2-3 忘れたい過去

 キースが遺してくれた、愛する兄弟たち――。ジェラールは、ここ数日の気だるさが、寂しさからきたものであったことにようやく気がついた。

 カキドが、申し訳なさそうに目を伏せる。


「ジェロア。あなたがあの人に近づきたいのは、よくわかってる。でも、ううん、だからこそ、僕が口うるさくならなくちゃいけない。あの人はすごい人だったけど……絞首台にまでついて行かせるわけにはいかないんだ」


 〈あの人〉――カキドのよそよそしい呼び方に、ジェラールは眉根を寄せた。

 この七年間、誰もが、前支部長キースの名を口にすることを避けている。ジェラールの手前、というだけではないだろう。



 かつてのフラメリア支部は、親一般民派のキースの下、親一般民の立場へと近づいていた。それが、支部が一般民に襲われ、キースが絞首台に吊るされた七年前の襲撃事件を機に、激しい反非魔術師主義へと方針を変えることになった。


 当時、なんとか逃げ延びたフラメリアの魔術師たちは、一般民に打ち勝つ日をただ夢見て、支部の再建に取り組んだ。師を奪われたジェラールもまた、その希望に縋った一人だった。

 一般民の攻撃により失われてしまったフルーレリア支部のように――他支部、あるいは遠いアルベリア本部に吸収されてもおかしくないような状況の中、一般民への憎しみだけが、フラメリアの魔術師たちに希望を与えてくれた。



 支部を立て直す過程で、ジェラールは、支部員に武器を持たせ、あるいは戦うための魔術を学ばせた。拠点は一般民の襲撃を想定した構造にし、支部の全ての者たちに、いつか来る戦いのための生活を送らせた。

 現在のフラメリア支部は、一般民への憎悪そのものだ。

 一般民との共生を望んだ過去は、支部にとって、忘れたいものだった。その過去を作り上げた者でありながら、その過去に裏切られて死したキースの名もまた、しだいに口に出されなくなっていったのだった。


「大丈夫、わかってる。お前が、軽い気持ちでこんなこと言い出す奴じゃないってこともな。……いつも嫌な役目ばっかり負わせて、悪いと思ってる。俺は平気だから、あんまり気にするなよ」


「はあ……。なんでそう、物わかりが良すぎるかなあ。もっとわがまま言って、だだをこねてくれてもいいんだよ?」


 カキドは、わざとらしくため息をつき、机にしなだれかかる。

 芝居がかったしぐさで茶化すような言い方をしたものの、その眼差しからは、今の言葉が心からのものだったことが伝わってくる。


 飄々としているカキドだが、ジェラールに関することとなると、いきすぎた心配性を発揮することがあった。

 そんなときの彼女が選ぶ手段は、必ずしもジェラールの意思を汲んだものではない。どちらかと言えば、我が子がただ生きていてくれればいいと望む母親のそれに近いだろうか。


 だが、カキド自身としても、良心が咎めるところはあるらしい。

 魔術師特有の精神の触れ合いを通じ、葛藤が透けて見えるようだ――ジェラールは彼女を哀れに思うと同時に、彼女に苦悩を強いずにいられない自分の身を顧みて、いたたまれなくなった。

 


 少しの沈黙の後、カキドが長いため息をつき、「あのね」と切り出す。


「気持ちを固めてくれたところ、言いにくいんだけど。部屋からまったく出るなっていうのは、ちょっと極端すぎたかなって思ってて……。その、ね? あなたに無理をさせるのは本意じゃないし、だからって、あまりうろうろされても困るし……」


 カキドは、はっきりしない言い方をした後、きょとんとしているジェラールを見て、もどかしげに声を張り上げる。

 

「ああもう、鈍いなあ! 部屋から出てもかまわないって言ってるの! もちろん、いつだっていいわけじゃないよ。一日に何度かに限り、僕を傍につけておくことが条件だ。今日も、その迎えを兼ねて来た」


 これを聞いて、ジェラールは顔を明るくする。

 カキドが極端すぎる判断をした事案について考え直してくれるとき、大抵、原因は共通している。


「ライナルトか?」


「……うん。〈外出禁止なんて、さすがにやりすぎだろう〉ってさ」


 ジェラールの予想通り、カキドの方針変更は、ジェラールのもう一人の親しい兄弟分――ライナルトの提言によるものらしい。慎重なライナルトなら、言ってくれそうなことだ。



 フラメリア支部・指導員長、ライナルト。彼は、カキドの直接の部下であり、支部員をとりまとめる指導員の長として支部の風紀を担う、ジェラールの兄貴分だ。

 互いに立場はあるが、キースの遺したものを受け継いだ三人は今でも、上下なく額を付き合わせて意見を交わす仲だった。


 ライナルト自身の報告は、カキドを通じてジェラールのもとまで届けられるため、忙しいライナルトが執務室にやってくることも、ひとところにとどまっていることも、ほとんどない。

 多忙なライナルトを気づかい、顔を合わせながらも会話を手短に済ませてきたジェラールだったが、執務室から動けなくなり、それまでライナルトとじっくり話をしなかったことを悔やんでいた。


 今のジェラールは、頼れる部下である以上に、どんなときにも――七年前の、切羽詰まったあの時でさえ――ジェラールの意思をないがしろにすることのなかった優しい兄であるライナルトを恋しく思っていた。


「礼を言わないとな。ちょうどいい。ライナルトとも、ちゃんと話したいと思ってたんだ」


「何それ、僕の顔は見飽きたってこと?」


 ジェラールは、カキドの冗談にからからと笑いながら、執務机のそばに立てかけてあったT字の杖に手を伸ばす。



 七年前の襲撃事件の際に怪我を負って以来、ジェラールの右足は、うまく動かなくなっていた。立つことはできても、杖がなければ、歩くこともままならない。

 この障害のために、まだ幼かったジェラールは不便を強いられ、好きだった剣の修練もやめなくてはならなかった。

 だが、師を失ったことにくらべれば、体の問題など、どうということはない。ジェラールはめげることなく自分の足で兄弟たちを訪ねて回り、懸命な姿で皆に希望を与えた。持ち手の汚れた杖は、その勲章だった。



 ジェラールは、歩行杖を取り、器用に立ち上がる。

 急く心に体がついていかず、不自由な右足が本の塔に引っかかった。足元で本の束が崩れるも、ジェラールは気にも留めない。


「もう出ていいんだろ? なあ、早く行こうぜ。仕事なら後でちゃんとやるからさ」


 ジェラールは、崩れた本の山を慣れた様子で乗り越えながら、カキドに声をかけた。彼の背中は、カキドの答えを待つことなく、さっさと執務室の外に消えてしまう。


「やっぱり、平気じゃなかったんじゃない」――取り残されたカキドは、小さくぼやいた。

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