第41話 菊の独り言1
私の主人は、手のかかる人だ。
気紛れで大胆。臆病で繊細。
大事を成し遂げたかと思えば、ほんの些細な小事に心を捕らわれる。
誰よりも高く飛べる才を持ちながら、あまりに脆く、いつ落ちるともしれない綱の上で、孤独に立ち尽くす。
私の主人は、そういう人だった。
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「──なるほど。初姫様は、縁談がお嫌、と」
頭に降りかかる桜の花びらを、鬱陶しそうに払いのけつつ、男は呟いた。
春である。
紀伊の山々は、冬の寒々しい枯れ木から、萌えいずる新緑の姿へ。視界一面を埋める桜の花は、まるで夢の世界にでも紛れ込んでしまったような錯覚を与える。とうとうと流れる日置川に桜の花が散り、舟遊びに繰り出した風流人たちが、花びらをすくって微笑んでいる。
安宅館のほど近く。八幡神社の隣には、境内に隣接するようにして、一際大きな桜の木がそびえている。
桜の周囲には緋毛氈が敷かれ、大勢の人々が車座になって座っていた。
安宅家では恒例の、春の連歌会である。
近隣の領主や安宅家の家臣たち、有力な商人たちを集めて行われる連歌会は、お祭りとしての色合いも濃い。
大桜へ続く通りには桜並木が植えられ、着飾った老若男女が筵や毛氈を敷いて、花見に繰り出していた。
酒に食い物、お囃子が鳴れば、誰かがつられて踊りだす。
華やかな雰囲気の中、男は一人、離れた木陰で扇子を仰いでいた。
その傍らに、菊は静かに控えている。
「他家に嫁ぐのは嫌だと、常々申しておりまする」
「安宅家の富裕ぶりは、天下でも一、二を争うほどだからの。周辺の小領主程度では、釣り合わぬ、というわけか」
不遜だの。
男の発言に、菊は小さく眉を動かした。
あの姫に、そういう驕ったところはない。ただ単純に、結婚するのが嫌なだけだ。
男の名は、
菊の出自は、小山家の分家である。隆朝は菊にとって、主筋に当たる男だった。
隆朝は、傍らに置いた皿から、菓子を一つ摘み取った。
手のひらほどもありそうな焼き菓子を、一口に頬張る。脂の乗った頬が震え、菓子を噛み砕く間もなく、嚥下した。
「……変わった菓子だの。月餅かと思ったが」
「初姫様が、考案なさったものです。生地に乳酪を練り込み、餡に乾燥させた果実を混ぜているとか」
ほう、とまた一つ、菓子を摘まむ。
肥満体の隆朝が持つと、随分小さく見える。
かなり食べ応えのある菓子を、また一口に放り込む。
食べるというより、蛇が卵を飲み込むような仕草だった。
「この果実、砂糖に浸けてあるな。こんなものを惜しげもなく配るとは、安宅家はよほど銭が余っていると見える」
また一口。肉に埋まった瞼が、さらに細められる。
この男が、ひどく落胆した時の仕草だと、菊は知っていた。
「
菓子を飲み込み、隆朝は忌々しげに呟いた。
「それもこれも、青涯和尚のせいよ。まったく、
海生寺の青涯の名声は、日に日に高まっていた。
海生寺の援助を受ければ、確実に領内が富むのだ。土豪たちはこぞって青涯に文を送り、同盟者である安宅家には、取りなしを求める人々が、列をなして押しかけている。
差し出された盃に、菊は酒を注いだ。
この酒も、青涯によって製法が広められ、安宅荘で盛んに作られるようになった清酒である。
近頃は、都でも珍重されるという安宅の酒を、隆朝は恨めし気に舐めた。
「継嗣の
花見客のほうから、わっと声が上がる。
隆朝が視線を逸らせたのを見て、菊も騒ぎの中心へ目をやった。
盆を捧げ持った初が、咲き誇る桜並木の間を、静々と歩いている。
安定の言いつけで、普段から華やかな装いをしている初だが、今日はより一層、艶やかだった。
桜の花に合わせた薄紅色の衣に、緞子の帯。薄く化粧を施された顔は、天女とはかくの如しという輝きぶりである。
姫が歩くだけで、領民たちは無邪気にはしゃぎたてた。軽く会釈すれば、男も女も頬を染めて陶然とする。
初の人気ぶりは、少々異常なほどだった。
連歌会に招かれた客たちに、酒を配って回る初を、隆朝は肉の奥に埋まった瞳で見つめた。
「安宅家の安泰は、まだしばらく続きそうだの」
ぽつりとこぼし、酒を呷る。
「
昨年、紀伊守護である
長年、室町殿の管領を務め、権勢を欲しいままにしていた畠山家に、かつての勢いはない。それどころか、数年以内には、三好家が紀伊を攻めるという噂もある。それを押し返すだけの力は、今の畠山にはない。
熊野は、小領主の寄り合い所帯だ。畠山家を守護と仰ぎ、熊野三山を戴いてはいても、皆、内心では手前勝手に振舞いたがっている。
四方を山に囲まれ、海に通ずる熊野では、それがまかり通っていた。関東に居を置く鎌倉殿では手が出せず、脆弱な基盤しか持たぬ室町殿ではなおのこと。
だが、今度の相手は三好である。今や、畿内を中心に九カ国を領し、日の出の勢いの三好家に、一国人程度では対抗できない。戦えば、蟻のごとく踏み潰されるだけだ。
抗うためには、熊野は一つにまとまる必要がある。その中心となるのは、おそらく安宅家だろう。
長年、安宅家と対等な関係にあった小山家の当主である隆朝は、それが気に入らないらしかった。
「初姫を、我が家で貰い受けるか? しかし、湯川家からも縁談の申し出があると聞く。堀内、湯浅、玉置も動くであろう。果たして、うまくいくかどうか──」
酒を呷る隆朝に、車座から声が掛かった。どうやら、隆朝の番が回ってきたらしい。
盃を置いた隆朝は、軽快な動きで立ち上がった。朗らかに応える姿には、先ほどまでの陰鬱さはない。
常に薄笑いを張り付け、相手の顔色をうかがう。物腰は卑屈なまでに低く、その軽薄な態度を侮る者も多い。だが一度、弱みを見せれば、どこまでも食らいつく貪欲さが、この男にはあった。
「菊よ、どんな些細なことでもよい。安宅家の弱みを探れ。それが小山家への忠義を示すことになる。良いな?」
表情は、朗らかなままである。だが、肉の奥に埋まった目は、決して笑ってなどいない。
元来、猜疑心の強い男だ。菊のこととで、本心では信用などしていないのだろう。
連歌の席へと駆けて行った隆朝を見送り、菊は宴の席へと目をやった。
笛や琵琶を鳴らす女たちに混じり、初が箏を奏でている。
最初はたどたどしかったのが、周囲からの歓声を受けた途端、急に曲調が見事なものへと変わる。
盛り上がる観衆たちに、菊は息を吐いた。
初の悪い癖だ。周囲に期待されたり、褒められると、すぐに応えようとする。そのせいで、自分の名声が高まっていることに気付いていない。
縁談を潰すため、自身の悪評をばら撒こうとした初だが、その目論見は、完全に裏目に出ていた。
料理をすれば、食材を台無しにできないからと、見事な逸品を作り、端切れが出れば布地が勿体ないと、自ら針を通して縫い上げる。
領民の前で見事な舞を披露し、今度は箏だ。これでは、また縁談の申し出が増えるだろう。
(そもそも姫様は、妙なところで責任感がある)
普段の稽古からしてそうだ。
城を抜け出して遊びまわる姫だが、いま見たように、教養は十分に身についている。
もし自分の技量が上達せぬせいで、講師が職を失っては申し訳ない。そう言って姫は、隠れてこっそりと練習する。それで成果を出すから、休みがちな姿しか知らぬ講師は驚いて、姫を神童と持てはやすのだ。
近頃は、策略の一環か、しきりに講師から失望されようとしている。それで逆に稽古へ出席する回数が増え、むしろ安宅家の姫として自覚が出てきたと評判になっている。
傍若無人なようでいて思いやりがあり、豪放磊落なようでいて繊細。
その落差に、姫に恋い焦がれる者は、家中に少なくない。気付いていないのは、初姫だけだ。
今も、姫の見事な演奏に、聴衆が聞き入っている。明日になれば、噂を聞き付けた近隣の者たちが、城下へ押し寄せることだろう。
その様を想像して、菊は嘆息した。
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