第42話 菊の独り言2

 思えば、姫は昔から変わった人だった。


 勉学は嫌いなくせに、教えられたことは、一度で覚える。男子おのこに混じって合戦ごっこをし、網を引き、舟で駆け回る。家臣の子息たちどころか、市井の民に混じって遊びまわる姿は、田舎娘そのものだ。それでいて、何か問題が起これば間に入り、見事な手腕で解決してしまう。


 ある時、姫がその年の年貢の割合を決める会合に、見学したいと言い出した。


 年貢の軽重は、領民にとって死活問題だ。必然、話し合いの場は険悪な雰囲気となることが多く、代官と領民の間では、罵詈雑言が交わされる。


 その年は、例年に比べて不作気味だったこともあり、会合は特に荒れた。話し合いの最中、互いに引くに引けなくなり、刃傷沙汰に及びかけたほどである。


 代官、領民の双方が気炎を上げる中、まだ幼い姫は、じっとその場に座り、成り行きを見守っていたと聞く。


 恐れるでもなく、泣きだすでもなく、ただ静かに座り続ける姫の姿に、冷静となった一同は、安定のとりなしもあって、互いに非礼を詫びた。落ち着いて話し合った結果、その年の年貢は免除され、困窮する家には、無償で種籾の貸し付けが行われたという。


 以来、何か事が起これば、領民は姫を頼るようになった。もともと博識なこともあって、持ち込まれた問題をたちどころに解決する姫は、さらに名声を高めた。

 長兄の直定も、熊野海賊衆随一の知恵者と名高いが、姫はそれ以上かもしれない。


 一昨年からは、海生寺の鍜治場へ出入りし、明の工人たちに混じって、何やら怪しげなものを作っていると伝え聞く。その怪しげな品々は、実際に領民の生活を助けているとも。


(いったいどこで、そんな知識を身に着けて来たのか)


 青海が、熊野権現の加護と呼ぶのも、うなずける。それほどに、姫の知識は異質だった。あるいは、青涯すら凌ぐほどの──


「……あの、菊?」


 姫の声で、我に返る。


 暖められた浴室内には、白く蒸気が立ち込めていた。


 風呂椅子に座った初姫は、背後から覆い被さる菊に、もの言いたげな視線を向けている。

 互いの顔が間近に迫り、姫はもじもじと視線を逸らせた。


「前は、自分で洗えるから」

「失礼いたしました」


 胸元に手をやっていた菊は、素知らぬ顔で桶を取った。


「流します」

「頼む」


 石鹸の泡を、桶に汲んだ湯で洗い流す。


 いくら日に当たっても白いままの肌、水滴をはじいて赤く上気する頬。丸みを帯び始めた身体は、童から娘へと脱皮しつつあり、何とも言えぬ色香を放っていた。


 濡れた床で足を滑らさぬよう手を取り、姫が湯舟へ浸かるのを助ける。


 底の鉄釜を熱し、湯を沸かして入る風呂だ。青涯によれば、五右衛門風呂というらしい。


 火傷をせぬよう、底板を踏みながら湯船につかった姫は、一度ぶるりと身体を震わせた。強張っていた身体がほぐれ、ほうっと息を吐く姿を菊は眺めた。


 かつては病がちで、哀れなほどに痩せ細っていた面影は、そこにはない。


 幼い頃の姫は、よく寝込む人だった。


 毎日のように熱を出し、体調を崩しては、食べたものを吐き戻す。小さな身体を縮めて、布団の中で震える姿は、哀れを催すほどに痛ましかった。


(あの頃の姫は、何かを恐れているようだった)


 ここはどこだ。工場はどうなった。自分の身体が、女になっているのは変だ。


 口を開けば、わけのわからぬことばかり呟いていた。かと思えば、奇妙な鉄の箱や鳥など、不気味な絵を一心不乱に描き散らし、再び体調を崩して寝込む。その繰り返しだった。


 狂乱し、喚き散らす姫を、侍女たちは狐憑きか、犬神憑きかと噂して恐れた。

 そんな姫を庇ったのは、母親の小夜だった。


 おそらく、神がかりの類だろう。自分も幼い頃はそうだったと、小夜は皆をなだめて回った。


 安定は、何も言わず、姫のあらゆる行動を黙認した。それを、娘に対する無関心と捉えたのか、直定はしきりと姫の世話を焼くようになった。直定が、姫に対して過保護になったのは、この頃からである。


 周囲の気遣いもあってか、年を経るごとに、姫の奇矯な振る舞いは減り、身体も強くなっていった。

 明るくなり、周囲にも気遣いを見せる初の姿に、皆もう大丈夫と安心した。


(本当にそうだろうか?)


 数年前、姫は海に落ちた六郎を救うため、鮫に挑みかかったという。

 その話を思い出すたび、菊は背筋に冷たいものが走った。


 鮫の鼻先に手を出すなど、まともな人間のすることではない。たとえ対処の仕方を知っていたとしても、人を襲おうとしている鮫相手に、それを平然とやってのける神経は、常人の者ではないだろう。自分の命に対する執着が、薄いのではないかとさえ感じる。


 さらに気掛かりなのは、姫の自分の身体に対する嫌悪感だ。


 つい先日、はじめて月のものが、姫の身体に訪れた。


 これで大人の仲間入りと祝う周囲に対し、姫は半狂乱になり、そのまま三日間ほど寝込んだ。


 何を食べても吐き戻し、布団の中でぶつぶつと呟く姿は、かつての狂乱ぶりが戻ってきたようだった。


「初姫様は、ご自分のお身体を厭うておられる」


 口さがない侍女たちの中には、そのような噂を口にする者もいる。そして、それは真実ではないかと、菊は感じていた。


 一度、姫が自分の胸に、刃物を当てている姿を、菊は目撃した。


 驚く菊に、姫は至極真面目な顔で「いや、邪魔だから」と呟いた。まるで、当たり前のことを話すような口ぶりで。


 その場は何とか収めたが、以来、姫が刃物に触れる際は、誰かが見張るよう言い含めている。料理をするにも、針仕事をするにも、菊は常に、物陰から姫を監視していた。


「さって、連歌会も終わったことだし。これでまた、物作りに集中できるな!」


 風呂上り、姫は嬉々として帳面を開いた。


 近頃の姫は、まるで何かに憑りつかれたように、物を作っている。


 毎日、鍜治場へと通い、領民の要望を聞き、夜遅くまで何かを帳面に書き付けている。


 筆を握ったまま眠る姫に布団を掛けながら、菊は姫の寝顔を見つめた。


 目の下の隈が、少し濃くなったように見える。

 毎日、日置川をさかのぼって、館と鍜治場を往復する。領民から助けを求められれば、どこへでも出かけて手を差し伸べる。そこへ睡眠不足まで重なっては、休む暇もないだろう。


(いったい何が、この方を動かしているのか──)


 寸暇を惜しんで働き続ける姫の顔に、菊は指先で触れた。


 この小さな姫を突き動かす衝動は、いったい、どこからやって来るのか──


「ひっ」


 がたりと、何かが倒れる音。菊は素早く手を引っ込め、周囲に視線を走らせる。


 夜中に姫が目を覚ました時のためにと、水差しを持ってきた若菜が、口元を押さえて、蒼白な顔をしている。


 たしか、父親は安宅家の奉公人だったはず。

 安定と共に、周辺領主との小競り合いに参加し、手柄を立てたと聞いている。若菜は、小夜がその器量を認めて、姫の侍女として雇い入れた娘だ。


 若菜の足元には、水差しが倒れている。こぼれた水が畳の上に広がり、染みになっていくのを、菊は黙って見つめていた。


「あ、あの、お菊様……これは」


 蒼褪める若菜の視線の先。姫が、眠る寸前まで書き付けていた帳面が、中身を露にしたまま転がっている。


 安宅荘で産する紙の中でも、特に上質な紙で出来た帳面は、一切の隙間もなく、群れ為す文字によって覆いつくされていた。


 力強く大書された文字があれば、まるで米粒のような字が、延々と書き連ねられている部分もある。


 日々の暮らしぶり、不満、これからの展望。

 何かの図面らしき絵が描かれ、蛇がのたくったような絵とも文字ともつかぬものが、走り回る。


 これから数年先、あるいは数十年先まで、姫が作り続ける不可思議な物の数々が、事細かな注釈と共に、殴り書きされている。


 菊は、ちらりと姫に視線をやった。何事もなかったように眠る姫に胸を撫で下ろし、そっと立ち上がった。


「見たのですか?」

「は、はい……その、片付けようとしたときに」

「そう」


 帳面を取り上げ、閉じる。


 姫の枕元を片付ける菊に、若菜は小刻みに震えながら告げた。


「何なのですか、それは? 人の名前らしきものが、何度も何度も……それに、何やら怪しげなまじないらしきものまで……」


 姫が、本当の家族と呼ぶ者たちの名前だろう。呪いは、姫が数式や化学式と呼ぶものか。


 若菜は、恐ろしげに声を震わせながら、菊の袖に縋り付いた。


「やはり、姫様には、妖の類が憑りついているではありませんか? このように奇怪なものを書くなど、とても常人の仕業とは……」

「いいのよ、気にしなくて。姫様は、こういうお人なのだから」

「ですが姫様は、あの海生寺へ頻繁に出入りしております。青涯和尚は、異国の呪詛を使って、人を操るとも聞きますし……せめて、せめてお方様には報せをっ」


 菊は、若菜の頬に手をやった。


 奉公人の娘。本来ならば、姫の侍女になどなれる身分ではない。


 姫の身の回りの世話をする者は、若菜のように身分の低い者が選ばれることが多い。

 若く、仕事ができ、口の堅い者。あるいは木っ端のごとく、用が済めば、替えのきく者が。


「いいの。あなたは、もう何も気にする必要などないのだから」


 菊は、へたり込む若菜の頭を、両手で掴んだ。燈明の灯りが作り出す影が、菊の表情に濃い陰影を生み出している。


 震える若菜の瞳を、菊は圧し掛かるように覗き込んだ。


「目を瞑り、口を閉じて、耳を塞ぎなさい。全て暗闇に閉じ込めてしまえば、もう何も怖いものなんかない。何も、誰も、姫様を傷つけることはできない」


 私の主人は、手のかかる人だ。


 気紛れで大胆。臆病で繊細。

 大事を成し遂げたかと思えば、ほんの些細な小事に心を捕らわれる。


 誰よりも高く飛べる才を持ちながら、あまりに脆く、いつ落ちるともしれない綱の上で、孤独に立ち尽くす。

 私の主人は、そういう人だ。


 だから、誰かが守らなければならない。


 柔く、柔く、決して潰れてしまわないように。


 固く、固く、決して壊してしまわないように。


「さあ、おねむの時間ですよ、姫様」


 可愛い可愛い私の主人ために──


 菊の顔には、蕩けそうな笑みが浮かんでいた。

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