第15話 樹魂リンフジカの霊廟
女性、及び女性に準じる者は、右手を上方に差し伸べて、お辞儀をする。
男性、及び男性に準じる者は、左手を上方に差し伸べて、お辞儀をする。
両性、及び両性に準じる者は、両手を上方に差し伸べて、お辞儀をする。
中性、及び神通力を有する者は、両手で目を隠すよう交差して、お辞儀をする。
未成年者、及び上記条件が不明な者は、両手を上方に差し伸べて、お辞儀をする。
※指は揃えて伸ばし、相手に指の本数がわかるように、手の甲を見せること。
――作法書、正式礼――
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何が、どうして、こうなったのか。まるで訳がわからない。タムシラキの記憶をさらってみても、虹霓教樹宗に関する知識など皆無に等しいので、理解できないのは同じだった。いや、彼も一つだけは知っていた。樹宗とは、先祖崇拝の宗派だということを。
人が死んだら魂は霊界へと昇る。そして、何れは、この世界へ、自らの子孫として生まれ戻ってくるという
確かに、あのクリスマスツリーは目立ってよく見えた。それは認める。しかし、自分が聖リンフジカの生まれ代わりだとは、全くもって思えない。倫子はここで生まれたわけではなく、タムシラキの身体に入り込んだ異世界人なのだ。そして、そのタムシラキも、新河岸に来るのは今回が始めてだった。リンフジカの子孫という可能性はあるにしろ、絶対に倫子の子孫ではない。
第一、倫子は、霊界にいた訳ではないし、悠の所へ行きたいと願っていただけである。御霊樹は、単に、倫子の望みを聞いて、道を指し示してくれたようだった。逆に、『あの世』から、呼ばれてきたという気はしない。とはいうものの、パレヴァが、倫子を正式にリンフジカと命名した時、
その悠だが、パレヴァが登場した後、御奉仕の葉っぱ拾いに戻って行ってしまった。名前も住んでいる所も聞けず、さよならの一言も言えないうちに。だが、倫子は焦らなかった。御霊樹リンフジカの担当だと言っていた以上、ここには頻繁に来るのだろうし、御先祖リンフジカには、興味もかき立てられるだろう。再会は必ずできる。もっと親しい関係になれる機会も訪れるに違いない。実の母子のようにとまではいかないとしても。
それより、なにより、当面の問題は、明朝に迫った二回目の審問だった。これになんとか対応しなくてはならない。聖リンフジカと認定されたからといって、審問が免除されるわけではなかったのだ。考えてみれば、当然の話で、たとえ本当に偉人の生まれ変わりであろうと、犯罪に手を染めない保障にはなり得ない。
ただ、パレヴァに限って言えば、もはや倫子のことを疑っていないようだった。勝手に部屋を出て、一人で山に登ってきたことも、不問にされたし、悠と出会った経緯や、二人きりで話をした内容すら聞かれなかった。
「御霊樹から、記憶を戻されましたか?」
パレヴァが尋ねたのは、このズバリ一言だけだった。混乱していた倫子は、上手い説明のしようもなく、ただ頷いたのだが、さもありなんといった風に受け入れられた。
「お話は、明朝伺うことに致しましょう。霊界を
てっきり元の病室に戻されるのかと思ったのに、パレヴァが連れて行ったのは、山の中腹にある洞穴であった。自然のものではないようで、
「聖リンフジカのお部屋です。と申しても、死後に子孫が作ったものでして、実際に使われていたわけではありませんが」
パレヴァが、ベッドの上から布を取りながら説明する。掃除が行き届いているらしく、塵ひとつなく、埃もたたなかった。
「なぜ、死後に、わざわざ作るのですか?」
倫子は、机の引き出しを開けてみた。重そうな
「樹宗では、〈樹魂〉が亡くなって七年目に、
「宗教的な部屋なんですね。私などが使わせていただいてもよろしいのでしょうか。私は、その、虹霓教徒というわけでは……」
ここの所有者が誰だか知らないが、後で
「私が責任を負いますわ。でも、この部屋にいると落ち着かないとか、気分が優れないとか……何か、そうした不安を感じまして?」
「いえ、そういったことは、別に」
「それでしたら、今晩だけでも、そちらのベッドでお休み下さいませ。夕食は、お運びいたしますし、他に必要なものがありましたら、何なりと御用意させていただきますので」
この一週間、閉じ込められていた狭い病室兼監獄に比べれば、ホテルのスイートばりの快適さであった。何より、室内がきちんと換気されているのが有難い。お線香かポプリか、ほのかに漂う香りも悪くない。その上、至れり尽くせりのサービスであった。ただ、相変わらず、食欲があまりなかったので、夕食を辞退すると、
(ここには、超甘党しかいないわけ? 糖尿病にかかることもないの?)
疑問に思いつつ、それ以上のもてなしを必死で回避した。疲れたので、もう休みたいのだと訴えることによって。実際にも、疲れていた。いろいろなことがあり過ぎて、くたくたに。病み上がりの身には、波乱万丈、きつ過ぎる一日であった。まだ陽も落ちきってはいなかったけれど、倫子は、ベットに横たわるや否や、眠りに落ちていた。そして、実によく熟睡できた。悪夢など一切みることなく、痛みに絶えず目が覚めることもなく。
更に、寝起きも最高だった。懐かしいコーヒーの香りで目が覚めた上、枕元に悠が座っていたのだ。夢の続きでも見ている気がする。
「おはよう、悠ちゃん」
本を読んでいた悠は、声をかけると、一瞬ぎょっとした様子だった。それから、戸惑いがちに尋ねてきた。
「ゆうちゃんって、私のこと? この前も、そう呼んでいたけど」
そう聞かれて、これが夢ではなく現実で、悠という名前は通用しないことに気づいた。
『前世のあなたの名前よ』と内心で呟いたのだが、やはり声にはならない。試しに、前世の話をしてみようとしたら、全く舌が動かないので、規制の力が作用していることが確認できた。これが、霊の力というものなのだろうか。とにかく、この場は、誤魔化してしまうしかない。
「ごめん、寝ぼけていたみたいだ。君の名前、まだ聞いてなかったね。何て言うの?」
鐘つき番のセシムが、悠を呼んでいた。確か、猫によくある愛称で、覚えやすい名前だった気がする。
「そうだ、ミケ様、だっけ」
思い出したのは良かったのだが、そこで、悠が顔を赤らめ、緊張しているのに気づいた。またしても、なにやらドジを踏んだらしい。
と思った途端、遅ればせながら、タムシラキの記憶のページが開き、倫子は慌てた。
「あぁ、しまった。虹霓教徒に、名前を聞いたらいけなかったのか。しきたりに
悠は、ホッと力を抜いて、溜息をついた。
「いいの。ちょっと、びっくりしただけ。今まで、まわりに虹霓教徒はいなかったの?」
悠が怒っていない様子なので、倫子も、ホッとした。が、聞かれたことに答えようにも、今まで住んでいた所のイメージが湧かず焦った。例の転覆事故の前、船着場で船頭と出会う前のことは、思い出せないままなのに気づく。あの後、タムシラキが、考えたこと、感じたことは、リアルに
「――いなかったのだと思う。理教徒の中で暮らしていた気がするし。でも、はっきりしないな。記憶が完全には戻ってなくて……」
倫子が、頭を抱えてしまうと、悠は、優しく励ますように言ってくれた。
「無理しないで。きっと、思い出せるようになるわ。事故のこと、聞いたけど、生きのびられたのが不思議なくらいの重症だったんですって。とにかく、まず身体の方を治さないとね。今回だって、三日も眠ったままだったのよ」
「三日も?」
唖然として、思わず叫んだが、記憶によれば、獬豸には珍しくない睡眠調節なのだった。必要とあれば、徹夜も何日かは楽にできるし、かなりの無理がきく。その代わり、心身の疲労が限界に達すると、ぶっ通しで眠り続けることになる。長いときでは、十日でも。
「正確には、三日と三分の二。もうお昼すぎだもの。そう言えば、お腹はすいてない?」
言われてみれば、すいている。スカスカに。だが、それ以上に、喉が渇いていた。当然だろう。三日も水分補給をしていないのでは。それとも、獬豸には、脱水症状などないのだろうか……? いや、やっぱり、あるようだ。
「お腹もすいたけど、先に水が欲しいな。君が飲んでいるのは、コーヒー? だったら、そっちの方がいい。一杯もらえる?」
「あなた、コーヒーが好きなの?」
今度は悠が叫んだ。勿論、倫子は大好きだった。食後に、休憩に、一日最低五杯は飲んでいたものだ。だが、タムシラキはどうなのか。獬豸の体質に合わない可能性は……?
いや、大丈夫のようだ。いい匂いと感じるものは、原則的にオーケー。但し、肉魚は消化ができず、下痢腹痛のもとなので要注意。獬豸は、菜食主義というより、草食動物のようである。
「あぁ、あまり飲む機会はなかったみたいだけど、好きだと思う。香りがいいからね」
悠は嬉しそうに笑って、立ち上がった
「わたしも、そう。この香りが大好きなの。みんなは、苦すぎる、これがおいしいなんて覚異常だ、って呆れるのだけど」
悠が壁際においたワゴンの前で、ポットからカップにコーヒーを注いでくれる。
「好みは人それぞれだよ。だけど、君と私は、
「ほんと。はい、どうぞ」
「ありがとう」
待ちかねていた倫子は、早速、一口飲んでみた。かなりぬるくなっているが、喉が渇いている時には丁度いい。味も微糖のアメリカンで、口当たりが良かった。小さいカップだったため、残りを一気に飲み干してしまい、物欲しげに、ポットを見つめる。
「まだ、入ってるかな」
悠は、プッと吹き出し、笑いながら、カップの蓋をあけてみせた。
「あと少しだけね。残りは飲んでしまって。新しいのを入れなおしてくるから。ついでに、あなたが目覚めたことを知らせてこないと。パレヴァが、待ちわびているようだし」
パレヴァと聞いて、審問を控えていたことを思い出した。冷や汗がドッと出てくる。
「うわっ、まずい! 審問が!」
三日経っているということは、すっぽかしてしまったということ。『ちょっと、寝坊しまして』と、言い訳してすむ状況ではないだろうに。
「審問なら、延期になったそうよ」
「延期に? そうか……。はぁ、助かった」
安心して緊張がとけた途端、急に空腹を覚えた。いきなり力まで抜けて、立ち
「どうしたの」
「ちょっと、力が抜けて……」
「座ったほうがいいわ。息苦しいの?」
「いや。ただ、お腹がすいただけだよ」
「まぁ、大変」
悠が慌てて、腰に巻きつけていた
「取り敢えず、これを舐めてて」
差し出されたのは、小粒の飴玉だった。前回、供された極甘水羊羹の味が蘇り、倫子はたじろいだ。が、悠のもてなしでは、受けないわけにいかない。何より、悠が心配そうに見つめている。この好意を無にして、悠を傷つける羽目になったら、一大事である。
倫子は意を決して、一粒つまみ口に入れた。
「あ、おいしい」
意外なことに、甘さ控えめ。ハーブののど飴のように、鼻の奥に爽やかな香りが広がる。
「ほんとに? 甘い物は苦手みたいだって、パレヴァが言ってたけど」
悠は、どこか疑わし気であった。社交辞令と思われたくないので、倫子は力説した。
「そんなことはないよ。甘いものは好きなんだ。ただ、この前のお菓子は、ちょっと私には甘すぎただけで。果物も、シロップをかけたりしないで、生のまま味わう方がおいしいと思う。この飴なら、いくらでも食べられそうだよ。風味も良いし、私好みだな」
「ほんとに? それじゃ、どうぞ」
今度の『ほんとに?』は、嬉し気であった。紙包みごと渡された飴玉は、残り六粒。大きさがまちまちで、形もいびつ。恐らく、素人のホームメードだろう。
「御馳走様。もしかして、これ、君の手作りなのかな」
悠は恥ずかしそうに頷くと、コーヒーの残りをカップに注いでくれた。
「お水と新しいコーヒーを持ってくるから、待っててね。食事の支度も頼んでおくわ」
そう言ってから、姿勢を改めて倫子に真っ直ぐ向き直る。そして、深く息を吸い込み、両手を斜め上にさしあげたままお辞儀をした。
「お帰りなさいませ、聖リンフジカ。わたしは、ユウリシャスレナイズミの霊名を継いだ者です。どうぞ、ユウリとお呼び下さい」
悠は身体を起こすと、今度は両手を胸の前で交差させた。バレリーナの如く優雅に。そして、もう一度お辞儀をする。
「あるいは、ユウちゃんと。お望みのままに」
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【 解説 /
1. 風伯族・・・・肩甲骨に羽毛(退化した羽)を持って生まれた人族の総称。
純血種は、
彫りが深くて美しい顔立ち。身が軽くて舞が得意。スリルを好む。
成人すると老化が遅いが、
2. 随意変性型・・好きになった相手の子供を産めるよう生殖機能を調整させる型。
妊産婦死亡率が高いため、出産死亡型と呼ばれることもある。
3 虹霓教徒・・・母親を知らず、同母姉妹もいない種族であり、属する家はない。
姓と共に守護霊は継ぐので、虹霓教徒であるが、信仰心は薄い。
4. 社会規範・・・風伯族は放浪癖があり、部族を作って定住している郷はない。
踊り子や旅役者、賭博師など流民が多く、規範は無きに等しい。
家を持たないので、財産があれば、自分が気に入った相手に遺す。
6. 恋愛事情・・・死に別れる危険が高いので、同族同士の恋愛は避けようとする。
本気の恋愛は一生に一度きり。それ以外は遊びと割り切り享楽的。
異種族に
8. 風伯系混血・・自ら選んで、父親にも母親にもなれるが、出産は危険である。
①
②
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