第43話 祭りの後1
初は、床の上で潰れていた。
日置湊にある、
あれをやってもダメ、これをやってもダメ。もはや万策尽きた初には、立ち上がる気力すらない。
へにょりと全身を投げ出し、ごろごろと床の上を転がる様は、浜に打ち上げられた
輝きを失った瞳は、虚ろに周囲の景色を映し、床に押し付けた頬が、ぐにゃりと歪な形にゆがんでいた。
「何をそんなに落ち込んでおるのだ、初?」
死んだ魚のような目が、のろりと動く。
光定は、床で伸びている初を、怪訝そうな顔で見つめていた。
「ほれ、お前の言っていた船だぞ。わしが氏長の奴を説き伏せて、やっとの思いで建造に取り掛かったのだ。もっと喜ばんか」
作業場では、架台の上で新たな船が組み上げられている。
船にセミモノコック構造を取り入れるよう進言して以来、光定は新しい船を造る際に、初の意見を求めるようになった。
肋骨を取りつけた船は、現場でかなり好評らしい。建造費こそ高くなったが、その分頑丈で、ちょっとやそっとの嵐ではびくともしない。
現在では、明の船を参考に、木製の防水隔壁を設置し、さらに強度を増している。
以前は、航路を閉じるしかなかった冬の日本海も、今では問題なく往復できる。お陰で、冬の間の交易を独占できると、直定はほくほく顔だ。
良い船を手に入れれば、さらに良い船が欲しくなるのが、人情である。海賊衆である安宅家では、その欲求はさらに強い。
大学では流体力学を学んでいた初だが、正直、船は専門外だった。海水というのは、空気とは粘度が段違いなので、計算がややこしいのである。
特に、船の推進効率に大きく関わる船底形状は、コンピュータを使わないと設計できない。海面との摩擦抵抗だけでなく、波が作る造波抵抗までアナログ式に計算するのは、物理的に不可能だ。
船には詳しくないと初も断ったのだが、へたに有用なアイディアを提供したせいで、誰も聞く耳を持ってくれない。
仕方なく、初はうろ覚えの知識を提供して、何とか光定たちの要求に応えていた。
初は、もぞりと仰向けに寝転がった。作りかけの船を、気の抜けた顔で眺める。
まだ骨組みしか出来上がっていない船だが、今までの船よりも、スマートな印象がある。
水でも空気でも、その中を通過する物体は、前方投影面積(正面から物体に光を当てた時にできる影の面積)が小さいほうが、抵抗は小さくなる。
ようは、飛び込み台からプールに入るときと同じだ。腹から垂直に落下すると痛い目を見るが、頭から一直線に飛び込めば、衝撃は最小限で済む。
今回、建造する船は、船幅を狭めることで前方投影面積を減らした。それだけでは貨物の積載量まで減ってしまうので、代わりに船の長さを増すことで、内容積を確保している。
横幅を削った分、海上での安定性は損なわれるが、そこは現代の記憶を総動員して、ビルジキールを設けたり、センターボードを追加したりして対処した。
(こんなことなら、押山さんの仕事、もっと手伝っとくんだったなぁ)
大学時代の先輩を思い出し、初は嘆いた。
一応、回流水槽を使い、模型で実験を行ってから、建造には取り掛かっている。細かい部分については、船大工たちに相談しているので、大きな問題は起こらないはずだが。
「今は、そんな気分じゃない……」
組み上がっていく船を見ても、初の目は死んだままだった。
初の心は、舞い込む縁談の山と、先日の連歌会に囚われたままである。
「何を気に病む必要がある。連歌会での姫の振る舞いは、なかなかのものだったぞ。特に、箏の演奏は見事であった。あれならば、氏長とて文句は言うまい」
「まあ、ギターはやってましたからね……」
大崎慶一郎も、大抵の高校生の例に漏れず、バンドマンに憧れた時期がある。
同じ学校でメンバーを集め、ギターを練習し、文化祭で演奏するまでのワンセットをこなしたのも良い思い出である。
箏も、ギターと同じ弦楽器なので、習得にはさほど手間取らなかった。
「桜の下で演奏するお主の姿を見て、縁談を申し込んできた家も、一つや二つではないと聞く。よかったな、初。これで嫁ぎ先に困ることも、」
「
初の隣で、心配げな顔をしていた沙希が、光定をぴしゃりと叱りつける。
娘の一言に、光定は眉を下げた。厳めしい眉が、情けなく萎れる。
「う、うるさいって、お前」
「姫様は、あちこちから持ち込まれる縁談に、うんざりしてるんです。皆、姫様じゃなくて、安宅家の富が目当てなんだから」
むすっと、頬を膨らませる。
「姫様は、容姿も、教養も、お人柄だって素晴らしいお方です。それに安宅家は、身代こそ小さいですが、かつて得宗家(鎌倉幕府執権であった北条家)によって、熊野の抑えに任じられた由緒正しい家柄。そんな姫様を、まるで牛馬のように寄越せだなんて。不遜にも、ほどがあります!」
「それだけ、安宅家が重んじられているということよ。それに、近頃は熊野どころか、国の外からも、姫に縁談を申し込みに来る者が……」
「父様は、姫様がいなくなってもいいって言うんですか!?」
沙希に噛みつかれて、光定はたじたじとなった。
父親の宿命か、多感な年頃の娘を相手に、光定も手を焼いているようである。
一緒に出掛けようと言えば断られ、稽古事の様子を見に行けば邪険にされる。
最近も、初が連歌会で着ていた着物が欲しいとねだられて、買ってやったばかりだ。
さすがに同じものではないが、安宅荘の職人たちが似たデザインの着物を作り、比較的安価で販売しているらしい。実に、商魂たくましい話である。
その後、館の侍女や、大店の妻女たちが、初とは色違いの着物を身に着けているのをよく見かけるのは、一種の流行か。沙希が着物を欲しがったのも、流行に遅れたくないという思いからだろう。
決して安くはない着物を買い与えた後で、この扱いである。父親の悲哀も、ここに極まれりだ。
沙希は、いらいらと爪を噛みながら、初の縁談に対する不満を並べ立てた。
「男共ときたら、姫様を見ただけで鼻の下を伸ばして。眺めるだけでも罰当たりなのに、その上、姫様に酌をさせようとするだなんて!」
連歌会の最中、客の一人が、初の着物の裾を引いた。
相手は、
酒に酔ってのこととはいえ、他家の姫を
一触即発の雰囲気の中、初はやんわりと相手の手を振りほどき、女中たちに酒を持ってこさせた。初が箏を奏でたのは、殺伐とし始めた宴席を、和ませるためでもある。
(あれは、失敗だったなぁ……)
床に伏せたまま、初は己のうかつさを呪った。
翌日、噂を聞いた近隣の民たちが押しかけてきたため、初はもう一度、箏を演奏する羽目になった。お陰で初の評判は、熊野中に広まり、安宅家を訪れる客人たちから、演奏を求められるようになっている。
「あんな愚鈍で
「しかしだな、沙希。武家同士の結びつきというのは、婚姻を結んで、はじめて盤石となるものであってだな。初には、安宅家の姫として、どこぞと良縁を結んでもらわねば困るわけで……」
「嫌です! 沙希は、姫様と離れ離れになるなんて、絶っ対に嫌ですから!」
キーっ、と吠える沙希に、光定はほとほと困り果てた顔となる。長年可愛がってきたせいか、沙希は初を、本当の姉以上に慕っている。
「姫様! かくなる上は、亀次郎兄様と結婚してください!」
「……はあ?」
海驢から
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