第一部 上と下

第1話 テルハの朝




 気づけば空は青く、太陽が顔に差し込んでいた。

 目覚ましが鳴る。耳を切り裂くその音はテルハに登校をせかす。

「わかってるから、くそぉ」

 足で目覚ましを止め、テルハはベッドを出た。身体のあちこちの関節が鳴る。動きは重い。パンツに手を突っ込み、尻を掻きむしりながら洗面所へと向かう。鏡に映った自分。瞼の上には三重の線ができている。しかも大きな目くそ付き。だがそんな事よりこの顔色の悪さと言ったら。深い隈のせいか、とても十三歳とは思えない。

 大きなため息を漏らしながら顔を洗う。冷水で少しは引き締まるといいが。テルハは自室に戻り身支度をこなした。


 リビングにはもう父の姿があった。

「テルハ、皿くらい洗っといてくれ。臭くてしょうがない」

 父は手を止めず、目も合わせないで言った。

「時間があったらやるよ」

「あるだろ、学校終わったら」

「かもね……」

「かもねじゃあないだろ」

「はいはい……」

「テルハ!」

 父はやっとテルハに顔を向け言った。

「朝からもめたくない。やっといてくれよ、いいな」

 数秒間の沈黙の後、テルハは「わかったよ」とだけ答えた。それを確認した父は家を飛び出した。

 この家庭の中に挨拶はいつの間にか消えた。せわしい父、そしてテルハ。二人の仲は良好とは程遠く、溝は深まるばかりだった。

 キッチンには今にも虫がたかりそうだ。山積みになった食器に空き缶のタワー。ゴミ箱はあふれかえっている。家庭に必要不可欠な存在がいない以上こうなることは仕方ない。

 テルハはトーストをかじり、リュックを背負うと玄関のドアを開けた。十月半ば、シャツ一枚では少々寒気がする。だが天気は絶好調。雲一つない空は街の人々の心を穏やかなものにしていた。

「おはよう、ヨセユキ爺さん」「おはようさん」

「あなた、行ってらっしゃい。やっぱ待って!もう一回キスして」

「よーし、アンナ、学校でもいい子でいるんだぞ。じゃぁ、行ってきます」「行ってらっしゃい!」

 街の声は賑やかである。それはここの建築物にまで影響しており、住宅はすべて赤茶色のレンガで出来ていて、太陽が沈んでも空光りしそうなほど情熱的に染まっている。石を均等に敷き詰めたタイルの上をルンルンと子供たちがスキップをして通る。

「おはよ!カイト!」「おはよう、ユリ」

「おはよう、元気なちびっこたち」「おはよ!おじいちゃん!」

「あ、運動着忘れちゃったよ」「馬鹿だなー。今ならまだ戻れるよ」

 中には泣き叫ぶ子も。

「やだよ!ママ!行きたくない!」「何言ってるの、元気な子は学校へ行くのよ、さぁ!」

 とにかくいたる所から声が飛び交う。家族の声、友人の声、仕事の声、挨拶。唯一の経済成功区であるこの街アーカベルは明るい兆しを呼び込むために声を上げるのだ。

 この空気に触れないためにテルハはわざわざ裏道を行く。足元には鼠が這いずり回り、昨晩の残骸を探し回る。軽く走るたびに枯れ葉が渦を巻く。彼は雑草が絡むフェンスをまたぎ、角を曲がると再び路地に入った。今度は猫が鳴きながら綺麗なガーデニングの上をお構いなく歩いており、テルハと目を合わすとひょいっと姿を消した。家から飛び出たパイプをすいすい避け、大通りへと顔を出す。この道は“恵の道”と呼ばれておりここを通らないと学校へはたどり着けない。この大通りの由来はそのままでここに来れば欲しい物は何でも揃うからだ。サンドイッチが食べたければ北に少し進めばいいし、服が欲しいなら「エドメイジ」のファッションストアを訪ねればいい。髪が切りたくなったら突き当たりにある噴水前のバーバーサロンだ。フィフティフィフティの確率で思い描いた髪型に仕上げてくれる。

 だがテルハがここに来たのには登校以外にもう一つ理由があった。

「テルハ!また寝坊したの?遅いよー」

 郵便局の側から手を振る少年。彼はニット帽を深く被り、カール癖のある前髪を飛び出させている。

「今日は時間通りのつもりだったんだけどな。ごめんごめんマルヒコ」

「急がないと、門閉じられちゃうよ」

 二人は大通りを早歩きで行く。ミツイマルヒコはテルハの同級生で所謂親友にあたる。テルハより指一本背が高いにも関わらず、体重は赤子一人分軽い。骨ばった見た目を隠すためにいつだって長袖を着てくるのだ。

「しまった、今日数学課題あったよね?持ってきたかな……」

「あるよ、きっと。だってマルヒコだもん」

 マルヒコは手提げ鞄をを探る。

「あった!よかった……」

「ほら見ろ。そーいえば数学、テストもあったよね」

「そうなんだよ、そう!あれ出来るか心配だな……家で四回しか解いてこなかったし」

「四回?そんなにやったのか?」

「あぁ、でも朝やってこなかったから不安だな」

 マルヒコは再び手提げの中を見る。取り出したのはワークブックだ。

「もうさすがにできるだろ、おれなんて一回しか解いてないのに」

「寝てる間に忘れちゃってるかもしれないし」

 テルハは時々マルヒコの異常なまでの心配性に不安を覚える。彼は自分で自分の生活を窮屈にしているように見えてならないのだ。逆をつけばそれだけ真面目ということだろうか。いや、それだけ自分に自信がないのか。

「そんなの見ながら歩いてたら遅刻するかも」

「わかってるけど」

「それに学校まで走って行って、教室の席に座ってさ、ゆっくり勉強した方がいいと思うけど?」

マルヒコはうーん、と唸り、ニット帽を深く被り直す。これは彼の癖だ。マルヒコは頭のてっぺんにある二つのつむじを気にしており、いつもニット帽を被り禿隠しとしているのだ。テルハから見る分にはどこも剥げているようには見えないのだが。

「わかった、そうしよう」

 マルヒコはワークブックをしまった。二人は走り出す。最初こそ同じスピードだったが、時間と共に徐々に二人の間隔は開いていった。

「急げよ、マルヒコ」

「わかってる、わかってるけど……待って!」

 テルハはずば抜けて運動ができたわけではないが、足にだけは自信があった。それに比べマルヒコは運動音痴もいいところ。何をやってもすぐにばててしまう。

「早いよ!テルハ!」

「だって勉強したいんだろ?急がないと」

 もう十メートルは離れてしまっている。テルハはやっとスピードを落とした。

「テルハは早いんだから……ペース合わせてよ」

「ごめんごめん」

 二人が学校へ着いたのは始業時間の五分前だったが、まだ気が抜けない。なぜなら教室までの道のりが遠いためだ。

 アーカベル統一学堂。ここは六歳から十七歳までの少年少女、約三万人が学ぶ場だ。敷地内には学年別で運動場があり、また広大な畑までついている。校舎もいたるところにあり、もちろんすべて赤いレンガ造りだ。

 ご立派な門構えを抜け最初に見えるのが職員室と学長室の建造物だ。建造物と言ったのはこれが神殿のような形をしているためだ。いくつもの柱が建物の側面に立ち、そこには歴代の偉人の名前が刻み込まれている。中でも一番太い支柱に刻まれているのはこの街を形成したといってもいい、ハシバ トウゾウの名である。この柱だけは細かい装飾もされ、顔の彫像までもが彫り込まれている。この神殿の横には自転車置き場があり、約千台が駐輪できる。職員は自分の担当クラスには自転車で向かうのだ。

 ここは住宅街より遥かに騒がしい。声と声とが重なり悲鳴に聞こえる。

「いいよな、去年は校舎すぐそこだったのに」

「マルヒコ、早く!」

数千人が遅刻を免れるために入り乱れる。なんとかクラスへと着いたと同時に始業の鐘が校内に鳴り響いた。


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