第5話 最終話
私は帰りの電車で茫然としていた。
時折、思い出したように「イマジナリーフレンド」や「兄弟 霊」で検索して、こういうときに限って知っていることしか載ってないウィキペディアや、創作感ありありの感動系怖い話のまとめサイトなんかに辿りついては苛立った。
電車からバスに乗り換えてマンションが近づく度に、あの部屋にきいちゃんがいて、「おお、おかえり」とご飯を作って待っていてくれるような気がした。
三年半、ずっとそうだったように。
けれど、部屋には何もなかった。
2Kの部屋は、どう考えても単身者用で。
リビングは狭い六畳で。
もう一つの部屋は、私のベッドでいっぱいだった。
「何で」
私はキッチンの前で崩れ落ちた。
「そんなわけない。毎日ここで、交替で料理当番したじゃん」
声に出して、記憶の中のきいちゃんを責める。きいちゃんは私の頭の中で困ったような顔で笑っている。
「毎日毎日洋食作って、オムライスとかハンバーグとか、カレーとか、エッグタルトとか、一緒に料理作れるようになったじゃん。どっちが作っても同じ味で……」
どっちが作っても同じ味。自分が言った言葉が刃物になって、胸に刺さるみたいだ。
「……てか、最後にした会話が門限ってなに! 一生十時に帰れってこと? 普通こういうのって、感動的な会話して、だんだん透けて消えたりするのがテンプレじゃん! それともネットに書いてあったみたいに正体がバレたら見えなくなっちゃうやつなの?! てか、きいちゃんってあだ名なに?! どう考えても、実は死んだ双子の兄が見守ってましたって流れだったじゃん! なのに」
鼻の奥がツンとして目を閉じる。指先が痺れて、外との境界が滲んでいく。
「シュウって、な、に」
いつまでたっても返事はなかった。
「全部私の妄想なの……?」
家族で美味しいもの食べるともっと美味しいね。これからはマーガリンじゃなくてバターを買おうよ。ここで目を離したら絶対焦げちゃうよ。野菜の大きさは揃えないとムラになるみたい。ユキはもっと素を出したらいいのに。このままじゃ俺いつまで経っても妹離れできないよ。おかえり。スーツ投げっぱなしにしないで。テーブルにスマホ出して食べるのよくないよ。いただきます。最初の一口ちょーだい。ユキ天才。俺最後の晩餐はユキが作ったオムレツが食べたい。
きいちゃんの言葉が頭の中で響く。
私は取り憑かれたように立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
デパートで買ったやたら大きな卵を二つ出して、バターケースからバターを多めにとる。
フライパンを温めている間にボウルの中で卵を切るようにかき混ぜ、塩を一つまみ、生クリーム大さじ一。
「フライパンが温まったら、火を少し弱めて、バターを焦がさないように溶かす。溶き卵を入れて、フライパンをゆすりながらかき混ぜる。卵のふちを回すようにして、卵液が動かなくなってきたら手首を使って形を整える……」
白い大きなお皿に移したそれは、今までで一番完璧なオムレツだった。
左右対称で、表面はシルクみたいになめらかで、色は均一な濃いバター色だ。
いつもならもう一皿作って、ケチャップで字なんか書いちゃったりするけど、もちろんそんな気にはなれなくて、二枚セットのお皿の片方に乗せられたオムレツの真ん中に赤い線を一本だけ、丁寧に丁寧に引いた。
ダイニングテーブルには椅子が向かい合うように二つしまわれている。
入り口側の席に座ると、開けっ放しのカーテンの間から、いつもは見えない外の景色がはっきり見えた。
どう気持ちを整理したらいいか分からない。
いつもの癖で、ポケットの中のスマホをテーブルに置いてしまって、涙が落ちる。
スマホ出して食べるのよくないよって注意されてもスマホ依存の私は我慢できなくて、結局きいちゃんが折れて、触らないならいいよって諦めてたんだっけ。
テーブルに降り始めの雨のように涙の粒が落ちていく。
この光景は前にもあったな。うんと小さい頃、泣きじゃくる私に泣きながら食べたって美味しくないよ、ときいちゃんが言っていたことがあった。嗚咽が漏れる。私は顔を覆って泣いた。
ふいにスマホのメッセージの通知音が鳴る。
思わず見ると西元イツキからで、きいちゃんから最後のメッセージでもきたんじゃないかと一瞬でも思った自分を殴りたくなる。
通知画面には「Nishimoto:昨日はお疲れさま。これから頑張ろうね!!」と表示されている。
――あれ、名前岸元じゃなくて西元だった。
――ユキってさ、よく名前聞き間違えるよね。
西元イツキの名前を見て、一昨日きいちゃんの前で西元と岸元を間違えて何だか変な空気になったのを思い出して、また涙が一筋流れた。
つい先日まで確かにそこにいたのに。どうでもいい話をしていたのに。
「いきなり妹離れして、なんな……」
もう独り言でしかない自分の言葉がテーブルに落ち切る前に、視界の端の黄色に違和感を覚えた。
さっきまで完璧な形だったオムレツの右端が、欠けている。
ちょうど、向かいから腕を伸ばして最初の一口を食べられたみたいに。
兄の口癖が頭の中で鮮やかに鳴る。
――最初の一口ちょーだい。
思わず弾かれたように顔を上げると、誰もいない向かいの椅子が斜めにずれている。
日の当たるその席は暖かそうだ。
その温度を超えて、そこは温かいのだろうか。
「に、い、ちゃ、ん」
零れた言葉の向こうから、ふわりとバターの香りがした。
卵とバター 火星七乙 @kaseinao
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