第4話 落第点です

 結局、ほとんど眠れないまま朝が来た。


 何となく実家の古いダイニングテーブルについて、すぐ横のキッチンを見る。


 錆びついたシンクを明け方の青黒い光が照らしていて、酷く寂しく見えた。


 冷蔵庫を開けて中身を確認する。人の家の冷蔵庫を開けるのはマナー違反だけど、実家だしセーフということにした。


 中に味噌と豆腐と玉ねぎと卵があるのを確認して、コンビニで昆布と鰹節と水を買った。


 棚の奥から土鍋をひっぱり出して匂いをチェックした後、お米を買ってきた水で研ぎ、土鍋の中で綺麗な水に浸して火にかける。


 アルミ鍋に水と昆布を入れて、沸騰させないように気をつけながら中火にかけ、途中で昆布を引きあげて鰹節を加える。

 出汁が出てきたらキッチンペーパーで濾して、できた出汁に玉ねぎと豆腐を入れて煮て、味噌を溶かす。


 卵はしっかり溶いて、さっき作った出汁と砂糖と酒で味をつけて、焦がさないように丁寧に巻いていく。



 全てができあがる頃には、朝日が黄金色になって眩しいくらいだった。



「おはよう、ごめん勝手に」


 起きてきた母は食卓を見て驚いていたが、私が食べよう、と言うと、ありがとう、と返して席に着いた。


「……うん、おいしい」


 朝日に照らされた母の顔は、想像していたよりもずっと多くのしわを刻んで、影を作って笑っていた。


「今度、作り方教えて」


 私は味噌汁を流し込みながら、母の言葉に頷いた。


 笑顔で「もちろん」と返せるほど、私の母への気持ちは変わっていない。


 こうして顔を合わせる機会は年々減って行くだろう。


 母の死が先か、私の気持ちに折り合いがつくのが先か。 


 いつか母が死んだとき、私は過去の態度を悔いたりするのだろうか。

 ……するのだろうな。



「ユキ、その手のやつ、何?」


 思考に無遠慮に割って入った母の声にむせる。


 そうだ、きいちゃんのことを聞かなければ。


 大丈夫。

 肌に黒々と書かれた子どもの字のような兄の名は、薄れていない。


「きいちゃんって、何か知らない?」



 私に聞くのか。一瞬そんな顔をした母だったが、急に思い出したようにああ、と下から這い上がるような声を出した。


「思い出した。あんたが小学校に上がる前、よく『きいちゃんと遊んだ』とか言っててさ」


 脳裏に幼いきいちゃんの小さな手が浮かぶ。母が続けて話した。



「幼稚園の先生に聞いてもそんな子供はいないって言うし、ご飯食べてる最中に何もないとこ見てしゃべってるしで一回病院に相談したことがあってさ。そしたらイマジナリーフレンドっていう、子供にはよくある妄想だって言われて。懐かしい。小学校上がってからは言わなくなったからすっかり忘れてた」





 きいちゃんについての記憶は、小学校に上がるまでの間と、大学生になってからの期間しかない。子供の頃はずっと見えていたけれど、大学生になってからはあのマンションに帰ったときだけきいちゃんのことが見えて、きいちゃんを覚えていた。



 まるで、社会生活に支障をきたさないように。



 馬鹿な。


 あれは、きいちゃんは、私の妄想だったのだろうか。


 たくさん話した取りとめのない話も、妙に兄ぶったアドバイスも、毎日交替で料理を作ったことも、あのいたずらっぽい笑顔も、全部?


 そんなわけない。


 私は毎日、あの部屋できいちゃんとご飯を食べていた。同い年の兄と、毎日必死に、でも笑いながら生きていた。絶対に妄想なんかじゃない。


 母の帰りを待ちながら繋いだ小さな手も、鬼ごっこの最中振り返ったときの、私にそっくりな造りで私に似てない表情を作る顔も、こんなにありありと覚えている。

  

 焦燥が酷く顔に滲み出ているのだろう。

 私を見て、母がいぶかしげな顔をしている。



 人は夢から醒めれば、夢の中の架空の登場人物の顔などすぐに忘れる。

 でも、私はきいちゃんの顔を思い出せる。


 確証が欲しかった。きいちゃんがいた証拠が。


「もう一個聞くんだけど、……嫌なことかもしれないけど」


 箸を置いて、深呼吸をする。


「私の双子のお兄ちゃんって、名前、あった?」


「……あった。つけた」


 何でもいい。キイでも、キイチローでもキクオでも、ユキでもイツキでもゴウキでもマサキでも何でもいいから、「きいちゃん」と呼べる名前がついていてほしかった。


 母も箸を置き、何かを察したのか私の目をじっと見て、静かに言った。








「シュウ、よ」

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