都で起こった出来事が、二日後には、安宅荘で噂として触れ回られることも、決して珍しくはない。後に、その噂が、ほぼ事実だったと確認されて、初はひどく驚いた覚えがある。人の噂というのは、この時代なればこそ、馬鹿にできない要素なのだ。
武士の対面を失ったと、屈辱に声を震わせる楠若に、初はどう声を掛けたものかと考え込んだ。
「そう落ち込まなくとも。挽回の機会は、きっと訪れます。此度の交易だって、まるきり失敗だったわけではありませんし……なんでしたら、必要なものを我が家で用立てることも」
「わしは、熊野別当家に連なる有馬家の棟梁ぞ!? 施しなど受けぬっ!」
吠えた楠若は、驚く初を睨み据えた。
「成り上がり者が、いい気になりおって。あのような生臭坊主に尻を振ってまで、銭が欲しいかっ!?」
「おい。それはいくらなんでも、聞き捨てならんぞ」
楠若の悪態に、初も被っていた猫を脱ぎ捨てる。
初がこの時代に来てから、すでに十年以上の時が流れている。現代とは、まるで違う常識を持つ人々と過ごすうちに、初の沸点も相当に低くなっていたらしい。
一発ぶん殴ってやろうと、部屋の奥に進みかけて、初はたたらを踏んだ。
「姫様っ……もう出てくださいっ」
戸口の隙間から手を伸ばした亀次郎が、着物の帯を掴んでいる。何度か振り払おうとしたが、亀次郎に懇願されて、初は渋々、振り上げたこぶしを解いた。
「なんじゃ、やらんのか?」
背を向けた初に、楠若は嘲笑を向ける。暗い笑みを浮かべる楠若を、初は鼻で笑った。
「俺は、お前と違って大人なんだ。そんな安い挑発に乗るかよ」
よく考えたら、初の中身はとっくに成人済みである。こちらで過ごした時間も加えれば、すでにさんじゅ──
「ど、どうしました姫様!?」
「いや、ちょっとめまいが……」
なんだか凄いことに気付きかけて、初は額を押さえた。
この話は止そう。精神に、変なダメージを負いそうな気がする。
ともかく、大人がガキの悪口に、いちいち反応するのも馬鹿らしい。初は、楠若に向かって舌を出すと、今度こそ踵を返した。
「銭狂いどもが」
戸口をくぐった初に、楠若はなおも悪言を吐いた。
「銭の力で人を転ばせるなど、
戸口の隙間から、憎悪に歪んだ楠若の瞳が覗く。
亀次郎は、慌てて板戸を閉じ合わせた。
「随分と嫌われてんだなぁ、うちって」
亀次郎が板戸を固定し直すのを見ながら、初は腕組みした。
はじめは単なる逆恨みかとも思ったが、どうにも引っかかる。あの黒く
「うちは儲かってますからねぇ。やっかむ連中も多いんですよ」
「ほんとに、それだけか?」
初は、じと目になった。
楠若の態度は、今回の一件だけが原因とは、とても思えない。あれほど安宅家を憎悪するからには、何かしらの理由があるはずだった。
じーっと視線を向け続ける初に、亀次郎は困ったような顔で頬を掻いた。
「……まあ、隠すことでもないですし」
亀次郎は、おそらくこれが原因だろう、と話し始めた。
青涯和尚が流れ着き、海生寺ができてからというもの、安宅荘は隆盛の一途をたどっている。
農地の改良に、新農法の伝授。明の工人たちを招いてからは、種々様々な産業が勃興し、莫大な富を安宅荘にもたらした。
領内が富めば、土地を治める安宅家も、税収という形で恩恵に与ることになる。特に安宅家では、農民からの年貢だけでなく、商人からも
「そうやって貯め込んだ銭を使って、
「なるほど。それであいつは、うちを銭狂いなんて言ったのか」
この時代、土地は基本的にそこを治める領主のもの、という考え方だ。農民たちが領主に年貢を納めるのは、領主からの庇護を受けるためと同時に、「領主様の土地を耕させてもらっている」という前提が存在しているからでもある。
ただ、この考え方は、半ば形骸化していると言ってよい。事実、農民たちは自身の耕す土地を担保に、
領主権力の存立にかかわる土地を買い漁ったとなれば、周辺の領主たちから反発を受けるのは当然だ。相手に対して、喧嘩を売ったも同然の行為だからである。
「熊野三山にも、盛大に銭をばら撒いてるらしく。それがもとで、戦になりかけたことも」
「そ、それで、どうなったんだ? ほんとに戦になったのか?」
初が生まれる前の話らしいが、気が気ではない。
顔色を失う初に、亀次郎は首を振った。
「いえ、それも和尚様のおかげで──」
「姫様っ! 初姫様!?」
薄暗い船倉に、菊の上ずった声が響き渡った。
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