第76話 船倉1
「……なにやってんだ、お前ら?」
船の帆柱に取りついた夜叉丸たちを見て、初は眉をひそめた。
河原での一件より、五日後。
初たち安宅家一行は、堺の湊より旅立った。予定されていた商談を、すべて終えたためである。
紅屋で華々しく行われた壮行会では、初は大忙しだった。出発の前日だというのに、しこたま酒を飲もうとする家臣たちに釘を刺し、喧嘩が起こりそうになれば止めに入り、ついでに料理まで振舞うはめになったのだから、たまったものではない。おかげで出発前から、初はすでに疲労困憊の状態だった。出発直前になって、家臣が馴染みの遊女と愁嘆場を演じ始めたときは、思わず気を失いそうになったほどである。
若い家臣には、初が直々に焼きを入れ、妓楼の楼主に頭を下げて、なんとか許してもらったが、おかげで出発を一日、遅らせることになった。
いろいろと問題もあった堺での交易だが、おおむね成功に終わったと言ってよいだろう。光定の商談は軒並み成功し、初もスポンサーを獲得するという目的を、無事に達成できた。途中、予想外の事態に巻き込まれたりもしたが、それ以上に実りの多い船旅だったといえる。
早朝に堺を発った船は、順調に大阪湾を通り過ぎ、現在は
右手に淡路島と四国。左手には、複雑な様相を見せる海岸線が広がっている。
これほどの絶景を、夜叉丸たち一党は楽しむどころか、見ようとすらしない。中には目を瞑って、何事かぶつぶつと呟いている者までいる始末だった。
──船に乗り込んだ当初。夜叉丸たちは、みっともないくらいにはしゃいでいた。
なんだかんだ言っても、まだ子供。年長組は、小さな川舟に乗ったことがあるくらいで、幼子たちに至っては、生まれて初めての船旅である。はしゃぐなというほうが無理だろう。
水主たちに鬱陶しがられながら、船のあちらこちらを見回っていた夜叉丸たちが、今はどういうわけか、身を寄せ合いながら震えている。
「だ、だって……さっき、水主のやつらがっ!」
顔を青くして、なにやら尋常ではない様子を見せる夜叉丸。
どういうことか尋ねると、夜叉丸は帆柱に縋り付きながら、
「紀州の南には、
「お、俺……まだ死にたくねぇよ……」
「だから、船はやめとこうって言ったんだ。大人しく街道を歩いて行きゃあ、こんなことには」
郎党たちも、すっかり怯えている様子である。
補陀落、というのは観音菩薩が降臨する霊場のことだ。正確には、
仏教の経典などで語られる伝説上の存在で、青涯和尚によれば、インド南端の海岸にあるとされているそうだ。日本では、仏教が盛んになるにつれて、熊野や日光が補陀落になぞられられたという。
常軌を逸しているとしか言いようのない所業だが、記録に残るだけでも、二十回は行われているとか。行の形をとらず、自発的に沖を目指した者を含めれば、もっと多いだろうと青涯は言っていた。
どうやら夜叉丸たちは、自分たちも補陀落へ流されてしまうのではないかと、心配しているらしい。大方、水主の誰かが吹き込んだのだろう。
初が甲板を振り返ると、こちらの様子をうかがっていた水主たちが、そそくさと仕事に戻っていく。白々しい態度に、初は「まったく」と嘆息した。
「安心しろ。この船の乗組員は優秀なんだ。ちょっとやそっとの風くらいじゃ、流されたりしねぇよ」
「で、でも、万が一ってことだって……」
「そんなに心配なら、兄上に聞いて来てやるよ。そしたら、お前らも安心だろ?」
くるりと踵を返した初は、早速、頼定のもとに行って、事の次第を話した。
「──と、いうわけでして。夜叉丸たちが怖気づいているので、兄上からも励ましてやって……」
「いや、別にない話ではないぞ。それは」
事態を軽く考えていた初は、頼定の一言にぎょっとした。
「ない話じゃないって……それは、どういう?」
「そのままの意味よ。海は、機嫌が変わりやすいでな。今は晴れておっても、いつヘソを曲げるかわからん。ここいらは潮の流れも速い。嵐に遭って、そのまま沖に流される船も、そう珍しくはない」
この時代の船は、すべて人か風に動力を頼っている。嵐ともなれば、海は荒れ、とても人の力では抗いきれない。強すぎる風は、たやすく帆を引きちぎり、船を転覆させる。
紀伊と淡路の間に位置する紀淡海峡は、太平洋から満ちてくる潮の通り道。嵐の中で引き潮に巻き込まれれば、その先は、何もない大海原だ。黒潮に乗ってしまえば、どこまで流されるかもわからない──と頼定は事もなげに言った。
「じ、じゃあ、もし流されたらどうするんです? 陸地に戻る術は、あるんですよね?」
「案ずるでない。そういうときのための
船には神が宿るとされる。いわゆる
船が嵐に巻き込まれ、行き先がわからなくなった際には、
「そんな当てずっぽうな……」
「海に出るとは、そういうことよ。あまり細かいことを気にしていては、海賊衆は務まらん」
男くさい顔で笑う頼定に、初は身震いした。
ちょっとした病や怪我で、簡単に人が死ぬ時代だ。現代とは、命の重さが根本的に違う。何度も見せつけられ、そのたびに暗澹たる気分にさせられてきた現実が、ここにも横たわっている。
「案ぜずともよい。今日の空模様ならば、そうそう荒れることはなかろうて。船も岸沿いに進む故、流される恐れはない」
急に不安になってきた初は、ふらふらと船の屋形から甲板に出た。
めまいを堪える初に、夜叉丸は、
「ど、どうでしたか?」
子供たちは、不安げな面持ちで、帆柱に群がっている。初が笑いかけてやると、途端に皆の顔が明るくなった。
「じ、じゃあっ! やっぱり大丈夫で……」
「すまん」
絶望する夜叉丸たちを残し、初は船倉に下りて行った。
薄暗い船内を、初は壁に手を突きながら歩いた。
波がぶつかるたび、舟板がぎしぎしと耳障りな音を立てる。
普段は、気にならない些細な現象。あんな話を聞いた後では、それも何かの前触れのように感じられて、ひどく不気味だ。
家臣や水主たちの手前、堂々と歩いて見せるが、初の内心はびくびくだった。
船内には、堺で購った品々が、これでもかと詰め込まれている。唐渡の反物や陶磁器もあるが、ほとんどは鉄や金、銀、銅といった金属類に、瑪瑙や翡翠といった宝石が少々。あとは、船の建造に使う木材がメインだ。安宅荘では、大抵の奢侈品は自給できるので、仕入れの大半は輸出品の原材料が占めている。
樽や木箱を避けながら、初は船内を進んだ。
五百石積みの交易船といっても、現代のタンカーに比べれば、幼子に等しい。さして歩くこともなく、初は目的の部屋にたどりついた。
「おや、姫様。こんなところに何用で?」
見張りに立っていた亀次郎に、初は麻袋を放った。
「差し入れ。
「おお、こいつはありがたい。ちょうど腹が鳴っていたところでして」
亀次郎は、うきうきと麻袋に手を突っ込む。中に入っているのは、
一度炊いた米を水洗いして、天日干しした保存食である。堺で購入したものだが、初はこれにひと工夫して、鉄板で煎りながら醤油とみりんで味付けしている。
「うまいですね、これ」
「だろ」
亀次郎と二人して干飯を齧る。ぼりぼりと音を立てながら、初は板戸で仕切られた、船倉の一角を見やった。
「……なあ。中の奴にも、差し入れてやりたいんだが」
「いや、それはちょっと」
亀次郎は渋い顔で、板戸の前に立ちふさがった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます