やがて来る時

 寝ているのか、意識が無いのか、ユウはバスタオルの上で辛うじて息をしているだけになっていた。

 目も開けないし、呼んでもしっぽの返事さえ無い。しかし彼が寝ている時と大して様子が変わらないので、美雪は割合平静でいることができた。ここ数日同じような状況で慣れも出ていたから、そばにあるローテーブルで英文を訳す余裕もあった。

 ユウが大きな声をあげて事態が一変するまでは。

 エサをねだる時とも、カラスを威嚇している時とも違うその声は、断末魔の叫びとはかくや、というものだった。

 痛みと苦しみのあまり、ユウの体は時折跳ねるように動く。四本の脚が限界まで伸びたかと思うと、がくがくと震え、痙攣する。

「ユウ、ユウ!?」

 シャーペンを放り投げ、美雪は必死で呼びかけた。反応はなかった。

 お願い、顔を上げて。いつもみたいににゃあと鳴いて。生意気な眼で見つめて。

 すがるように祈りながら、何度も名前を呼んだ。

 騒ぎを聞きつけ、寝室に行っていた母親がリビングにおりてきた。

「美雪、明日学校でしょう、もう寝なさい」

「でも、ユウが」

「私がついているから」

 母親に促され、美雪は二階の自室へ上がった。ユウの声はその頃には、もうしなくなっていた。


 昨夜のできごとが、きらめく水面に映し出される。

「お姉ちゃんまた泣いてるの」

 隣で溜め息が聞こえたけれど、そちらを見られなかった。

 ずっと、ずっと、後悔ばかりが散らかっている。

 今日の模試なんて本当はどうでもよくて、体のいい理由にしただけ。

「怖かった」

 怖かった、怖かった。

 今まで見たことがないほどに苦しむユウの姿が。

 ユウの名前を必死に呼んだのは、ユウを助けたくてーーそんな立派で美しい感情ではないことが。

 ただ自分が耐えられなくて。

 あんなに可愛がっていたつもりのくせに、変わり果てていく命を見ていることが耐えられなくて、逃げだしただけの自分が醜く、薄情なのが、怖かった。

 母親もきっと、美雪が耐えられないのを察したからよそへ行かせたのだ。母親に言われたせいにして、命が消える瞬間から逃げ出した。

 ユウが息を引き取るその時、瞳から光が消えるその時、やがて来る、灯火が終わるその時に直面することから逃げ出した。

 そして、翌朝に待っていたのは、剥製のように固く作り物めいた、ユウだったもの、だった。


「結局、自分のことばっかりなんだよね」

 ぬるい風が微かに流れていく。

「何が」

 少年が抑揚なく返事する。彼に言ってもしょうがない、こんな話をされてもきっと困るだけだろう。なのに、ずっと隣で耳を傾けてくれている気がして、彼の方を見ずに美雪は続ける。

「今日学校に行ったのは、ユウを見るのが辛いから。昨日自分の部屋へ行ったのは、『死』に直面するのが怖いから。ユウがもう死にそう、っていうときに名前を呼んだのは普通でなきゃ、私が怖いから。多分、始まりだって……、ユウを拾ったときだって、死にかけの猫を見捨てた冷たい自分、になりたくなかっただけでほん」

 一気に胸の中にあるものを吐き出していると、突如口が掌でふさがれた。

 わずか十センチほどまで近づいた少年の両の眼が睨むように、美雪を見上げる。浅黒い手をどけることも忘れ、美雪は彼の眼が何を言わんとしているのか見つめ返した。

「ユウだって」少年はうつむき、美雪から手を外して低い声で口を開く。「ユウだって思ってたよ。『もっと美雪と遊んでやればよかった、めんどくさくてもオモチャにじゃれてやればよかった』『名前を呼ばれたら振り向いてやれば良かった』『死ぬときにあんな姿を見せなければ、美雪も苦しまなかったのに』『死ぬ前に家から姿を消すべきだった』『いっそ、車に轢かれたまま、死んでしまっていたら美雪の家に行くこともなかったのに』」

「いや! そんなのいや!」

 淡々と重ねられる少年の声を美雪は悲鳴で遮る。恐ろしいことを挙げていく少年に恐怖さえ覚える。暑いはずの日差しの中で、美雪は自分の唇が震えているのを感じた。少年は再び顔を上げ、美雪を見つめる。哀しそうな、愛しそうな……、一言で表せない感情が見えた。

「そうだよね。だからもう、そんな風に自分を責めないで」少年は両手で美雪の手をくるみ、軽くキスをした。「愛想がなくても、気まぐれでも、病気でも、ありのままのユウに美雪が寄り添ったように。美雪がたとえ弱くても、もしかしたらずるかったとしても、ユウを愛してくれる美雪を、ユウは愛したんだから」

 少年の言葉に、眼に、美雪の瞳が揺れる。

「ユ、ユウ……?」

「大丈夫だよ。ユウは、美雪がこれからたくさんの幸せのキラキラでいっぱいになることを願っているよ」

 少年は動けない美雪をぎゅうっと抱きしめた。彼が全身に浴びたお日様の匂いがした。

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