第6話 父
紀伊国は、面積の八割が山に覆われた土地だ。
無数の山が織りなす渓谷と、網の目のように張り巡らされた川。
人々は、山間にぽつぽつと点在する平地を開拓し、あるいは山を切り開き、まるで巨人の懐に抱かれるようにして暮らしている。
紀伊国南部、
領内を流れる日置川は、果無山脈の千丈山北東麓に源を発し、著しく屈曲を繰り返しながら太平洋へと注いでいる。
比較的開けた河口付近には、日置浦の湊が。さらに河口から半里と少しさかのぼれば、安宅湊が存在する。いずれの湊も多くの人々が集い、幾艘もの舟が列を成して、その繁栄ぶりを窺わせた。
にぎわう安宅湊の東に、小さな城があった。
城といっても、現代人が想像するような建物とは少し違う。
日置川と安宅川の合流する三角州に築かれた城には、高くそびえる天守閣は存在せず、建物は全て平屋建て。城の周囲には川の水を引き込んだ堀が巡ぐり、石垣は防御だけでなく、水害に備えた堤防としても機能している。
東国と西国を往還する海路の中継点を扼し、熊野路を見晴るかす熊野海賊衆が一、安宅氏の居館。
その城は、領主の名をとって
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「殿! 初姫様と鶴丸様が、お戻りになられましたぞ! 殿っ!!」
館中に響くような声がこだまする。
どたどたと廊下を走ってきた三木大八は、勢い余って目的の部屋を通り過ぎ「ふぎゃっ」「ぶべっ」一回転して、庭に落ちる。
植え込みから立ち上がった大八は、素早く廊下に駆け上がった。ぐったりしている初と鶴丸を、どちゃっとその場に落として、
「殿! 初姫様をお連れいたしました!」
片膝をついた大八が、その場に平伏する。
危うく後頭部からいきかけた初は、口元を押さえて廊下にへたり込んだ。
「じ、ジェットコースターより恐ろしい……」
「姫様! 殿の御前ですぞ!」
どやしつけてくる大八に、恨みのこもった眼差しを向ける。初は、あちこちぶつけて痛む身体をさすりながら、よろよろと顔を上げた。
開け放たれた障子の向こうには、三人の男たちがいた。
入り口近くに座っている派手な着物の男は、商人だろう。よく館に出入りしているので、何度か顔を見たことがある。
「これは、初姫様。お久しゅうございまする」
会釈してきた商人の前には、様々な品物が並べられていた。
布や陶磁器、漆塗りの細工物やガラスの器。赤や緑の石は、宝石か。
透明な石を見つけた初は、ダイヤなら工具に使えるなと考えた。
「どこに行っておったのだ、初? 随分と酷い格好だが」
全身濡れ鼠の初を、兄で長男の
柔和な顔に、怒りの感情はない。ただ御転婆な妹を見て、しょうがない奴だとは思っていそうである。
「ちょっと、舟比べに……」
初が気不味げに答えると、叔父の光定が腹を抱えて笑った。
「ついに、
「笑い事ではありませんよ、叔父上」
直定は、たしなめるように言った。
「初、お前は身体が弱いのだから、あまり無茶をするな。また寝込んだら、どうするのだ?」
「私も、もう子供ではありません。少し動いたくらいで、体調を崩したりは」
「絶対とは言い切れまい。少しは控えよ」
「まったく、誰に似たのだか」ぼやいた直定は、憂い顔で初を見つめた。
「それでなくとも、年端もいかぬ娘が舟比べなど。父上も、御心配なさっているのだぞ?」
直定が、振り向いた先。
それまで口を閉ざしていた
初は、ぐっと腹の底に力を入れた。
まるで凪いだ湖面のような眼差しだ。静かでまどろむように落ち着いているくせに、どこか底が知れない。
息を詰める初を、安定は黙って手招きした。
乾いてへばり付きそうな喉を、唾を飲んで開かせる。
初は、なるたけ緊張を悟られぬよう、殊更にゆっくりとした動作で、安定の前に進み出た。
「……鶴丸、もっと近くに」
「は、はいっ!」
頓狂な声を上げた鶴丸は、どたどたと初の隣に並んだ。
腰を下ろそうとして鯛に気付き、きょろきょろと左右を見回す。そして初と目が合うと、鶴丸は初に鯛を押し付けて、その場に座った。
「ち、父上! 今日わたくしが出かけたのには、理由がございまして──」
「孫子曰く」
鶴丸の言葉をさえぎり、安定は静かに口を開いた。
「二つの国が争っている。そのうちどちらの国が勝つかは、七つの条件によって計れるという──。鶴丸、その条件を申してみよ」
いきなりの質問に、鶴丸は口をパクパクさせた。
安定が黙って見つめると、その視線に気圧されたのか、大急ぎで頭を回転させ始める。
「ひ、一つ……君主はどちらが立派な政治を行っているか。二つ、将帥はどちらが有能であるか。三つ、天の時と地の利のは、どちらに有利であるか。四つ、法令は……いや、軍令? じゃなくて、えーと……」
必死で考える鶴丸だが、それ以上答えが出てくる様子はない。
安定は、目をぐるぐるさせる鶴丸を、じぃっと見つめて、
「──どうやら、まだまだ勉学が足りぬらしいな」
奥へ行って、修練に戻るが良い。
父の一言に、鶴丸はしゅんとうな垂れた。
隣室に控えていた家臣に連れられ、すごすごと部屋を出て行く。
鶴丸を見送った安定は、のっそりと懐に手を入れた。
扇子を掴んで取り出し、扇の先でぴしゃりと膝を叩く。
押し付けられた鯛を見下ろして、どうしたものかと考えていた初は、その音に意識を現実へと引き戻した。
「姫、書状の書き方はわかるか?」
「……は?」
初は、面食らった。
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