第78話 告白
壁にもたれて話し込んでいた初は、背後から駆け寄ってくる足音に振り返った。
「菊。もう起きてだいじょうぶ……」
「なぜ勝手に出歩いているのです!? 外へ出る際には、必ずわたくしを連れて行くようにと、お願いしたではありませんか!?」
慌てて来たのか、髪は乱れ、服も着崩れている。
いつになく狼狽した様子の菊は、初に縋りつくようにして肩を揺さぶる。ここ数日で、明らかにこけた様子の頬が、初が背にした板戸を前にして強張った。
「姫様っ! ここには近づいてはならぬと命じられていたはず!」
菊の手に力がこもる。肩の肉を抉られるような痛みに、初は小さく声を漏らした。
「ここにいるのは、
「ちょっと差し入れに来ただけだよ。遺恨があるからって、飲まず食わずで置いとくわけにも……」
「亀次郎殿も、
怜悧な眼差しが、鈍く光る。
初の後ろで身を低くしていた亀次郎は、そろそろと顔を上げる。引き攣った笑いを浮かべる亀次郎を、菊は虫を見るような目で見つめた。
「なぜ、姫様をお止めしなかったのですか?」
「いや、それはその……相手は小なりとはいえ、国人ですし? 礼を欠くわけにはいかぬかと、思った次第でして……」
「立っているだけなら、
「おい、菊。それは言い過ぎっ……!」
菊の指が、さらに肩の肉へと食い込む。初が痛みに顔をしかめても、菊が力を弱める気配はなかった。
「姫様、屋形へお戻りを」
「おい、ちょっと待ってって」
「さあ、早くっ」
腕を強く引かれて、初はついに悲鳴を上げた。
はっ、と菊の手が離れる。
肩をさする初に、菊は顔を青褪めさせた。
「も、申し訳ありません! すぐに手当てを」
「いいよ、ちょっと赤くなってるだけだから」
「ですがっ、」
「大丈夫だから。ちょっと落ち着けって、な?」
何度か押し問答を続けて、菊はようやく手を引っ込める。
先日の一件は、初の周囲に大きな影響をもたらしていた。
それまでも、何くれとなく初を気にかけてくれていた頼定は、堀内勢による襲撃以降、初のまわりに人を増やした。護衛役の家臣を常に侍らせ、どこへ行くにも後ろから人がついてくる。特に、菊による監視は、以前に輪をかけて強まっていた。
初が連れ去られたことに、よほど責任を感じているのか。あれ以来、何をするにも初の傍を離れようとしない。食事も、寝るときも、厠にさえついて来ようとする上に、この五日間は、不寝番さえ買って出ている。
「……なあ、菊。何度も言うように、この間の件は、お前だけの責任じゃないんだ」
おろおろとこちらを見つめる菊に、初は優しく語り掛けた。
これほど狼狽した菊を見るのは、はじめてだった。いつも取り澄ましていた顔は、睡眠不足と心労が祟り、見るからにやつれている。
過剰なほどに気負い、その意気込みを空回させ続ける姿は、あまりにも痛々しかった。
「あんな茂みに人が隠れてるなんて、誰も思わなかったんだ。私だって気付かなかった。兄上も、叔父上も、菊に責任はないって言ってる。怪我をしたわけじゃないし、ちゃんと無事に帰ってこれたんだ。これからは、私も気を付けるから。だから、お前も」
「……それで済む話ではありませぬ」
菊は、うつむいた。喉奥から絞り出すような声がこぼれた。
「わたくしは、初姫様のお傍に仕え、お守りすることが役目。その役目を果たせぬとあれば、わたくしがいる意味など……」
「おい。それ以上言ったら、怒るぞ」
初は、語気を強めて言った。
びくりと肩をすくませる菊に、言い方が悪かったかと思い直しかける。が、これ以上黙っていても、事態が悪化するだけだ。
初はひとつ息を吸うと、血の気の失せた菊の顔を見つめた。
「主人である私が、お前は悪くないと言ってるんだ。菊には責任がない。だから、思い詰める必要もない」
「ですがっ」
言い募ろうとする菊を、初は視線で制した。
「……なんだ? まさか、主人である私の言葉が、間違っているとでも言うつもりか? 私の言葉は信用できぬと。お前は、そう考えてるのか?」
「い、いえっ、決してそのようなこと……初姫様は、わたしくには過ぎたお方で……」
だったら! と初は強く断言する。
「この話は、ここで終わりだ。全部、すべて、まるっと、何もかもここで終わり! はい、解散解散っ」
しっしっ、と手を振る初に、菊はなおも、もの問いたげな眼差しを向けてくる。
まるで捨てられた子犬のような瞳に、初は「ああもうっ」と頭を掻きむしった。
「お前は、意味とか考えなくていいから! 私には、お前が必要だから!」
菊が、切れ長の目を見開く。さっきまで、この世の終わりに直面したようだった顔が、ぽかんと呆気に取られている。
背後から、亀次郎の息遣い。必死に笑いをこらえている様子のそれに、初はみるみる頬を赤くした。全身が沸騰したように熱くになるが、もはや止まるわけにもいかない。
こうなりゃヤケだと、初は腹の底に力を込めた。
「お前がいないと、私が面倒を起こしたときに、なんとかしてくれる奴がいなくなるだろう。
これは、ほんとに重要である。叔父の
「他にも、身の回りの世話とか、侍女たちへの指示とか。お前にやってもらわないといけないことは、山ほどあるんだ。お前がいなくなられたら、今度は私が心労で倒れるぞ?」
この時代に来て、右も左もわからない初を支えてくれたのは、間違いなく菊だ。ストレスから体調を崩したり、慣れない環境に困惑する初を、何度も助けてくれた。
少々どころでなく口うるさいし、きついし、度が過ぎるほど過保護だが、それでも初にとっては、かけがえのない存在に違いなかった。
「自分の体調管理も、お前の務めだ。風邪ひいたり倒れたりしないよう、しっかり自分のことも面倒見ること。ひとりでやたらと責任を背負い込まないこと。わかったら、返事」
「は……はい」
菊の声は、ちょっと驚くくらい素直だった。いつもの大人びた雰囲気は鳴りを潜め、ぽけっとこちらを見つめる姿には、幼さすら感じられる。
「ここはいいから、菊はちょっと寝てこい。お前、ここんとこ、まともに眠ってないんだから」
「いえ、もう昼ですし。これからお食事の支度が……」
「これは命令だから。つべこべ言わない、素直に従う!」
まだ笑っている亀次郎の足を踏んづけ、初は菊の手を引っ張った。船倉から甲板に上がり、屋形でたむろしていた水主と家臣たちを脇にどけて、一人分の寝床を確保する。
「ほれ、ここに横になる」
すっかり大人しくなった菊は、初の指示通りに、その身を横たえた。まだ逡巡している様子だったが、子守唄を歌ってやると、だんだんと瞼が落ちていく。
ほどなくして寝息を立て始めた菊に、初はそっと息をついた。
一安心した初だが、問題は何も解決していない。堺にいる間はすっかり忘れていたが、安宅荘が近づくにつれて、婚姻の二文字が脳裏にちらつき始めた。
いっそこのまま逃げてやろうか? 船を乗っ取って、大海原を誰も知らない土地に向かって──
そんな益体もない想像を膨らませていた初は、水主たちのざわめきによって、現実に引き戻された。
先ほどから、外が騒がしい。多くの足音が甲板を行き交うのを耳にして、初は何事かと振り返った。
「難破船でも見つけたのか?」
「さあ、そういう雰囲気でもありませんが」
一晩寝て、いくらかすっきりした様子の菊と屋形を出る。
船縁に集まった水主たちは、陸地を指さして、しきりと騒ぎ立てていた。
「あれは、日置浦の辺りか?」
「いや、もっと山側ではないか? 浜なら、舟が見えているはず」
「あの立ち昇りようじゃ。これは、相当派手に燃えておるぞ」
水主たちを押しのけ、初は船縁に立った。海に落ちないよう、舷側に掴まりながら、目を凝らす。
複雑な表情を見せる海岸の向こう。小高い山が連なる熊野の地より、黒い煙が立ち昇っているのを、初は目撃した。
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