第3話 舟比べ1
永禄2年(1559年) 7月
──海賊衆とは、海に生きる人間たちである。
幼い頃から水に親しみ、言葉を覚えるよりも先に、艪の握り方を習う。
馬の代わりに船を操り、潮の読み方を心得る。
まさに、人舟一体。古老たちが、艪の漕ぎ方さえ見れば、そいつがどんな人間かわかると
海賊衆にとって舟とは、己の命より大切な代物と言っても過言ではない。
故に。
「ほれほれどうした、腰が入っておらんぞ!」
「しっかり足を踏ん張らんか! お前が艪に振り回されてなんとする!」
周囲の浜辺から、はやし立てる声が響く。
人々の視線の先では、小舟に乗った童たちが、懸命に艪を漕いでいた。
一艘あたり、七、八人。いずれも十歳前後で、中には幼児と思しき姿まで見受けられる。
顔を真っ赤にした漕ぎ手たちが、まだ年端もいかぬ手足で、艪にすがりつく。真夏の日差しを浴びながら、全身汗みずくになって艪を漕ぐ姿には、どこか鬼気迫るものがあった。
「平助たちに負けるな!」
「おい、もっと離れろ! 艪がぶつかるだろうがっ!」
童とて矜持がある。他の舟に負けまいと自然、その口調は荒々しいものとなった。
日置川の河口から飛び出した十数艘の小舟は、互いに舳先をぶつけ合いながら、海面を走る。
船団の行く先には、一艘の漁船が
あの漁船まで一番にたどり着いた組が、舟上手の栄誉を授かる。
目の色を変えた童たちが、よりいっそう艪を漕ぐ手に力を込めた。
波飛沫を上げる小舟たちを、背後から追う舟があった。
特別なところはない。他の童たちが乗っているのと同じ、伝馬船である。
しかし、漕ぎ方が少々変わっていた。
伝馬船の船尾に立った初は、円を描くようにして両腕を動かした。
艪を漕ぐような手つきではない。初が握っているのは、木製の取っ手である。
取っ手から伸びた柄は、船尾に固定された木の棒に繋がっている。
浜の船乗りたちは、奇妙な仕掛けを目にして、皆一様に首を捻った。
誰も使ったことのない仕掛けである。あんなものが、いったい何の役に立つのか。
周囲の喧騒を無視して、初は取っ手を回し続ける。
木の棒には、左右に溝が掘られており、そこには革の帯が通されていた。初が取っ手を回すと、輪になった革帯が車輪で送られ、木の棒の周囲を駆動する。すると海中では、革帯の力を受けた三枚の木板が回転し、伝馬船を力強く押し出していた。
「姫様! 凄いですな、その仕掛けは!」
舷側で艪を握る
「まるで大入道の手で、舟が押されているようじゃ!」
「どうだ、亀次郎! 艪を使わなくたって、ちゃんと舟は動くだろう!?」
息を荒げながら、初は手回しスクリューのハンドルを回した。
この舟比べのために急増した代物だが、思ったより上手くいった。
初の乗る伝馬船の漕ぎ手は、全部で五人。他の舟より人数が少ない分は、知恵と工夫で補うしかない。
はじめは初の提案に懐疑的だった亀次郎も、実際に舟が動く姿を見て、無邪気にはしゃいでいた。
「ほんに姫様は、突拍子もないものばかり思いつく」
「でも、ちゃんと舟は動いていますよ?」
「こらっ! 手が止まってるぞ、
初がどやしつけると、六郎は慌てて艪に取り付いた。
亀次郎が謡う拍子に合わせて、四人の艪が海中をかき回す。そこに手回しスクリューの推進力を合わせて、伝馬船は見る見るうちに加速した。
「先頭が見えてきたぞ!」
亀次郎の声に、初は顔を上げた。
一艘、二艘と周囲の舟を追い抜き、伝馬船はついに先頭集団の背後につけていた。
「よっしゃ、もう一息!」
「弥二郎たちの舟が、へばってる! 右から抜けるぞ!」
ともに艪を漕ぐ
亀次郎が、唄の調子を上げた。
一番年下の六郎は、ふぅふぅと息を吐きながら、必死の形相で艪を押しまわす。
あと、もう一息!
初は、スクリューの回転数を上げた。先を行く舟の
旌旗を掲げた漁船まで、あと一町(約109メートル)。
初は渾身の力を込めて、ハンドルに体重を掛けた。
瞬間、がくんっと身体が前につんのめる。
危うく舟から落ちそうになった初は、慌てて舷側の手摺にしがみ付いた。
「姫様、どうなさいました!? 舟の行き足が、落ちていきますぞ!」
慌てる亀次郎。
初は、舷側にぶつけた額をさすりながら、船尾から下を覗き込んだ。
「やべっ……スクリューが壊れてる」
さっきまで勢い良く回転していた木板が、一枚もない。
羽を失ったスクリューの軸が、ハンドルの余勢に合わせてむなしく回転するのを、初は苦々しげに見つめた。
「あっちゃー。やっぱ適当に作ったから、強度的に無理が……」
「姫様、前の舟がっ!」
亀次郎の声に、はっとする。
見ると、先ほどまで並びかけていた先頭の舟から、どんどん離されていた。
「何やってんだ、お前ら! このままじゃ、優勝を掻っ攫われるぞ!?」
「無茶を言わんでください! こっちは、ただでさえ人数が少ないのに!」
「根性だ! 何事も根性があれば、なんとかなるっ!」
そんな無体な、と嘆く亀次郎を無視して、初は予備の艪を取り上げた。
艪を船尾に取り付け、大急ぎで漕ぎ始める。
「ちょっと姫様、適当に漕がないでください! こっちと息を合わせて!」
「いや、そんなこと言われてもっ……これ、どうやって使うん……」
手回しスクリューとは勝手が違う。艪の独特な動きを御しきれず、初の身体は右に左に振り回される。
舟が、ぐらぐらと左右に揺れ始めた。
それまで四人で合わせていたところに、まったくの異分子が入り込んだのだ。しかも初は、艪の扱いに慣れていない。
まわりと調子を合わせられず、手前勝手に漕ぐ初のせいで、他の漕ぎ手たちも次々と調子を狂わされていった。
「姫様、違うって! 腕じゃなくて、もっと腰を使って!」
「こ、こうか?」
「ああっ、落ちる! 落ちるっ!」
「六郎、艪から手を離すんじゃ、」
ない──
亀次郎の警告もむなしく、バランスを崩した伝馬船は、次の瞬間にひっくり返った。
五人の漕ぎ手が、宙を舞う。
頭から海に落ちた初は、海中で身を丸めた。
いきなり海に落ちると、大抵の人間はパニックになる。下手に動けばそれだけ酸素を消費し、最悪の場合、海面に向かっているつもりで、より深く潜ってしまう場合もある。
初は、ライフセーバーのバイトをしていた頃に、先輩から習った方法を思い出した。
まず衝撃から立ち直るため、目を瞑ったまま五つ数える。じっと心の平静さが取り戻されるのを待ち、もう大丈夫だと自分に言い聞かせてから、初はゆっくりと瞼を開いた。
青い光で満たされた海中に、初はぽつんと一人で佇んでいた。
海面から届く光が、ちらちらと目に映る。
思ったよりも、浅い場所だ。これなら、すぐに浮上できる。
濡れた着物に手足をとられないよう、ゆっくりと海中を蹴った初は、視界の隅に人影を捉えた。
六郎だ。
幼い手足を振り回して、懸命に水を掻いている。
ああ見えて六郎は、安宅荘の童の中でも、指折りの泳手だ。普段なら、あんな何かに急き立てられるような泳ぎ方はしない。
まさか、パニックでも起こしているのか?
助けに行こうと動きかけた初は、六郎の背後からぬらりと現れた影にぎょっとした。
鮫だ。それも、体長三メートルはある。
六郎は、必死の形相で鮫から逃げている。
鮫は、青黒い体表を不気味にぬらつらかせながら、ゆっくりと全身をくねらせた。
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