第4話 舟比べ2

 つかず離れず、鮫はぴたりと六郎ろくろうの背後に張り付いていた。


 その気になれば、一瞬で追いつけるだろうに。殊更時間をかけるのは、まるで獲物に食らいつく瞬間を見計らっているかのようだ。


 必死に泳ぎ続ける六郎の口から、ごぼりと泡が吹きこぼれた。


 息が切れたのだ。いくら水練の得手とはいえ、齢七つに過ぎない身では、長時間泳ぐことは難しい。

 見る間に速度を落としていく六郎に、鮫の尻尾が素早く水を掻いた。


 弱った六郎に向け、鋭い鼻先が突き進む。


 ついに鮫が獲物を捕らえようとした瞬間、初は六郎の陰から飛び出した。

 六郎の襟首を掴んで引き寄せ、その勢いを利用して、正面から鮫に突っ込む。

 大口を開けた鮫の鼻先を、はつは渾身の力を込めて殴りつけた。


 突然の衝撃に混乱する鮫に組み付き、今度は手のひらで鮫の鼻先を撫で回す。


(よーし、よしよしよしよし。よーし、よしよしよしよし)


 気分は、街で見かけた散歩中の犬を可愛がる女子大生である。


 初は優しく、繊細に、こね回すような手つきで、鮫の鼻先を撫で擦った。


 別に、頭がおかしくなったわけではない。初の行動には、ちゃんとした理由が存在していた。


 鮫の頭部には、ロレンチーニ器官と呼ばれる感覚器が備わっている。これは百万分の一ボルトという極小の電位差を感知し、筋肉が発する微弱な電流を捉えることができる器官だ。鮫は目が悪いため、ロレンチーニ器官と優れた嗅覚を駆使して、餌を探すのである。


 しかし、このロレンチーニ器官。あまりに鋭敏過ぎて、鮫にとっては弱点でもあった。人間の手で殴られたり触られたりすると、与えられた情報を脳が処理しきれなくなって、一種の麻痺状態に陥るのだ。


 はじめは抵抗の素振りを見せていた鮫だが、初に撫でられるにつれて、徐々に大人しくなっていく。

 やがて完全に動かなくなった鮫は、尻尾を垂直に立てて、ぷかぷかと浮かび始めた。まるで、初の手のひらの上に、乗っているような状態だ。


 こうなれば、膝の上で丸まった猫も同然である。

 初は驚愕する六郎に、早く海面へ上がるよう身振りで示しながら、こっそりと胸中で疑問した。


(──で、これからどうすればいいんだ?)


 咄嗟に行動したはいいが、この後はどうするのか?

 大人しくなったとはいえ、相手は鮫である。手を離したら、また襲い掛かってこないとも限らない。


 初は、周囲を見回した。


 一緒に海へ落ちた仲間は、一人も見当たらなかった。おそらく、海面で初を待っているのだろう。まさか海の中で、鮫を相手にしているとは夢にも思うまい。


 おや? これは、もしかしなくても、やばいのでは?


 静かな焦りと、徐々に迫ってくる呼吸の限界。

 初が、のっぴきならない命の危険を感じ始めたとき、突如として一本の銛が海中に投げ込まれた。


 銛の穂先が、鮫の腹を深々と刺し貫く。


 驚いて硬直した初を、背後からぐいと掴む腕があった。

 ぐんぐんと身体が引っ張り上げられる。事態を把握できず、為すがままとなった初は、次の瞬間、海面に飛び出していた。


「怪我はないか、初」


 真夏の日差しが、目の奥を焼く。

 新鮮な酸素を貪っていた初は、深く落ち着いた声の主を振り返った。


「新三郎兄上……」


 安宅新三郎頼定あたぎしんざぶろうよりさだは、角ばった顎をわずかに緩めた。いつも細められている目元と合わせて、心なしか笑ったように見える。


 普段ならば周囲を和ませる笑みだが、今は鮫の返り血を浴びたせいで、ひどく獰猛な表情に感じられた。


 頼定の太い腕に抱えられた初は、手近な舟の上へと引き上げられる。

 途端、亀次郎かめじろうたちが、いっせいに群がってきた。


「姫様、良くぞご無事で!」

「鮫に襲われたって聞いたけど、大丈夫だったのかい!?」

「六郎様が、姫様が鮫を手懐けるのを見たって。いったい、どんな妖術を使ったんだよ!」


 騒ぐ亀次郎たちの後ろで、目を真っ赤にした六郎は、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。


「ひ、ひべざば……」


 しきりとしゃくり上げながら、六郎は聞き取りづらい声で初に謝った。


「わ、わだじをだずけるだめに、あんなぎけんな真似をぉ……」

「ああもう、泣くな泣くな。ほれ、このとおり私は無事だから。お前も男なんだから、あれくらいのことで泣くんじゃない」

「だ、だっで……もじ、もじ、ひべざばがフカにだべられでだら、わたし……わだじはっ!」


 泣き崩れる六郎をあやしながら、初は着物の裾を絞った。


 小袖一枚にしておいてよかった。

 木綿の布地は水を吸って重くなり、身体にぴったりと張り付いて気持ち悪い。これが普段使っている絹だったら、生地が縮んで大変だった。


「うわ、中までびっしょびしょだよ……」


 襟ぐりを開いた初は、何か拭くものを借りようと振り返る。

 なぜかこちらに背を向けた亀次郎は、太助とイサザの頭を叩いてそっぽを向かせた。泣いている六郎が頭を捻られて、「ひきっ」と変な声を上げる。


「くっそー。結局、鶴丸様の組が一等かよ」

「俺たちだって、あともうちょいだったのに」


 亀次郎から借りた手拭で全身を拭った初は、太助たちの声に振り向いた。


 掲げられた旌旗が、左右に大きく振られる。


 一等の舟の漕ぎ手たちが歓声を上げ、浜や見物に出ていた周囲の舟から喝采が飛ぶのを、太助たちは恨めしそうに見つめていた。


「あそこで姫様の仕掛けが壊れなけりゃ、俺たちが一等だったんだぜ?」

「そうそう。だいたい姫様が、あんなめちゃくちゃに漕ぐから」


 恨めしげ顔をする太助とイサザを、亀次郎は仕方あるまいと慰めた。


「勝負は、時の運。今回の我らには、ツキがなかったというだけの話さ」

「でもさぁ」

「負けた方が、船底掃除をするって約束なんだぜ? 俺ヤダよ、あんなしんどい仕事」


 不満を並べ立てる二人に、亀次郎は素っ気ない口調で言った。


「たらればを言ったところで、結果は覆らんよ。それなら、どうやったら仕事を楽しく、楽に終えられるか考えるほうが利口だろうて」


 亀次郎の言動は、妙に爺臭かった。


 この男、初より一つ歳上なだけなのに、感性がやたらと達観している。

 別に世を拗ねているわけではないが、何事もほどほどが一番と、万事に渡って執着の薄い傾向があった。


 転覆した舟の船尾に回り込み、初は壊れた手回しスクリューを回収した。


 ハンドルを取り付けた反対側。革ベルトで駆動するスクリュー軸が、丸裸になっている。

 三枚取り付けたはずのプロペラが、全て根元から折れているのを見て、初は唇を突き出しながら唸った。


「やっぱ木製じゃ、強度が足りなかったかなぁ? それとも、加工の仕方が悪かったのか」


 プロペラは、スクリュー軸のほぞ穴に差し込む形になっている。

 大急ぎで造ったため、プロペラのほぞと、ほぞ穴のサイズが合わず、膠で無理やり接着したのが良くなかったのかもしれない。あるいは、ほぞを細くし過ぎたせいで、海水の抵抗に耐えられなかったか。


「革ベルトも、このままじゃエネルギーロスが多いし。やっぱり、艪を改良するほうがいいのか?」


 艪と舟のスクリューは、実は同じ原理で動いている。どちらも揚力を使って推進力を得ており、スクリューは艪をより効率化させた装置と言えた。


 訝しげな顔をする亀次郎たちの前で、初は腕を組みながら考え込んだ。


「木のしなりを利用して……いや、そもそも艪は乱流が発生しやすいから、スクリューにしたわけで」


 むりむりと、その小さな頭に詰まった脳を回転させる。


 水の流れが艪のブレードから剥離すると、それだけ効率が低下する。乱流を防ぐには、艪の形状を改良せねばならないが、そうなると船体への固定方法から漕ぎ方にいたるまで、あらゆる部分を見直す必要が生じてくる。


 ならばいっそ、舟のほうを改良するか?


 しかし、船体に手を加えるとなれば、一から作り直しになる。そもそも効率的な船底形状を導き出すには、コンピュータ解析が必要だ。


 空気中よりも、はるかに抵抗が大きい海中では、それだけ計算式も複雑化する。はっきり言って、飛行機を設計するよりも、ある意味難しい分野なのだ。

 大学で流体力学を専攻していた初でも、さすがに舟は専門外だった。


(研究室に戻れば、スパコンがあるんだけどなぁ。たしかドクターの押山さんが、船舶について研究してたはず)


 壊れたスクリューを弄りまわしていた初は、ふと頭上に差した影を見上げて硬直した。


 能面のような顔が、冷ややかな眼差しで見下ろしてくる。


 夏だというのに、周囲の気温が一気に下がったような気がして、初はぶるりと背筋を振るわせた。


「ここにおられましたか、姫様」


 がたがたと震える初に、菊は感情のこもらない瞳を向けた。

 

 一難去ったと思ったら、また一難。

 

 今度は、鮫よりも怖い相手を前に、初はごくりと喉を鳴らした。

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