第23話 守護神霊、御大の顕現

  

  結界はってる御大おんたいは、つよくてこわい水神霊すいしんれい

  だれか真名しんめいよんだなら、なにがおきるかわかりません。

   

  お怒りかえば、渦まく、霧でる、ひょうがふる。

  お許しなくば、洪水、豪雨に、津波まで。 


  新河岸ぜんぶが、つぶされて、なんにものこらず、海のなか。

  それがいやなら、みんなして、守護聖人に、いのりましょう。


                     ――新河岸 唱歌しょうか――



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 前世の記憶だって?  もちろん、あるとも。

 倫子は認めるつもりだった。〈再来者〉だの〈転生者〉だのと、宗教的なくくりは抜きにしても、前世の記憶を保持していることだけは、厳然たる事実なのだから。それに、安堵とともに、告白してしまいたいとも思った。倫子がおちいっている特異な状況を理解してもらいたくて。この有能そうな審問班のメンバーに話さずして、一体他の誰に話せるだろう。

 ところが、前世について説明しようとしても、やはり口が動かなかった。更に相前後あいぜんごして邪魔が入った。廊下を走ってくる複数の足音が、大きくなりながら近づいてくる。そのただならぬ気配に、全員の関心が部屋の外に向いたのだ。すばやく扉を開けに動いたのは、フットワークの軽いジャレンリーだった。

「どうした、何か動きがあったのか」

 ぞんざいな言葉つきから察するに、扉の影にいるのは、ジャレンリーの部下らしい。

「高峰屋から出火しました!」

「海風が強まっています! 物凄い火勢かせいで、火消ひけしにも、手が付けられない状況です!」

「このままでは、四丁目一帯が火の海に! いや、新河岸全域が危険かもしれません!」

 興奮して、上擦うわずった声の報告が続く。

「落ち着け! オタつくんじゃない!」

 ジャレンリーは、一喝いっかつして黙らせると、矢継やつぎばやに指示を出し始めた。

「ダハン、領民の避難誘導にあたれ。風下に向わせるんじゃないぞ。北と南に逃がせ。グレザリオ、お前には、火消しの監督を任せる。決して無理はさせるな。四丁目は犠牲にしてもいい。建物を打ち壊して、延焼えんしょうを食い止められないか、やってみろ。エオーク、お前は、高峰屋の関係者の身柄を確保しろ。家族、使用人。出入り商人。捜索中に不審な者を見かけたら、片っ端から引っくくれ。その連中が持ってる物は、全て押さえておけ。俺は四室に戻って、情報の取りまとめにあたる。報告は半刻ごとに。手に負えなくなったら、すぐに伝令を走らせろ。何か質問は?」

「本院や学院へは、応援を要請しませんか」

「それは俺の方でやる。自分の仕事に専念していろ。いいな。よし、気張きばって行け!」

 『おう!』と気迫のこもった掛け声がして、駆け足が遠のいていく。今度は、心なしかしっかりして、足音が乱れていないようだ。

「セイギ様。各院に応援を要請して下さい。それと、連絡調整役をお願いできますか」

 振り返ったジャレンリーは、当然のことながら厳しい顔つきで、殺気だっている。

「わかった。特に必要なものはあるか」

「いえ、今の所は。お願いしたいことができましたら、伝令の者を走らせます」

「それより、君の部屋には、瞬動力者を誰か派遣してもらうようにする。非常事態だ。遠慮せずに使え。時間の節約になる」

「有難うございます。大変助かります」

 ジャレンリーは、セイギに向って一礼すると、パレヴァには笑ってみせた。

「パレヴァ様。先程、私は、三毛様よりリンをお預けすると申されて、承ったのですが、この状況です。どうか、彼を無事に三毛様の元へお送り下さい。私の代わりに」

「いいわ。こちらのことは任せて。できる限りの手を打つから。気をつけてね」

「はい。よろしくお願いします」

 最後に、ジャレンリーは倫子を見つめた。真剣に。何かを伝えたそうに。

 それから、えて冗談まじりの口調になって言った。

「リン。先程の話の続きは、俺のいない所でしないでくれよ。俺としても、聞き逃したくはないからな」

「はい。あの、私にでも、お手伝いできることが、何か……何か一つくらいありませんか」

「あるさ。祈ってくれ」

「え?」

「新河岸の〈御大〉、聖リンフジカの守護霊にだ。俺たちには、消火のための水が、即刻大量にいる。雨が降れば、一番手っ取り早くて、非常に助かるんだが。この際、贅沢は言わない。危険も承知だ。とにかく祈ってくれ」

 陽気な感じで、そう言い放つと、ジャレンリーは部屋を飛び出して行った。

「今のは、冗談……ですよ、ね……?」

 無神論者に、祈ってくれとは、これ如何いかに。戸惑う倫子に、セイギが『愚か者』とでも言いたげな視線を投げてよこした。

「冗談な訳があるまい。今のこの危機的な状況で。切実な願いに決まっているだろう」

「でも、祈ると言っても、どうやって……」

「それはパレヴァに聞くといい。私は、私自身が依頼された仕事に取りかかる」

 セイギは部屋の反対側に行くと、審問に使っていた椅子に座り込んだ。両手でこめかみを押さえて目を閉じ、微かに唇を動かし始める。

「祈っておられるのですか」

 セイギにはそぐわない感じがして尋ねると、パレヴァは、ひそひそ声になって言った。

「理教徒は、人前では祈りませんわ。あれは〈遠話えんわ〉というものです。セイギは、遠くにいる者と連絡を取れる〈中巽門ちゅうそんもん〉の神通力者なのですわ。彼の集中を妨げないように、私たちは部屋を出ましょう。そう、屋上に上がってみませんか。あそこからなら、四丁目の様子が一望できますので」

 パレヴァにうながされて、倫子はついて行くことにした。それにしても、今度は神通力ときた。タムシラキも、超能力についてはよく知らなかったようで、えんわだの、じょうしんもんだのと言われても、情報が浮かび上がらない。霊能力についても同様だ。雨乞いの儀式とか、祝詞のりとのような祈りの言葉とかあるのだろうか。

「パレヴァ様。〈御大〉に祈ると言うと、何をどうすればいいのですか」

「どうか、お急ぎにならないで下さい。守護霊を招請しょうせいするのは、最後の手段なのです。ジャレンリーは、危険は承知だと言い切りましたが、本当の意味では全くわかっていません。ただ、破れかぶれになっているだけです」

 パレヴァと廊下を歩いていくと、階下からドタバタと人の走り回る音が聞こえてきた。怒鳴り声や泣き叫ぶ声も。ここでは非常ベルは鳴らないが、パニック寸前の様相ようそうていしていることが、肌で感じられた。危機的と言われても、ピンときていなかったが、これは火災訓練とは違う。まさしく非常事態で、全員が命の危険にさらされ怯えきっているのだ。

「聖リンフジカ。虹霓教の霊能力や守護霊については、どの程度ご存知ですか」

「ほとんど何も知りません」

 やっぱりという風に溜息をつきながら、パレヴァは扉の一つを開けた。そこには、上に向う狭くて急な階段があった。

「私には、セイギのような講義はできませんので、ごく簡単にお話しいたします。わからない点は、後日、セイギにお聞き下さい」

 そう前置きすると、階段を上がりながら、パレヴァはゆっくり説明を始めた。

「虹霓教徒には皆、なにがしかの守護霊がついています。その守護は、基本的に、母から子へ受け継がれていくものなのですが、霊というものは千差万別で、その霊力の強さもいろいろです。弱ければ、祈っても何も起こりません。強いと、逆に、望む以上のことが起きてしまうのです。私のような霊能力者は、実際に霊力を感じ取れますし、馴染みのある霊ならば招請することもできますが、その後は、成り行きまかせになります。霊が何をするかわからない。どこまでできるかもわからない。わかっているのは、一旦、解き放ったら、何が起きようと途中で止めるすべはないということだけです。怖ろしいと思われませんか」

 階段を登りきったところに、もう一つ扉があった。その重い扉を押し開けると、ムッとした、きな臭い外気が流れ込んできた。

「貴方様の守護霊は、圧倒的な力をもつ大神霊〈御大〉です。あの放水路をご覧下さい」

 パレヴァが指し示したのは、十メートル以上幅のある川だった。蛇行せずに一直線に伸びているところを見ると、人工的なものらしい。

「昔、このあたりは、嵐が来る度に荒神川が氾濫はんらんして、浸水を繰り返していたのです。聖リンフジカが守護霊を招請して、あの天狗山脈の麓から海にかけて、大規模な水路を通すまでは。伝えられるところによると、それには、半刻もかからなかったそうです。そして、その間、前もって避難させたにもかかわらず、生じた地震と津波によって、亡くなった者は、百名を下らなかったとも言います。その後、堤防を築き水道工事も進んで、今では、新河岸は、他の土地よりも発展しております。住民の数は、およそ三千七百名。火事で失いかけている命と、霊力で失いかねない命。どちらの方が被害が大きいか、前もって知ることはできません。ある意味、祈りは賭けなのです」

 かなり遠くで、黒い煙が立ち昇っている。見える範囲では、火の手が上がっているのは、三ヶ所。ここには、どんな消火能力があるのだろう。消防車などありそうにないし、バケツリレーくらいでは、焼け石に水だ。

「今しばらくは、様子を見ましょう。恐れていたより、火の回りが早くはないようです」

 パレヴァが、心許こころもとなげに呟いた。本気でそう思っているのか、思いたいだけなのか。ただ惨事さんじを見ているのが、居たたまれないので、倫子は、事件に話題を振り直した。

「高峰屋からの出火と言っていましたね」

「えぇ、間違いなく、放火でしょう。〈竜殺し〉の痕跡や他の証拠を消すために。そう言えば、あの家について、これまで調べたことをお話ししていませんでしたね」

 半ば上の空という感じであったが、高峰屋の疑惑について、パレヴァが話し始めた。


 高峰屋は、皮問屋の老舗しにせで、渡し船に乗っていた幼い友子の家だ。その当主は、友子の生母で、事故で助かった勝子の同母姉にあたる。

 勝子は、六人いる兄弟姉妹の中で唯一の聖女だったため、店を継ぐべき嫡女として育てられたのだが、年頃になって、虹王領の武家から是非にと望まれて、嫁入りすることになった。嫁ぎ先は、川向こうにある北上領の城主で虹霓教徒。しかし、時は戦国。お定まりの家督争いと下克上の騒動から、一年もたたないうちに殺されてしまった。その時、妊娠していた勝子は、新河岸に逃げ戻って秘かに出産。生まれたのは男獅子で、本来であれば父親の正統な跡継ぎである。しかし、現実は暗殺されかねない立場なので、勝子は息子を連れて、幼馴染みの男と再婚した。その相手が、塩問屋、潮屋の当主である。その後、北上城では再び政変があり、新城主は、勝子の幼い息子を養子にとった。それには、高峰屋からかなりの賄賂が動いたと思われる。だが、その頃、高峰屋は、資金繰りに行き詰まって、潰れかけているという噂だった。では、そんな大金をどうやって捻出ねんしゅつしたのか。


「つまり、〈竜殺し〉の密売をしていたと?」

「証拠はありません。先程、証言を伺うまでは、疑いを持っていただけなのです。恐らく、あの後、ジャレンリーが捜査を指示したのだと思いますが、一歩遅かったようですね」

「では、聖女狩りとは、全く何の関係もなかったのですか」

「いえ、そちらも、恐らく、高峰屋、もしくは潮屋の勝子が、情報を流していたものと思われます。どの家に何歳の聖女様がいるか。いつ、どのような用で外出するか。石店であればこそ、知りえる情報が多いのです。采配さいはいを振っていたのは、北上城かもしれませんが、あくまで同罪です。誘拐した聖女様は、幼い者ばかりですから、恐らく、有力者に養女として献上されたのでしょう。武家の教育をほどこし、将来は血筋の良い子を得るために政略結婚させるつもりで。この上なく卑劣な行為、本当に許しがたい犯罪ですわ」

「それは、勿論、確かにそうですが……。だとすれば、えーと、つまり、今回の転覆事故に関しては、あくまでも事故だったと?」

「その点については、まだわかりません。ただ、不自然なことが、いくつかあります」


 あの日、北上領では、勝子の息子の守役の伯父の葬儀があった。それに参列するために、高峰屋から、勝子とその兄が出向くのはわかる。だが、なぜ、幼い友子まで連れていったのか。しかも、子守女中と用心棒の二人しかつけずに。北上城では、いくらでも武士の護衛をつけられたはずなのだ。更に、事故の際、船頭は、勝子一人を助けあげた。同じ聖女だとしても、小さい子供の方を助けに動くのが、救出時の暗黙の了解であるのに。そして、舟がひっくり返る直前、叫び声をあげたのが、友子ただ一人だという事実。


「自作自演の誘拐劇だったということですか」

「それも、まだ推測しているだけです。でも、姪の友子を殺すわけがありませんし、襲撃犯も全て亡くなったことを考え合わせると、計算違いの事故になったのではないかと思います。渡し舟が転覆する時、霧が立ち込めていたと言われましたでしょう? それは、間違いなく〈御大〉の霊力です。結界内に邪気が溜まると、霧を出して散らされるものですから」

 パレヴァが、事もなげに超常現象について語っていた時、下の方から叫び声がした。

「パレヴァ様!」

 どこかで聞いた声だと思って下を覗いたら、鐘付番の夜叉が、必死に両手を振っている。

「どうしたの、セシム?」

「三毛様が、御奉仕に行くと言って、あちらの方に走って行かれたんです!」

 セシムが指さしたのは、火の手の上がっている方向だった。

(何それ。悠ちゃんが、火事の現場に向ったっていうの? 冗談じゃないわ!)

 倫子はぞっとして、思わず怒鳴りつけていた。

「どうして、止めなかったんだ!」

「と、止めようとしたんですよ。でも、あっという間に、すっ飛んで行かれちまって」

 ぐだぐだ弁解を聞いている場合ではない。

(悠ちゃんを探し出して、守らなくちゃ。今度こそ、死なせたりしないから!)

 頭に血が上った倫子は、よく考えもせず、無謀にも屋上から飛び降りていた。セシムの立っている地面の脇めざして。着地の瞬間、ズッシンと物凄い地響きがしたが、タムシラキの頑丈な両足は、その衝撃を踏ん張って持ちこたえた。

「どこへ行くと言っていた?」

 礼儀も配慮も投げ捨てて、セシムの襟首を締め上げんばかりに、倫子は問いつめた。

「な、何も言われませんでした。でも、た、多分、に、二丁目の施療所あたりかと……」

「わかった。もう、いい」

 セシムを当てにしても無駄だ。自力で見つけるしかない。

 倫子は、セシムを解放すると、悠が向ったとおぼしき方角へ、闇雲に走り出した。どうせ、新河岸の地理などまるっきりわからない。施療所の構内図すら、把握してなかったのだ。行ったことも、見たこともない場所に辿りつけるわけがなかった。だが、それでも、悠のいる所ならば探しだせる気がする。『この世』から霊界を越え、『あの世』まで悠を追って来られたくらいだ。高々たかだか三千数百名しかいない狭い領内で、見つけられないはずがない。

(ううん、何としても、見つける。絶対に、見つけてみせるわ!)

 院の広い裏庭から道路に出ると、避難民でごった返していた。大荷物を抱えた者。大袋を満載にのせたリヤカーをく者。赤子を背負い、幼児の手を引く者。まさしく、パニック映画そのもの、阿鼻叫喚あびきょうかん喧騒けんそうだった。そして、人波はこちらに向って押し流されてくる。幸いにして、タムシラキは、抜きん出た長身なので、視界を遮られることはない。倫子は流れに逆らって、遮二無二しゃにむに突っ切って行った。そうやって、進めば進む程、煙は濃くなり、空気は熱を帯び、悪臭が鼻に突き刺さってくる。薬草を煎じる臭さの比ではない。こちらは、火葬場に染み付いた絶望の臭い。人の髪や肉が焼き焦げる臭いだった。

 吐き気をこらえながら、どのくらい進んだだろう。

『兄ちゃん!』

 突然、アンヤンの声がした――気がした。

 薬草室の時と同じように、何処からともなく現れて、手をひいて行ってくれるような錯覚に陥る。立ち止まって、周りの顔を眺め渡したが、あの愛嬌のある顔は見つからない。背が低く華奢だから、埋もれてしまっているのか。

『兄ちゃん!』

 空耳かと思いかけた矢先、もう一度、聞こえた。今度ははっきりと。だが、肉声ではない。臭いだ。アンヤンの体臭がして、呼ばれているような気がするのだ。

 倫子は、鼻を頼りに道端に寄って、店と店の間にある狭い路地の中へ、分け入って行った。そこは、細い水路の上に石板を被せた水道になっていて、本来、人が歩く道ではないようだった。タムシラキの巨体では、真っ直ぐに歩くことはできず、蟹の横ばい状態でそろそろ進む。鰻の寝床のように、やたらと奥に細長い建物だったが、やっと、店の裏手の庭に出ると、奥にポツンと土蔵のようなものがあった。小さな高窓には格子がはまり、観音扉を外から大きな角材で押さえて、かんぬきとしている。どうにも怪しげな雰囲気だ。

 倫子はあたりに人気がないことを確かめてから、高窓に近づいた。背伸びをすると、大小幾つか人影が見える。薄暗くてぼんやりとした形だけだが、体臭からすると間違いない。アンヤンは、ここにいる。倫子は中に向って囁いた。

「アンヤン?」

 身じろぎする音がした。が、答えはない。

「そこにいるんだろ、アンヤン」

 一拍おいて、今度はアンヤンの声がした。

「に、兄ちゃん?」

 信じられないという感じの泣きそうな声で。

「あぁ、私だ。どうした? こんな所で。誰かに閉じ込められているのか」

「そうだよ。見れば、わかるだろ。ハバハバ、出してくれよ」

「わかった。ちょっと、待ってろ」

 倫子は、入口の方に回りこみ、観音扉の真ん中にある角材を抜いて、脇に置いた。それから、重い扉を開けると、アンヤンが飛びついてきた。倫子は震える身体を抱きしめてやった。強がってはいても、相当怯えているようだ。

「手を怪我したのか。でも、火の手がそこまで来てるんだ。何とか頑張って走れるな」

「うん。けど、おじ上が……」

「おじ上? 他にも誰かいるのか」

「母ちゃんと、弟のレンヤン」

「とにかく連れ出そう。ぐすぐすしている暇はないぞ」

 そう言って、アンヤンの叔父を抱えあげようとしたのだが、すで事切こときれていた。いや、側に近づく前から、息のないことがわかる。血まみれで、拷問でも受けたような有様だ。

「アンヤン、残念だが、おじさんはもう……」

 アンヤンも、わかってはいたらしく、唇をかみ締めてうなだれた。可哀想に思ったが、ゆっくり泣かせてやる余裕はない。

「しっかりするんだ、アンヤン。さぁ、早く! お母さんと弟を守って連れて行け」

「兄ちゃんは?」

「私は、ちょっと、人を探しているんだ」

「うしお屋の勝子さま?」

 予期せぬ名前が出されて、倫子はギョッとした。何故、アンヤンがその名前を口にするのか。まさか、一件にかかわっているとか。

 倫子の疑いの眼差しに傷ついたのか、アンヤンが肩を怒らせてぶんぶん首をふる。

「ちがう! おいら、兄ちゃんを売ったわけじゃないよ。ぜったい、そんなことしてない。ただ、おじ上が、死んだ父上のかたきを討つのに、手を貸せって言うからさ。知ってることを話したり、お使いに行ったりしただけで。勝子さまもおじ上のお仲間だった。けど、やみぐみの怖い人たちと言いあらそいになって、こんなことに……」

「勝子様が、ここにいるのか?」

「さっきまでは、ここにいたんだけど、どっかに連れてかれたみたいだ。むこうの母屋おもやにいなきゃ、逃げたんじゃないのかな」

「アンヤン、ジャレンリー様の仕事部屋が、どこにあるか知ってるか」

「知ってるよ。四寮四室は有名だもん」

「よし。じゃ、そこへ三人で行って、知ってることを全部話せ。もし、ジャレンリー様に取り次いで貰えなかったら、こう言うんだ。リンフジカに言われて来ましたって」

「――うん。兄ちゃん、聖リンフジカの〈再来者〉だって聞いたけど、ホント?」

 答えにきゅうした倫子を尻目しりめに、アンヤンは嬉しそうにひと合点がてんをした。

「きっと、ホントだね。おいら、兄ちゃんに祈ったんだ。助けてって。ウソみたいだけど、ちゃんと聞こえて来てくれたんだもん」

 仕方がない。そういうことにしておこうと、倫子は苦笑した。

「まぁ、良かったよ。これで、ツケにしてもらっていた分、いくらか返せたかな」

「チッチッ。おいらは、太っ腹だからさ。大マケにマケて、チャラにしてやるよ」

 多少元気を取り戻したアンヤンは、呆然と弟を抱く母親の手を引っ張って、足早に逃げて行った。その後姿を見送ってから、倫子は母屋に向い、建物の中をあらためてみた。しかし、そこは既にもぬけのからであった。正直言って、ホッとした。もしいたとしても、逮捕の仕方などわからないし、そもそも、そんな権限が倫子にあるとも思えなかったからだ。

(それに、別に勝子様を探してるわけじゃないものね。大事なのは、悠ちゃんよ。思わぬ道草を食っちゃったけど、早く悠ちゃんを見つけなくちゃ)

 店の表戸を蹴破って、先程の大通りに出た途端、火の粉を伴った凄まじい熱風

が、吹き付けてきた。見上げると、暗みかけた空が真っ赤に染まっている。周囲には、もう人影がない。怪我人が置き去りにされていることもなく、火消しも撤退した後のようだ。倫子も、来た道を引き返すべく、鼻と口を塞いで走り出した。背中を焼こうと、炎が迫ってくる。まさしく、デッドヒートだ。必死で走っていたため、前方の十字路で人だかりがしているのに気づいたのは、目前になってからだった。

「やめろ! 今更、抵抗しても無駄だ!」

 テノール歌手のように迫力ある低音が響く。同時に、見慣れた長身の赤毛が目に入った。そして、その前方には、更に見覚えのある顔がある。茶屋で凄んできた夜叉の二人組と勝子だった。問題の勝子は、首筋に短剣を突きつけられて、何故か人質状態である。その三人を大きく取り囲んでいるのは、得物えものを持った捕り方と手動ポンプらしきものを担いだ火消し、その他合せて三十数名。道路の向こう側で、仁王立におうだちしているジャレンリーの背後には、アンヤン親子の姿も。

 そして、なんと悠までいる。小柄で人陰になっていたので、気づくのが遅れた。(そりゃ、確かに探していたわよ。いたけど、よりにもよって、こんな一触即発の現場で見つかるなんて……)

 歯ぎしりした時、火の粉が飛んで、悠の頭上にある建物の屋根についた。それが、あっという間に燃え始める。

「悠! 危ない!」

 倫子は絶叫して、悠に向って突進した。驚いたように、悠がこちらを向く。頭上に迫る火の雨には気づかないまま。

 駄目だ。遠すぎる。とても間に合わない。

(お願い、誰か助けて!)

 倫子の必死の願いと重なるように、ジャレンリーの言葉が蘇る。

『とにかく祈ってくれ』

 今こそまさしく、祈るべき時だ。

 だが、どうやって?

(そうよ、守護霊には霊名で呼びかけるのよ)

 何故か、答えがわかった。続いて、霊名と思われる言葉が、どこからともなく自然と湧き出してくる。その長々しい羅列られつを、倫子は端から唱え叫んだ。全力で走りながら。

「エレチャルティガ・ナポリィスリェ・ヴァキニーザフル! 願わくば、水を届け給え!」

 その一瞬、全ての音が消えた。

 火の粉すら静止した。時間が止まったようだった。

 そして、次の一瞬、地の底から、ゴゴゴゴ―ッとダムの決壊したような音が鳴り響く。

 十字路の中央、丁度、勝子の足元の敷石が、メリッと音をたてた。

 道路が陥没し、次いで、火山の噴火の如き勢いで、大量の水が吹き上げられる。 その水圧で、勝子と夜叉一人が、空高く投げ出された。もう一人の夜叉も、衝撃ではるか後ろの壁に叩きつけられる。

 震度5くらいの大揺れが生じ、ほとんどの者が倒れた。悠も倒れ伏し、その上に屋根の一部が落ちようとしている。倫子はホームスライディングをかけ、悠の上におおいかぶさった。四つん這いになって衝撃に備えるのと前後して、堅い物が落ちてくる。背中に、肩に、足に、そして、また頭にも。その上に、滝壺のように水が降り注ぐ。凄まじい奔流に、息がつまる。気が遠くなりかけながら、倫子は一心不乱に祈り続けた。

 ただ一つの願いを。呪文のように。 

(どうか、この子だけは助けて。私から、また奪わないで!)

 そのまま意識を失ってしまったのだろう。次に気がついた時、見えたのは天井だった。そして、倫子を揺り起こしているのは、悠だった。

 その無事な姿を見て、倫子は、腹の底、魂の芯から、安堵を感じた。

「――起こして、ごめんなさい。ちょっと、急ぐものだから。あの……気分はどう?」

「最高にいいよ。君こそ、怪我はないのか」

「私は大丈夫。あなたにかばってもらったから。でも、その……、起きられるようなら、一緒に来てくれる? クレオジが呼んでるの」

 寝床から身をおこすと、そこは板張りの小部屋だった。扉の向こう、隣の部屋には、所狭ところせましと人が横たわっていた。どうやら、民家を臨時の救護所にしたらしい。

 悠の力を借りて、何とか立ち上がった。足元はまだふらついているが、頭はだいぶ冴えてきた。クレオジ院長が、沈痛な表情をしているのが、悪い兆候ちょうこうだとわかるくらいには。

 そして、跪いた院長の前で、横たわっている怪我人の顔を見た瞬間、頭からドッと血の気がひいた。

「アンヤン! どうした、一体どこを痛めたんだ?」

「痛めたとこ? きっと全部なんじゃん。アッチャもコッチャも、すげー痛いや。兄ちゃんは、平気なの?」

 アンヤンは日頃赤ら顔なのに、今は紙のように白い。声もかすれ囁くようで、聞き取りにくい。全身に包帯が巻かれて、相当な重症患者のようだ。

「あぁ。私は、ちょい痛いだけだ」

「へぇ。獬豸っていいよなぁ。でかくって、強くってさ。おいらも、獬豸に生まれて来たかったな」

 アンヤンは激しく咳き込み、大量の血を吐いた。そして、手についた血を見て呟いた。

「――おいらさ、天界には、行けないよね」

「心配しなくていい。もし、天界に行けなくとも、『あの世』には行ける。一から新しく生き直せるんだ」

「また、『この世』に、戻って来られる?」

「ああ、いつか、きっと」

「なら、そん時は、兄ちゃんの子になりたいな」

「何だ、クルクルのとろい親でいいのか」

「いいよ。だって、兄ちゃんが、父ちゃんになったら、してくれそうだもん」

「そうか。じゃあ、おいで。待ってるよ」

「――バイバイ、兄ちゃん。あのさ……」

「……ん?」

「おいら、六つになったんだ」

 それが、最後の言葉になった。

 アンヤンの目を閉じてあげながら、倫子の目から涙が湧き出した。

(私に年齢としを教えてくれたのね、アンヤン。最初は、あんなに怒ったのに……)

 ジャレンリーが教えてくれたことが、まざまざと思い起こされる。

『自分から年齢を告げれば、忠誠とか愛情の証となる。友情という場合もあるが、何れにしても、唯一無二といえる信頼があってのこと。非常にまれで、語り草になるほどだな』

 信頼してくれて嬉しいとは思えない。今は、とても。

 信頼を裏切ってしまったような気がしている。取り返しがつかないほどに。

 あの時、倫子は、悠のことしか考えなかった。悠一人しかいないかのように。

 あそこには、アンヤンと家族がいた。ジャレンリーもいた。勝子や他の人達も。

 見えていたのに、見ようとしなかった。見殺しにしたようなものだ。

 いや、もっと悪いのかもしれない。

 アンヤンは、倫子のせいで、死んだのかもしれない。

 倫子が祈らなければ、助かっていたのかもしれない。

 突然、水が噴き出してこなければ、火事から逃げられたのかもしれない。

 パレヴァのいましめが、今になってに落ちた。

『火事で失いかけている命と、霊力で失いかねない命。どちらの方が被害が大きいか、前もって知ることはできません。ある意味、祈りは賭けなのです』

 倫子は賭けに勝った。ただひとつの願いはかなえられたのだから。

 アンヤンの命を犠牲にして。他のみんなを度外視して。

 更に恐ろしいのは、自分が後悔していないことだ。

 同じ状況になれば、倫子は悠に手を差し伸べるだろう。何度でも。

 他の人がどうなってもいいとは思わない。助けられるならば助けたいと思う。

 それでも。一番大事なのは悠だけだ。

 こんな自分本位な人間、信頼に値するわけがないのに……。

(ごめんね、アンヤン。ほんとに、ごめん)

 この涙は罪悪感だ。アンヤンを喪った悲しみよりも、死にぎわの痛ましさよりも、抑えようのない後ろめたさにさいなまれる。

 嗚咽おえつこらえて、倫子は膝の上で拳を握った。

 震えが酷くなって止まらない。ひずめのような爪が、自らの掌に食い込み、血が流れ出す。

 固く握り締めた手の甲が、上からそっと優しく包み込まれた。涙でぼやけた視界でも、長い爪をした細い五本指の形はわかる。次いで、腕に寄りかかってくる頭の感触。

 とても甘いが重い。そして、何より暖かかった。

 倫子は痺れた指を開いて、悠の肩を抱き寄せた。念願通りに。

 腕の中で、くぐもった声が聞こえた。心の闇を払ってくれる一言が。

「――私を助けてくれて、ありがとう」



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   【 解説/地理と身分の基礎知識 】



1. 虹王国は、十七の州島しゅうとうと多数の外島そとじまからなる火竜列島ひりゅうれっとうを統治している。

 虹王家は、第一州にして最大の本州が直轄領で、これを『虹王領』とも呼ぶ。


2. 第二州島を領地としているのが、女系の予知力者を輩出する神宮家である。

 虹王一世の王妃が神宮一世であったことから、後宮は神宮家が管理している。


3. 第三州から第十六州の各島を領地としているのが、上級貴族である。

 女系の七家と男系の七家があり、領主の子や孫は、虹王都に住んで国政を担う。


4. 第十七州の宝島たからじまと、他の州の霊域全てを管理しているのが斎王家である。

 虹王国は建国以来鎖国しており、外国船が入港できるのは宝島だけである。


5. 王族三家に、文官や武官、代官として直接仕えているのが、中級貴族である。

 中級貴族には、俸給職が多いが、未開地を開拓するために領主となる者もいる。


6. 上級貴族の家に仕えて、その州島に荘園しょうえんを持っているのが下級貴族である。

 下級貴族は、能力があれば、王族に取り立てられて、中級貴族にもなれる。


7. 中級貴族や下級貴族の下で、平民の取りまとめをする実力者を豪族と呼ぶ。

 豪族の多くは、竜眼族の血をひく混血だが、部族長的な立場の異種族もいる。


8. 魔物狩りが専門の士族の頭領とうりょうとして、未開地を実効支配すれば武家となる。

 武家として認められるには、当主が男獅子で、貴族のおやを持つ必要がある。 



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