灰溜まりの子どもたち
@JohnnyBlack
プロローグ
2000年 10月10日
この世界は1905年から時間が止まったも同然だった。
おぼつかない足取りで路地を進む一つの影。息は切れ切れ、壁に寄りかかり一歩一歩進んで行く。ハンダという男はある目的地に向かっていた。
スモッグをかき分け大通りを横切る。この町が吐き捨てた煙で視界は数十メートルがやっとだった。
身体が熱い。汗が垂れる。滲み出るそれを拭き取る。まだ俺は生きている。
ハンダはナナフシのような手を一杯に振り目的地に一直線。
微かに感じる。俺の鼓動。前にこんなに早まったのはいつだろう。
目的地は視界が教えてくれる。少しばかりスピードを速めた時、ハンダは口を押え咳き込んだ。二回、三回。咳は止まらない。血も混じっている。これはこの町が吐き捨てる物の代償だ。もう長くは持たない証拠。
あと少しだ。あそこに着けば。
道の脇に座り込む老人達がハンダを見上げる。彼らはハンダの様子を見て口々に言う。
「今日は多いねぇ」「よくない、よくない」「かわいそうなこったい」
ハンダは聞く耳持たず通り過ぎる。彼はまるで光を求めてさまようハエだった。幾度も夢見た光の世界。煙のない澄んだ世界。
俺は向かう。素晴らしい世界に。彼女が導いてくれる。
ハンダは足取りを軽くした。この男の人生は語るほど派手でもなく、波があったわけでもない。彼はただ普通が欲しかった。温かい家庭。最愛の妻。はしゃぐ子供。今となってはすべて消えた。残されたのはただ一人。
ハンダは薬指を撫でる。変色した指輪が僅かに輝きを取り戻した。
「待っていてくれ。直ぐ向かうから」
震える指にキスをし、ハンダは進む。いつの間にか道幅は広くなり道路の縁も確認できなくなった。ゴールが近づいてきているのが感じられる。
俺は人生のレールをえらく昔に脱線した。だが、新しいレールをついに見つけたのだ。俺はまだ行ける。錆びついていてもまだ走れる。回転するのだ。
道に傾斜がつき始め、足元がふらつく。かろうじて転倒を防ぎ次の一歩を踏みしめる。ハンダ再び咳き込み、視界をふらつかせるが、上へ上へ。山頂はもう目の前。
だがついに膝を落としてしまった。口から血と唾液の混合液が線を引く。
あと少し……。あと少し。
ふと目を横にやると大きな影が地面にへばりついているのが分かった。煙でよく見えない。重い身体を引きずり顔寄せする。ハンダは思わず鼻を潰した。
これは死体だ。
身体をくの字にし息絶えている。腹からはまだ血が滴っていた。
ここで終わるわけにはいかない。
ハンダはゆっくり立ち上がり、前へ進む。今まで気づかなかったが道路にはあちこちに影が転がっていた。大の字に倒れる者、膝立ちで力尽きている者。そして小さな死体。
気力の限り坂道を昇る。もうかなり上がったはずだった。口に手をやりむせた時、一筋の光がハンダを照らした。
「おい、そこのやつ!これ以上登ってくるな!」
ハンダは固まった。俺の求めている光ではない。目の前には高さ十メートル程の城門が見える。その上部からライトを当てる人影。光が強くてよく確認できない。
「黙ってUターンしろ!そうすれば何もしない」
人影の声はえらくごもっている。マスクをしているようだ。
「い……行かせてくれ、もう少し」
ハンダは直後に吐血した。
まだだ。まだ走れる。レールは続いている。せめて新鮮な空気を俺に……。
「もう一度言う!ここから立ち去れ!」
辛うじて見えたのは銃口。こちらに向いているらしい。ハンダは再び指輪をさする。
「マリナ……ケイタ……行くよ、俺も行くから……」
ハンダは前に進んだ。同時に重い音が道に共鳴した。ハンダは地面に顔をつける。
おかしいなぁ……腹が冷たくなってきた。指先の震えが止まらない。止まるどころか次第に激しくなっていく。腰に力が入らない。まて、俺の腰は今どこにある?感覚が……。
ハンダは指輪を見つめる。涙が止まらない。
「マ……マ……ァリ……ナ……きれいな……くう……き……ぃ」
ハンダは終点に降り立った。レールはもう使い物にはならないだろう。
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