第23話 守護神霊、御大の顕現
結界はってる
だれか
お怒りかえば、渦まく、霧でる、
お許しなくば、洪水、豪雨に、津波まで。
新河岸ぜんぶが、つぶされて、なんにものこらず、海のなか。
それがいやなら、みんなして、守護聖人に、いのりましょう。
――新河岸
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
前世の記憶だって? もちろん、あるとも。
倫子は認めるつもりだった。〈再来者〉だの〈転生者〉だのと、宗教的な
ところが、前世について説明しようとしても、やはり口が動かなかった。更に
「どうした、何か動きがあったのか」
ぞんざいな言葉つきから察するに、扉の影にいるのは、ジャレンリーの部下らしい。
「高峰屋から出火しました!」
「海風が強まっています! 物凄い
「このままでは、四丁目一帯が火の海に! いや、新河岸全域が危険かもしれません!」
興奮して、
「落ち着け! オタつくんじゃない!」
ジャレンリーは、
「ダハン、領民の避難誘導にあたれ。風下に向わせるんじゃないぞ。北と南に逃がせ。グレザリオ、お前には、火消しの監督を任せる。決して無理はさせるな。四丁目は犠牲にしてもいい。建物を打ち壊して、
「本院や学院へは、応援を要請しませんか」
「それは俺の方でやる。自分の仕事に専念していろ。いいな。よし、
『おう!』と気迫のこもった掛け声がして、駆け足が遠のいていく。今度は、心なしかしっかりして、足音が乱れていないようだ。
「セイギ様。各院に応援を要請して下さい。それと、連絡調整役をお願いできますか」
振り返ったジャレンリーは、当然のことながら厳しい顔つきで、殺気だっている。
「わかった。特に必要なものはあるか」
「いえ、今の所は。お願いしたいことができましたら、伝令の者を走らせます」
「それより、君の部屋には、瞬動力者を誰か派遣してもらうようにする。非常事態だ。遠慮せずに使え。時間の節約になる」
「有難うございます。大変助かります」
ジャレンリーは、セイギに向って一礼すると、パレヴァには笑ってみせた。
「パレヴァ様。先程、私は、三毛様よりリンをお預けすると申されて、承ったのですが、この状況です。どうか、彼を無事に三毛様の元へお送り下さい。私の代わりに」
「いいわ。こちらのことは任せて。できる限りの手を打つから。気をつけてね」
「はい。よろしくお願いします」
最後に、ジャレンリーは倫子を見つめた。真剣に。何かを伝えたそうに。
それから、
「リン。先程の話の続きは、俺のいない所でしないでくれよ。俺としても、聞き逃したくはないからな」
「はい。あの、私にでも、お手伝いできることが、何か……何か一つくらいありませんか」
「あるさ。祈ってくれ」
「え?」
「新河岸の〈御大〉、聖リンフジカの守護霊にだ。俺たちには、消火のための水が、即刻大量にいる。雨が降れば、一番手っ取り早くて、非常に助かるんだが。この際、贅沢は言わない。危険も承知だ。とにかく祈ってくれ」
陽気な感じで、そう言い放つと、ジャレンリーは部屋を飛び出して行った。
「今のは、冗談……ですよ、ね……?」
無神論者に、祈ってくれとは、これ
「冗談な訳があるまい。今のこの危機的な状況で。切実な願いに決まっているだろう」
「でも、祈ると言っても、どうやって……」
「それはパレヴァに聞くといい。私は、私自身が依頼された仕事に取りかかる」
セイギは部屋の反対側に行くと、審問に使っていた椅子に座り込んだ。両手でこめかみを押さえて目を閉じ、微かに唇を動かし始める。
「祈っておられるのですか」
セイギにはそぐわない感じがして尋ねると、パレヴァは、ひそひそ声になって言った。
「理教徒は、人前では祈りませんわ。あれは〈
パレヴァに
「パレヴァ様。〈御大〉に祈ると言うと、何をどうすればいいのですか」
「どうか、お急ぎにならないで下さい。守護霊を
パレヴァと廊下を歩いていくと、階下からドタバタと人の走り回る音が聞こえてきた。怒鳴り声や泣き叫ぶ声も。ここでは非常ベルは鳴らないが、パニック寸前の
「聖リンフジカ。虹霓教の霊能力や守護霊については、どの程度ご存知ですか」
「ほとんど何も知りません」
やっぱりという風に溜息をつきながら、パレヴァは扉の一つを開けた。そこには、上に向う狭くて急な階段があった。
「私には、セイギのような講義はできませんので、ごく簡単にお話しいたします。わからない点は、後日、セイギにお聞き下さい」
そう前置きすると、階段を上がりながら、パレヴァはゆっくり説明を始めた。
「虹霓教徒には皆、
階段を登りきったところに、もう一つ扉があった。その重い扉を押し開けると、ムッとした、きな臭い外気が流れ込んできた。
「貴方様の守護霊は、圧倒的な力をもつ大神霊〈御大〉です。あの放水路をご覧下さい」
パレヴァが指し示したのは、十メートル以上幅のある川だった。蛇行せずに一直線に伸びているところを見ると、人工的なものらしい。
「昔、このあたりは、嵐が来る度に荒神川が
かなり遠くで、黒い煙が立ち昇っている。見える範囲では、火の手が上がっているのは、三ヶ所。ここには、どんな消火能力があるのだろう。消防車などありそうにないし、バケツリレーくらいでは、焼け石に水だ。
「今しばらくは、様子を見ましょう。恐れていたより、火の回りが早くはないようです」
パレヴァが、
「高峰屋からの出火と言っていましたね」
「えぇ、間違いなく、放火でしょう。〈竜殺し〉の痕跡や他の証拠を消すために。そう言えば、あの家について、これまで調べたことをお話ししていませんでしたね」
半ば上の空という感じであったが、高峰屋の疑惑について、パレヴァが話し始めた。
高峰屋は、皮問屋の
勝子は、六人いる兄弟姉妹の中で唯一の聖女だったため、店を継ぐべき嫡女として育てられたのだが、年頃になって、虹王領の武家から是非にと望まれて、嫁入りすることになった。嫁ぎ先は、川向こうにある北上領の城主で虹霓教徒。しかし、時は戦国。お定まりの家督争いと下克上の騒動から、一年もたたないうちに殺されてしまった。その時、妊娠していた勝子は、新河岸に逃げ戻って秘かに出産。生まれたのは男獅子で、本来であれば父親の正統な跡継ぎである。しかし、現実は暗殺されかねない立場なので、勝子は息子を連れて、幼馴染みの男と再婚した。その相手が、塩問屋、潮屋の当主である。その後、北上城では再び政変があり、新城主は、勝子の幼い息子を養子にとった。それには、高峰屋からかなりの賄賂が動いたと思われる。だが、その頃、高峰屋は、資金繰りに行き詰まって、潰れかけているという噂だった。では、そんな大金をどうやって
「つまり、〈竜殺し〉の密売をしていたと?」
「証拠はありません。先程、証言を伺うまでは、疑いを持っていただけなのです。恐らく、あの後、ジャレンリーが捜査を指示したのだと思いますが、一歩遅かったようですね」
「では、聖女狩りとは、全く何の関係もなかったのですか」
「いえ、そちらも、恐らく、高峰屋、もしくは潮屋の勝子が、情報を流していたものと思われます。どの家に何歳の聖女様がいるか。いつ、どのような用で外出するか。石店であればこそ、知りえる情報が多いのです。
「それは、勿論、確かにそうですが……。だとすれば、えーと、つまり、今回の転覆事故に関しては、あくまでも事故だったと?」
「その点については、まだわかりません。ただ、不自然なことが、いくつかあります」
あの日、北上領では、勝子の息子の守役の伯父の葬儀があった。それに参列するために、高峰屋から、勝子とその兄が出向くのはわかる。だが、なぜ、幼い友子まで連れていったのか。しかも、子守女中と用心棒の二人しかつけずに。北上城では、いくらでも武士の護衛をつけられたはずなのだ。更に、事故の際、船頭は、勝子一人を助けあげた。同じ聖女だとしても、小さい子供の方を助けに動くのが、救出時の暗黙の了解であるのに。そして、舟がひっくり返る直前、叫び声をあげたのが、友子ただ一人だという事実。
「自作自演の誘拐劇だったということですか」
「それも、まだ推測しているだけです。でも、姪の友子を殺すわけがありませんし、襲撃犯も全て亡くなったことを考え合わせると、計算違いの事故になったのではないかと思います。渡し舟が転覆する時、霧が立ち込めていたと言われましたでしょう? それは、間違いなく〈御大〉の霊力です。結界内に邪気が溜まると、霧を出して散らされるものですから」
パレヴァが、事もなげに超常現象について語っていた時、下の方から叫び声がした。
「パレヴァ様!」
どこかで聞いた声だと思って下を覗いたら、鐘付番の夜叉が、必死に両手を振っている。
「どうしたの、セシム?」
「三毛様が、御奉仕に行くと言って、あちらの方に走って行かれたんです!」
セシムが指さしたのは、火の手の上がっている方向だった。
(何それ。悠ちゃんが、火事の現場に向ったっていうの? 冗談じゃないわ!)
倫子はぞっとして、思わず怒鳴りつけていた。
「どうして、止めなかったんだ!」
「と、止めようとしたんですよ。でも、あっという間に、すっ飛んで行かれちまって」
ぐだぐだ弁解を聞いている場合ではない。
(悠ちゃんを探し出して、守らなくちゃ。今度こそ、死なせたりしないから!)
頭に血が上った倫子は、よく考えもせず、無謀にも屋上から飛び降りていた。セシムの立っている地面の脇めざして。着地の瞬間、ズッシンと物凄い地響きがしたが、タムシラキの頑丈な両足は、その衝撃を踏ん張って持ちこたえた。
「どこへ行くと言っていた?」
礼儀も配慮も投げ捨てて、セシムの襟首を締め上げんばかりに、倫子は問いつめた。
「な、何も言われませんでした。でも、た、多分、に、二丁目の施療所あたりかと……」
「わかった。もう、いい」
セシムを当てにしても無駄だ。自力で見つけるしかない。
倫子は、セシムを解放すると、悠が向ったと
(ううん、何としても、見つける。絶対に、見つけてみせるわ!)
院の広い裏庭から道路に出ると、避難民でごった返していた。大荷物を抱えた者。大袋を満載にのせたリヤカーを
吐き気をこらえながら、どのくらい進んだだろう。
『兄ちゃん!』
突然、アンヤンの声がした――気がした。
薬草室の時と同じように、何処からともなく現れて、手をひいて行ってくれるような錯覚に陥る。立ち止まって、周りの顔を眺め渡したが、あの愛嬌のある顔は見つからない。背が低く華奢だから、埋もれてしまっているのか。
『兄ちゃん!』
空耳かと思いかけた矢先、もう一度、聞こえた。今度ははっきりと。だが、肉声ではない。臭いだ。アンヤンの体臭がして、呼ばれているような気がするのだ。
倫子は、鼻を頼りに道端に寄って、店と店の間にある狭い路地の中へ、分け入って行った。そこは、細い水路の上に石板を被せた水道になっていて、本来、人が歩く道ではないようだった。タムシラキの巨体では、真っ直ぐに歩くことはできず、蟹の横ばい状態でそろそろ進む。鰻の寝床のように、やたらと奥に細長い建物だったが、やっと、店の裏手の庭に出ると、奥にポツンと土蔵のようなものがあった。小さな高窓には格子がはまり、観音扉を外から大きな角材で押さえて、
倫子はあたりに人気がないことを確かめてから、高窓に近づいた。背伸びをすると、大小幾つか人影が見える。薄暗くてぼんやりとした形だけだが、体臭からすると間違いない。アンヤンは、ここにいる。倫子は中に向って囁いた。
「アンヤン?」
身じろぎする音がした。が、答えはない。
「そこにいるんだろ、アンヤン」
一拍おいて、今度はアンヤンの声がした。
「に、兄ちゃん?」
信じられないという感じの泣きそうな声で。
「あぁ、私だ。どうした? こんな所で。誰かに閉じ込められているのか」
「そうだよ。見れば、わかるだろ。ハバハバ、出してくれよ」
「わかった。ちょっと、待ってろ」
倫子は、入口の方に回りこみ、観音扉の真ん中にある角材を抜いて、脇に置いた。それから、重い扉を開けると、アンヤンが飛びついてきた。倫子は震える身体を抱きしめてやった。強がってはいても、相当怯えているようだ。
「手を怪我したのか。でも、火の手がそこまで来てるんだ。何とか頑張って走れるな」
「うん。けど、おじ上が……」
「おじ上? 他にも誰かいるのか」
「母ちゃんと、弟のレンヤン」
「とにかく連れ出そう。ぐすぐすしている暇はないぞ」
そう言って、アンヤンの叔父を抱えあげようとしたのだが、
「アンヤン、残念だが、おじさんはもう……」
アンヤンも、わかってはいたらしく、唇をかみ締めてうなだれた。可哀想に思ったが、ゆっくり泣かせてやる余裕はない。
「しっかりするんだ、アンヤン。さぁ、早く! お母さんと弟を守って連れて行け」
「兄ちゃんは?」
「私は、ちょっと、人を探しているんだ」
「うしお屋の勝子さま?」
予期せぬ名前が出されて、倫子はギョッとした。何故、アンヤンがその名前を口にするのか。まさか、一件にかかわっているとか。
倫子の疑いの眼差しに傷ついたのか、アンヤンが肩を怒らせてぶんぶん首をふる。
「ちがう! おいら、兄ちゃんを売ったわけじゃないよ。ぜったい、そんなことしてない。ただ、おじ上が、死んだ父上のかたきを討つのに、手を貸せって言うからさ。知ってることを話したり、お使いに行ったりしただけで。勝子さまもおじ上のお仲間だった。けど、やみぐみの怖い人たちと言いあらそいになって、こんなことに……」
「勝子様が、ここにいるのか?」
「さっきまでは、ここにいたんだけど、どっかに連れてかれたみたいだ。むこうの
「アンヤン、ジャレンリー様の仕事部屋が、どこにあるか知ってるか」
「知ってるよ。四寮四室は有名だもん」
「よし。じゃ、そこへ三人で行って、知ってることを全部話せ。もし、ジャレンリー様に取り次いで貰えなかったら、こう言うんだ。リンフジカに言われて来ましたって」
「――うん。兄ちゃん、聖リンフジカの〈再来者〉だって聞いたけど、ホント?」
答えに
「きっと、ホントだね。おいら、兄ちゃんに祈ったんだ。助けてって。ウソみたいだけど、ちゃんと聞こえて来てくれたんだもん」
仕方がない。そういうことにしておこうと、倫子は苦笑した。
「まぁ、良かったよ。これで、ツケにしてもらっていた分、いくらか返せたかな」
「チッチッ。おいらは、太っ腹だからさ。大マケにマケて、チャラにしてやるよ」
多少元気を取り戻したアンヤンは、呆然と弟を抱く母親の手を引っ張って、足早に逃げて行った。その後姿を見送ってから、倫子は母屋に向い、建物の中を
(それに、別に勝子様を探してるわけじゃないものね。大事なのは、悠ちゃんよ。思わぬ道草を食っちゃったけど、早く悠ちゃんを見つけなくちゃ)
店の表戸を蹴破って、先程の大通りに出た途端、火の粉を伴った凄まじい熱風
が、吹き付けてきた。見上げると、暗みかけた空が真っ赤に染まっている。周囲には、もう人影がない。怪我人が置き去りにされていることもなく、火消しも撤退した後のようだ。倫子も、来た道を引き返すべく、鼻と口を塞いで走り出した。背中を焼こうと、炎が迫ってくる。まさしく、デッドヒートだ。必死で走っていたため、前方の十字路で人だかりがしているのに気づいたのは、目前になってからだった。
「やめろ! 今更、抵抗しても無駄だ!」
テノール歌手のように迫力ある低音が響く。同時に、見慣れた長身の赤毛が目に入った。そして、その前方には、更に見覚えのある顔がある。茶屋で凄んできた夜叉の二人組と勝子だった。問題の勝子は、首筋に短剣を突きつけられて、何故か人質状態である。その三人を大きく取り囲んでいるのは、
そして、なんと悠までいる。小柄で人陰になっていたので、気づくのが遅れた。(そりゃ、確かに探していたわよ。いたけど、よりにもよって、こんな一触即発の現場で見つかるなんて……)
歯ぎしりした時、火の粉が飛んで、悠の頭上にある建物の屋根についた。それが、あっという間に燃え始める。
「悠! 危ない!」
倫子は絶叫して、悠に向って突進した。驚いたように、悠がこちらを向く。頭上に迫る火の雨には気づかないまま。
駄目だ。遠すぎる。とても間に合わない。
(お願い、誰か助けて!)
倫子の必死の願いと重なるように、ジャレンリーの言葉が蘇る。
『とにかく祈ってくれ』
今こそまさしく、祈るべき時だ。
だが、どうやって?
(そうよ、守護霊には霊名で呼びかけるのよ)
何故か、答えがわかった。続いて、霊名と思われる言葉が、どこからともなく自然と湧き出してくる。その長々しい
「エレチャルティガ・ナポリィスリェ・ヴァキニーザフル! 願わくば、水を届け給え!」
その一瞬、全ての音が消えた。
火の粉すら静止した。時間が止まったようだった。
そして、次の一瞬、地の底から、ゴゴゴゴ―ッとダムの決壊したような音が鳴り響く。
十字路の中央、丁度、勝子の足元の敷石が、メリッと音をたてた。
道路が陥没し、次いで、火山の噴火の如き勢いで、大量の水が吹き上げられる。 その水圧で、勝子と夜叉一人が、空高く投げ出された。もう一人の夜叉も、衝撃ではるか後ろの壁に叩きつけられる。
震度5くらいの大揺れが生じ、ほとんどの者が倒れた。悠も倒れ伏し、その上に屋根の一部が落ちようとしている。倫子はホームスライディングをかけ、悠の上に
ただ一つの願いを。呪文のように。
(どうか、この子だけは助けて。私から、また奪わないで!)
そのまま意識を失ってしまったのだろう。次に気がついた時、見えたのは天井だった。そして、倫子を揺り起こしているのは、悠だった。
その無事な姿を見て、倫子は、腹の底、魂の芯から、安堵を感じた。
「――起こして、ごめんなさい。ちょっと、急ぐものだから。あの……気分はどう?」
「最高にいいよ。君こそ、怪我はないのか」
「私は大丈夫。あなたにかばってもらったから。でも、その……、起きられるようなら、一緒に来てくれる? クレオジが呼んでるの」
寝床から身をおこすと、そこは板張りの小部屋だった。扉の向こう、隣の部屋には、
悠の力を借りて、何とか立ち上がった。足元はまだふらついているが、頭はだいぶ冴えてきた。クレオジ院長が、沈痛な表情をしているのが、悪い
そして、跪いた院長の前で、横たわっている怪我人の顔を見た瞬間、頭からドッと血の気がひいた。
「アンヤン! どうした、一体どこを痛めたんだ?」
「痛めたとこ? きっと全部なんじゃん。アッチャもコッチャも、すげー痛いや。兄ちゃんは、平気なの?」
アンヤンは日頃赤ら顔なのに、今は紙のように白い。声もかすれ囁くようで、聞き取りにくい。全身に包帯が巻かれて、相当な重症患者のようだ。
「あぁ。私は、ちょい痛いだけだ」
「へぇ。獬豸っていいよなぁ。でかくって、強くってさ。おいらも、獬豸に生まれて来たかったな」
アンヤンは激しく咳き込み、大量の血を吐いた。そして、手についた血を見て呟いた。
「――おいらさ、天界には、行けないよね」
「心配しなくていい。もし、天界に行けなくとも、『あの世』には行ける。一から新しく生き直せるんだ」
「また、『この世』に、戻って来られる?」
「ああ、いつか、きっと」
「なら、そん時は、兄ちゃんの子になりたいな」
「何だ、クルクルのとろい親でいいのか」
「いいよ。だって、兄ちゃんが、父ちゃんになったら、ヤサヤサしてくれそうだもん」
「そうか。じゃあ、おいで。待ってるよ」
「――バイバイ、兄ちゃん。あのさ……」
「……ん?」
「おいら、六つになったんだ」
それが、最後の言葉になった。
アンヤンの目を閉じてあげながら、倫子の目から涙が湧き出した。
(私に
ジャレンリーが教えてくれたことが、まざまざと思い起こされる。
『自分から年齢を告げれば、忠誠とか愛情の証となる。友情という場合もあるが、何れにしても、唯一無二といえる信頼があってのこと。非常に
信頼してくれて嬉しいとは思えない。今は、とても。
信頼を裏切ってしまったような気がしている。取り返しがつかないほどに。
あの時、倫子は、悠のことしか考えなかった。悠一人しかいないかのように。
あそこには、アンヤンと家族がいた。ジャレンリーもいた。勝子や他の人達も。
見えていたのに、見ようとしなかった。見殺しにしたようなものだ。
いや、もっと悪いのかもしれない。
アンヤンは、倫子のせいで、死んだのかもしれない。
倫子が祈らなければ、助かっていたのかもしれない。
突然、水が噴き出してこなければ、火事から逃げられたのかもしれない。
パレヴァの
『火事で失いかけている命と、霊力で失いかねない命。どちらの方が被害が大きいか、前もって知ることはできません。ある意味、祈りは賭けなのです』
倫子は賭けに勝った。ただひとつの願いはかなえられたのだから。
アンヤンの命を犠牲にして。他のみんなを度外視して。
更に恐ろしいのは、自分が後悔していないことだ。
同じ状況になれば、倫子は悠に手を差し伸べるだろう。何度でも。
他の人がどうなってもいいとは思わない。助けられるならば助けたいと思う。
それでも。一番大事なのは悠だけだ。
こんな自分本位な人間、信頼に値するわけがないのに……。
(ごめんね、アンヤン。ほんとに、ごめん)
この涙は罪悪感だ。アンヤンを喪った悲しみよりも、死に
震えが酷くなって止まらない。
固く握り締めた手の甲が、上からそっと優しく包み込まれた。涙でぼやけた視界でも、長い爪をした細い五本指の形はわかる。次いで、腕に寄りかかってくる頭の感触。
とても甘いが重い。そして、何より暖かかった。
倫子は痺れた指を開いて、悠の肩を抱き寄せた。念願通りに。
腕の中で、くぐもった声が聞こえた。心の闇を払ってくれる一言が。
「――私を助けてくれて、ありがとう」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【 解説/地理と身分の基礎知識 】
1. 虹王国は、十七の
虹王家は、第一州にして最大の本州が直轄領で、これを『虹王領』とも呼ぶ。
2. 第二州島を領地としているのが、女系の予知力者を輩出する神宮家である。
虹王一世の王妃が神宮一世であったことから、後宮は神宮家が管理している。
3. 第三州から第十六州の各島を領地としているのが、上級貴族である。
女系の七家と男系の七家があり、領主の子や孫は、虹王都に住んで国政を担う。
4. 第十七州の
虹王国は建国以来鎖国しており、外国船が入港できるのは宝島だけである。
5. 王族三家に、文官や武官、代官として直接仕えているのが、中級貴族である。
中級貴族には、俸給職が多いが、未開地を開拓するために領主となる者もいる。
6. 上級貴族の家に仕えて、その州島に
下級貴族は、能力があれば、王族に取り立てられて、中級貴族にもなれる。
7. 中級貴族や下級貴族の下で、平民の取りまとめをする実力者を豪族と呼ぶ。
豪族の多くは、竜眼族の血をひく混血だが、部族長的な立場の異種族もいる。
8. 魔物狩りが専門の士族の
武家として認められるには、当主が男獅子で、貴族の
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