海
「どこに行くの?」
手を引かれるまま公園を出て、路地を歩いていく。美雪は前を歩く少年に声をかけたが彼は一度振り返って笑うと、返事をせずにまた歩き始めた。
背骨に沿うように汗がしたたっていくのがわかる。制服のシャツはベトベトだ。連日の猛暑日を超える気温のせいか、やはりどこを歩いてもひとけはない。
少年は思いのほか足が速く、手をつながれているせいで歩きにくい。反対の手でカバンがずり落ちないようにしっかり押さえ、少年につかず離れず歩くために彼の足取りを目で追いながら何とかついていく。
車一台が通る程度の幅の路地を抜け、不意に視界が開けた。両サイドの遮蔽物がなくなったせいか風が通り、美雪をなでていった。
目線を上げると、堤防が左右に広がっていた。
「海……?」
学校の立地は海に近く、年に一度は砂浜のゴミ拾いも行事でやらされる。しかし自宅はどちらかというと山に面している。あの駅から歩いて数分で海に出るとは知らなかった。
車道を渡り、少年はまた歩く。コンクリートの堤防は彼の身長より高いのに、身軽に上にのぼってしまう。
「え、え?」
間近に見ていたのにどうやってのぼったのか、忍者の血でもひいているのかと目を疑った。
「ほら、お姉ちゃんも」
少年は何てことなさそうな顔で美雪を待つ。
ほら、と言われても。
そう、簡単には。
のぼれ、ない。
美雪はカバンを先に上げ、上の平坦なところに手をかける。高さが胸の辺りなので、何とか反動をつけ体を持ち上げ、ひざをのせる。やっとこさはいのぼった美雪を、少年はしらっとした顔で見下ろす。
「けっこうどんくさいね」
どんくさいなんて言葉、どこで覚えたのだろうと思うが、慣れない運動と暑さのせいで言い返す気力もなかった。
少年はそのまま堤防のてっぺんに腰掛けるので、美雪もそれにならう。
海側は砂浜ではなく、波消しブロックがごろごろと積まれている。海水浴に不向きな場所だからか、やはり人は見当たらない。堤防の色合いから見るに、今は潮がひいているタイミングのようだ。
下がった水面の波は小さく、太陽の光を受けて乱反射を繰り返している。
「すごいね、あのキラキラつかまえられないかな」
隣で少年が目を輝かせる。やはり年相応なところもあるのだな、と美雪はくすりと笑う。
「あれをつかまえるのは難しそうだね」
「そうだね、オレ海入るのきらいだし……あ!」
急に大声を出すので、反射的に彼を見る。
するりと少年の指が目元に伸びてきた。
じいっ、とこちらを見る彼の眼に吸い込まれそうになって動けずにいると、少年は美雪のまだ残っている涙をすくった。
「こっちのキラキラはつかまえた! あれ、見えなくなった」
嬉しそうに日にかざそうとしたが落としたのか肌にしみ込んだのか、水滴は消えたようだ。
「ははっ、ばーか」
美雪は次はさせるまいとあわてて目元をぬぐう。
「お姉ちゃんやっと笑ったね」
こくびをかしげて笑う少年の瞳が優しくて、美雪はまた泣き出したいような気持になった。
ユウは拾った猫だった。自宅近くで撥ねられたのか息も絶え絶えになっていたのを、母親に頼み込んで動物病院へ連れて行ってもらった。事情を聞いた獣医師は、これは助からないかもよと顔を曇らせた。
母親はもう諦めようと言った。当然だ。自分の家で可愛がっていたならいざ知らず、たまたま見つけただけの瀕死の猫だ。それに――これは、当時の美雪はわかっていなかったけれど――動物の治療というのは保険がきかないぶんかなり高額になるのだ。
だから獣医師もはっきりとそう言ったのだろう、かわいそう、助けたいという綺麗ごとだけでは済まないから。良くも悪くも美雪は子供だったから、お願い助けてあげてと懇願した。母親は根負けして治療費を出す形になった。
獣医師の腕が良かったのか、ユウの生命力が強かったのか、ユウは一命をとりとめた。しばらく入院して、美雪の家へやってきたときには死にかけていたなんてうそのように、綺麗な毛並みの若々しい黒猫になっていた。
「ありがとう、ここに連れてきてくれて」
美雪はスカートのすそでうまく下着を隠した体操座りをすると膝に顔をのせて少年の方を向く。
「もう泣かない?」
「うーん、どうかな。難しいかもね……昨日、おうちで飼ってた猫が死んじゃったんだ」
さっき会ったばかりの、名前も知らない子供相手なのだから、適当にうなずけば終わるのに本音がぽつりともれてしまう。それとも、知らない子供相手だから気楽に言えてしまうのだろうか。
「死んだのが悲しい?」
「そりゃもちろん。でも、それだけじゃないのかも」
ストレートに聞かれて自分で蓋をしていた気持ちをそっと覗いてみる。
ユウが家に来た日、彼は酷く緊張していたのだろう。部屋の隅でじっと固まって置物と化していた。
やがて家になじむにつれ、日に日に態度が大きくなっていったのだが。
冬場の寒い中、ベッドに後ろ髪ひかれつつ学校の支度を終わらせ、自室に戻ると我が物顔でベッドの真ん中で幸せそうに寝ていたり。リビングでこたつに足を入れると先客だったユウに足をバリっと引っかかれたり。
エサが欲しいときはにゃごにゃごと必死に訴えてくるくせに、こちらが呼んでも興味がないときはしっぽをパタりと振るだけで振り返りもしない。
そんな風に、多分どこにでもいる猫だったが、美雪にとってはかけがえのない存在だった。
そんなユウが、猫エイズと白血病にかかっていると言われたのは約一か月前だ。エイズも白血病も大病の代名詞みたいなものなのに、同時に罹患するなんてことがあってたまるだろうか。
高校生の美雪にも、きっとこれはもう助からないんだろうと思わせるのに十分な病名たち。
「もっと早く病院に連れて行ってあげてたら、まだ何かできたのかもしれない。予防接種で防げたかもしれない。自由に外に出してあげずに、室内飼をしていたら感染しなくて済んだのかもしれない。せめてどっちかだけでも、防げたかもしれない」
言っているうちにまた涙がこみあげてくる。ユウが死んだことが悲しい、それもあるけれど、胸にあるのは後悔ばかりだ。とっ散らかった後悔の中身をひとつひとつ確認するたびに、涙もあふれてくる。
「でも、みんないつかは死んじゃうからね。幸せって、長いこととは違うよ」
肌の灼けた少年は黒々とした瞳で海を見つめる。
彼の眼を見ていると、ある時のユウの姿を思い出した。
美雪がリビングでごろごろしていると、何やらただならぬ音が外から聞こえてきた。カラスの鳴き声と、低くうなる声。カラスの声も普段あまりきかない変な声だった。
何事かと庭に面した掃き出し窓から見ると、物干し竿に止まったカラスとユウが火花を散らしていたのだった。お互いにらみ合い、威嚇する声を出し一歩も譲らぬ光景に美雪は割って入るのをしばし忘れ、ぽかんと見入ってしまった。
そのことを美雪は少年に話してみせた。
「それ、どっちが勝ったの?」
「びっくりして、しばらく動けなかったけどあわててほうき振り回してカラスを追い払ったよ。カラスって羽広げると思ったより大きくて怖いんだよ」
その上、カラスはすぐには逃げずに美雪をも威嚇しようとしてみせたのだ。思わずほうきをぶんぶん振ってそちらへ突き出すと飛んで行ったが、隣家の屋根に止まってこちらを見下ろすのがまた嫌らしい。頭が良いだけ厄介だった。
「ふーん、もう少し放っておけばよかったのに。鋭い牙と爪のある猫が勝つに決まってるよ」
少年が口をとがらせる。
「私もカラスがあんな強いなんて思ってなかったよ。でも調べたら子猫はつつき殺されたりすることもあるんだって」
猫に牙と爪があるなら、カラスには強力な脚とくちばしがある。空中から攻撃できるアドバンテージもある。
「鳥は猫の食べ物なのに、狩の心配をされるなんて恥ずかしい話だ」
まるで自分が不名誉を受けたように、少年は溜め息をつく。
「猫好きなんだ?」
「うん、カラスなんかよりはよっぽど猫の味方だね俺は」
大真面目にうなずくから、微笑ましい気持ちになる。
「もう少し、見ていた方が良かったのかな……」
自分で発した言葉が事のほか胸に突き刺さった。
カラスとのバトル時ではなく、最期の時に――見ていた方が。
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