第5話 菊

「姫様、今年でおいくつになられましたか?」


 初は、浜辺に正座させられていた。

 砂粒が足の表面に食い込んで、地味に痛い。

 隣には、ついでとばかりに連行された亀次郎と六郎が、同じく正座で並んでいる。


「まさか、自分の歳がわからないなどとは申しませんよね?」


 正面からの圧がすごい。

 初は、なるべく菊と目を合わせないようにしながら、


「えーと……九歳、だったかな?」

「いいえ、十歳です。そろそろ物事の分別がつく年頃のはず」

「それはまあ、俺だってそれなりに、」


 菊の視線が酷薄さを増したので、初は慌てて言い直した。


「わ、私も、もう十歳! ちゃんと分別を弁えた歳です。はい!」

「ならば、ご自分のなさるべきことがわかるはず。今日は、筝の稽古をする予定でしたが、なぜ姫様はこんな場所にいらっしゃるのですか? まさか、海の上で筝を弾いていたなどとは、仰りませんよね?」


 若干強めの語尾に、初はへらりと笑って答えた。


「いやぁ、今日は天気が良かったから、ちょっと外で身体を動かそうと思って。ほら、ここのところ部屋に篭りっぱなしだったから!」

「昨日は山に行くと言って、館を抜け出したはずですが?」

「まあ、そういうこともあるさ。でもほら、一昨日はちゃんと稽古を受けてだな」

「三日前は、馬場で鉄砲を撃っていらっしゃいましたね。確かその日は、歌の稽古があったはずですが」

「十日前! 十日前は茶の湯を披露して、みんなに褒められたから! ほら、ちゃんと勉強してる!」

「ご指導いただいた作法を、全て無視なさっておられましたね? ご覧になられていた先生は、すっかり呆れてしまわれて。ああ、そうそう。そのとき先生に謝罪したのは、わたくしでございます」


 菊が、頭上から見下ろしてくる。

 背中に重石を乗せられたような気がして、初はたじろいだ。


「ほんに姫様は、外で身体を動かすのがお好きですね?」


 やばい。これはマジなやつだ。


 初は、流れ出る汗によって、全身がじっとりと濡れていくのを感じた。

 声の調子から察するに、菊の怒り度合いは下から三段目。すでに限界だ。この先は途中の段階をすっ飛ばして、いきなりキレ始める。


 初は前回、菊がキレたときのことを思い出した。


 一度怒った菊は、最低でも一週間は許してくれない。その間、熾火が燃え続けるような深甚しんじんな怒りに、苛まれ続けるのだ。具体的には、四六時中見張りについてまわり、就寝中はおろかトイレの中にまで一緒に入ってくるようになる。


 あの氷の棘みたいな眼差しが、朝夕関係なく突き刺さり続けるのだ。想像しただけで、胃が痛い。それも一週間で終わればいいが、今度はもっと長くなりそうな気配が漂っている。


 そうなれば地獄だ。何としてでも、菊の怒りを静めなければならない。


 初は、ちらと隣に目をやった。


 亀次郎は、私は無関係とばかりに、だんまりを決め込んでいた。脇腹を指で突いても、反応一つ寄越さない。

 真っ青になって縮こまる六郎は頼りにならないし、頼定は舟を漕ぎに行ってしまった。太助とイサザにいたっては、菊を見た時点で逃走している。


「くそっ。使える人間が、一人もいない……」

「姫様、聞いているのですか?」


 菊は、初に詰め寄った。

 うろたえる初に顔を寄せ、真正面から鋭利な視線を注いでくる。


「今日は、舟遊びですか。それも海の中で、フカに挑みかかったそうですね?」

「いや、別に挑みかかっては……」

「口答えしない」

「はい!」


 ぴしゃりと撥ねつけられて、初はぴんと背筋を伸ばした。


 菊の冷たく整った顔を見ると、反射的に身体が緊張する。側付きとして長年を過ごしてきた間柄だが、近くにいると、どうにも落ち着かない気分にさせられた。


(女っ気の少ない人生だったからなぁ。初めの頃は、ちょっと甘酸っぱい期待もしてたのに……)


 今では、別の意味でドキドキさせられる相手だ。


 菊は、ぷるぷると震える初に鼻白んだ。それで多少は怒りも薄れたのか、鼻と鼻がくっつきそうな距離から、ゆっくりと離れていく。

 内心でほっとする初に、襟元を正した菊は、諭すような口調で言った。


「姫様。百歩譲って、お稽古を休まれるのは良いです。いえ、決して良くはないのですが、まあ許しましょう。舟遊びも、節度を守るならば悪くありません。ですが、フカはダメです」


 菊は、硬い声音で告げた。


「わかっていると思いますが、フカは犬猫とは違います。人を襲い、人を食い殺す、海のケダモノです。そんなものに近寄るなど、正気の沙汰ではありません。はっきり言って、常軌を逸しております」

「いや、確かにサメは怖いけど、ちゃんと対処法があるんだぞ?」


 初は、鮫のロレンチーニ器官について説明した。砂に絵を描いて、具体的な方法を図示して見せるが、菊は疑惑の目を向けるだけで、信じようとしなかった。


「……あの、菊殿」


 声を上げた六郎は、冷え切った菊の眼差しにひるんだ。しかし、何か思いつめたように唇を引き結ぶと、意を決した顔で口を開いた。


「姫様が危険を冒されたのは、私のせいでございます。お叱りになるならば、ぜひ某のことを」

「六郎様については、あとでお父上の左近太郎様にご報告申し上げます。ご叱責は、その際に」


 青を通り越して、白くなっていく六郎に、初は黙祷をささげた。あとで骨くらいは、拾ってやろうと思う。


 菊は一度、亀次郎にも目をやった。


 両手を合わせた亀次郎は、穏やかな微笑を浮かべて佇んでいる。その姿は、この世の一切の苦行より解き放たれた菩薩のごとし。

 涅槃の境地に至らんとする亀次郎に蔑みの眼差しを向け、菊はいまだロレンチーニ器官の説明を試みようとする初に、ため息をついた。


「……まったく。阿波守あわのかみ様も、なぜ姫様の狼藉をお止めにならないのか」


 いかに菊を納得させようかと、論旨を組み立てていた初は、すっと腹の底が冷えるのを感じた。


 無意識に、手足に力がこもる。

 菊は、うつむく初の様子に気付かなかった。


「姫様には安宅家の娘として、自覚が足りないのではありませんか? このように卑俗な振る舞いをなされては、阿波守様がどう思われるか」

「……父上は、関係ないだろう」


 顔をしかめる初に、菊は頑として言った。


「いいえ姫様。あなたが安宅家に生まれた以上、姫様の行動は常に、安宅家の行いとして周囲の目に映ります。それは阿波守様の評判へと繋がり、ひいては安宅家の評判にも関わるのです」


 おわかりですか? と無言のプレッシャーを放ってくる菊から、初は目を逸らした。


 胸の中で、反感がむくむくと湧き上がる。言い知れない感情が腹の底から込み上げ、訳もなく叫びだしたい気持ちになる。


 頑なな初と菊の間に、剣呑な空気が漂い始めた。

 二人の険悪な雰囲気に、六郎はおろおろと立ち竦む。すると、それまで菩薩を決め込んでいた亀次郎が、ついに声を上げた。


「まあまあ、菊殿。ここは一つ、わたくしの顔に免じて……」


 すっ、と菊の視線が亀次郎を捉える。

 上げかけた腰を下ろして、亀次郎は再び菩薩に戻った。


「姫様は、安宅家の娘なのです。どうか、ご自覚を」


 初は答えない。

 何を言われたって、関係ないものは、関係ない。だって──


(──だって、俺は安宅家の人間じゃないんだから)


「なんじゃ、初。また菊に、叱られておるのか?」


 睨み合う菊と初の前に、賑やかな一団が立ち止まった。


 見ると、遊び仲間を引き連れた鶴丸が、上機嫌な様子でけらけらと笑っている。

 鶴丸の手には、二尺近くはありそうな立派な鯛が抱えられていた。


 舟比べで、一等を取った商品だ。


 鶴丸は、舟比べに勝てたことがよほどの嬉しいのか、賞品の鯛を掲げて、しきりに見せびらかしてきた。


「儂の言ったとおりだっただろう! あんな妙ちきりんな仕掛けで舟比べに勝とうなど、笑止千万! 所詮は女の浅知恵と、皆が笑っておるわ!」


 からからと仲間たちと笑い転げる鶴丸に、初は舌打ちした。


「……これだから、学のない糞ガキは。面倒くさい団体に訴えれば、一発で社会的制裁を」

「ん? 何か言ったか?」

「いいえ、兄上。初は、何も申してなどおりませんよ?」


 満面の笑みで小首を傾げてやる。

 菊は、もじもじし始めた男共を白い目で見やると、ことさらに威儀を正して鶴丸と向かい合った。


「鶴丸様。阿波守様がお探しでした」

「な、なに。父上が?」


 鶴丸の笑みが強張る。


「なんでも、勉学をしているはずの鶴丸様が、お部屋にいらっしゃらないと。大層、不思議がっておいででしたが?」


 あからさまに挙動不審になる鶴丸を、菊は無表情に見つめる。涼やかな目元が無言の圧力となって襲い掛かるさまを、初は内心、良い気味だと笑っていた。


「……どうやら、お迎えがいらしたようですね」


 ふと、菊の視線が明後日の方向に向けられた。


 浜辺に地響きのような音がこだまする。


 はじめは野太い音の連なりでしかなかったそれは、だんだんと人の声をなし、意味のある言葉として初の耳に届いた。


「姫様ぁっ! 初姫様ぁーっ!」


 こっそりと鶴丸に舌を出していた初の顔が引き攣る。


 浜辺の向こうから、誰かが猛烈な早さで駆けてくる。


 白髪の老人だ。もういい歳だろうに、手足を振り乱して周囲の人々を押しのける姿からは、かなりの健脚振りがうかがえる。

 三木大八みきだいはちは、初姫の前で立ち止まると、顔中を口にして叫んだ。


「姫様っ! いったい今まで、どこを出歩いていたのです!?」


 叩きつけられる大音声に一瞬、気が遠くなる。


 大八は、並んで正座させられている六郎と亀次郎を見やった。続いて鶴丸とその一党を見つけると、太い白髪眉を戴いた目を、かっと見開いて、


「まさか、またいかがわしい奴ばらと関わっていたのではっ!?」

「わかった! わかったから、もう少し音量を落としてくれ!」


 両耳を塞ぎながら、初に叫び返した。

 大八の声は、ほとんど音響兵器だ。至近距離で浴びれば、それだけで頭がくらくらする。

 後ろでは、大八の声に驚いた六郎が倒れて、菊と亀次郎に引き摺られていく。


「爺、いつも言ってるだろう? 頼むから、もう少し落ち着いて話をだな……」

「これが落ち着いていられますかっ!?」


 海で鍛えられた大八の声は、耳を塞いでも頭の芯まで響いた。


「姫様は、事あるごとに儂を心配させて! 姫様がお館を抜け出されたと聞くたび、爺がどれだけ寿命が縮む思いをしているかっ! 近頃は、姫様が何か悪巧みをしているのではないかと、夜も眠れぬ始末なのですぞっ!?」

「いや、普通に寝てるだろ」


 むしろ隣の部屋から聞こえる大八のいびきが煩さ過ぎて、初のほうが寝不足気味だった。


「しかも、ずぶ濡れではありませんか!? いったい、何があったのです!」


 初の両肩を掴んで、がっくんがっくん揺さぶった大八は、鶴丸の一党を睨みつけた。

 呆気にとられていた男たちが、大八の迫力に縮み上がる。こっそり逃げようとしていた鶴丸は、大八の視線に晒され、その場で直立した。


「貴様ら。もしや姫様に、いかがわしい真似を」

「あー、いや、大八。その人たちは、まあ関係ないこともないが、あるほどでもないというか……」

「姫様は、舟比べに参加なされたのです」


 菊の一言に、見開かれていた大八の瞳が、さらに大きく盛り上がった。


「なっ……姫様っ!?」

「ストップ!」


 初は、大八の口を両手で押さえた。


「今は、こんなとこで話し合ってる場合じゃないだろ? ほら、ち」一度、言い淀んだ口を無理矢理、動かして「……父上が、私を呼んでいるんだろう?」

「おお、そうでした!」


 大八は膝を叩くと、初を右腕で、硬直した鶴丸を左腕で抱えあげた。


「さ、行きますぞ、お二人とも!」

「え?」と、問い返す暇もない。


 初と鶴丸を両脇に抱えた大八は、館を目指して全速力で駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る