第9話 誰にも歳を聞いてはならぬ。
両性体であろうと、差別してはならない。
異教の信仰と言えど、否定してはならない。
他族の文化や伝統を、排斥してはならない。
かく、法に定め命を下すのはたやすい。
だが、今は誰も従おうとはしないだろう。
まだ、機が熟しているとは言い難い。
ここ、新河岸に、私は融和の種を
そう、混血こそ、希望の
――斎王三世 日記――
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さてはて、一体どうしよう?
倫子には、
そこで、倫子はハタと気がついた。自分が、元の世界に戻りたいとは、
癌と宣告された後もそうだった。愛息子の事故死から抜け殻のようになって、自殺を考えたこともあったというのに、乳癌と診断されてから、逆に
今度は、どのくらい時間が残されているのだろう。それに、リンが死んだ場合、倫子はどこへ行くことになるのだろう。
考え始めると、
(駄目だ、もっと前向きになろう。マイナス思考はマイナス人生だぞ。うん、お母さんのモットー通り、明るく、
倫子には一つだけ切り札があった。
倫子は、自主的にリハビリを始めた。獬豸は頑丈にできてると言われたが、確かに、物凄い治癒力だった。あれだけ酷かった痛みが、刻一刻と和らいでいく。闘病生活で何より励みになるのは、たとえ少しでも良くなっているという感覚だ。衰弱していく一方で、ベッドに寝たきりになった時を思えば、起き上がれるようになったというだけで、気分的に張りが出る。但し、ここにあるのは、スプリングの効いたベッドではなく、板張りの床に敷いた
七日目の朝、ジャレンリーが巡回に来た時、倫子は狭い部屋の中でストレッチをやっている所だった。最近は、それぞれの足音を聞き分けられるようになっていたので、寝床に戻り、『まだ重病人です』とアピールすることもできたのだが、くだらない嘘をついたあげく、ばれるような羽目になったら、
扉を開けたジャレンリーは、反射的に身構えて、右手で帯剣の
(うわぁ、
どうやら、囚人が飛びかかって来るとでも思ったらしい。リンは体格が良く、長身のジャレンリーすら見下ろしているが、それだけで攻撃態勢と誤解されるとは。いつ暴れ回り始めるか知れない危険人物だと見なされているのだろうか。
倫子は一歩下がって
ジャレンリーの方も警戒しながらも、強いて軽い口調で話しかけてくる。
「もう歩けるようになったとは。随分と早いもんだな」
「おかげ様で、かなり回復してきました」
「それで、記憶の方も回復したのか」
「いえ、残念ながら、そちらは一向に」
「思い出すことができないのか。それとも、思い出すつもりがないのか。どっちなんだ?」
「できないだけです。思い出そうと努力はしているのですが」
「そうかな。本当に思い出したいと望んでいるとしたら、そんなに落ち着き払っていられんだろう。もっと悩んだり、焦ったりするものじゃないかね。だが、おまえの態度は全くの他人事で、たいして興味なしって感じにしか見えないな。リン」
痛い所を突かれて、倫子は押し黙った。
言われてみれば、そうかも知れない。リンフジカとは何者なのか、誘拐に関わっていたのか、一応興味はあるものの、心情的に
ジャレンリーが腕を組んだ。アンヤンとは比べ物にならないほど
「どうだ、実は何も忘れてなどいなかった、と認めたらどうだ? それだけでは、別に罪にもならんぞ。新河岸は中立の立場だから、虹王領の武家や貴族の密謀には一切関わらない。どの家が、どんな理由で、お前をここに
「年を聞くことが、どうして侮辱になるのですか」
アンヤンに年を聞いたら、激怒したことを思い起こして、つい問い返してしまった。別に質問をはぐらかすつもりではなかったのだが、ジャレンリーは、倫子に答える気がないと判断したようだ。じっと
「申し訳ありませんが、本当に、私は何もわからないのです。自分の名前も年も。ここのしきたりも、ここに来る前のことも。全く何ひとつ覚えていませんし、何を聞いても実感がありません。そう、確かに、全て他人事としか
ゆっくりと穏やかに話す。しっかりと目を見つめる。相手の情に訴えながら、自分は感情的にならない。営業の鉄則だが、倫子は、特に、説得力のある話術が得意だと評されていた。本職の捜査官相手に通用するとは思えなかったが、少なくとも
何故か、今度は値踏みするような目つきに変わっていたが。
「どうやら、俺は見当違いをしていたようだな。その喋り方からすると、おまえは、豪族の
ジャレンリーは、赤毛をかきむしりながら独り言のように呟いた。それから、
「部屋の外に出てみるか」
「え、よろしいんですか」
「怪我もだいぶ良くなったようだしな。それに、いつまでも赤子のままではどうにもなるまい。見聞を広げる
「仰るとおりですが、その前に、一つお願いが……」
「なんだ?」
「ジャレンリー様は、
ジャレンリーは、文字通り赤毛を逆立てて、
「――ったく、なかなかやるじゃないか。おまえは、狙った獲物は絶対逃がさない
部屋を出るかわりに腰を落ち着けて、ジャレンリーは説明してくれた。倫子はなるべく口を挟まない様、聞き役に徹していたが、それでも延々二時間はかかっただろう。その話を簡単にまとめればこうだ。
何故、
新河岸が、混血の寄り合い所帯だからである。
混血の場合、必ず猩々族の血が混じっている。どの種族の血を、どの位の比率で引いているかによって、成長速度が違い、推定寿命も変わってくる。個体差が大きいので平均などは取れないのだが、猩々族の血が濃いほど、早く年をとり早く死ぬ傾向にある。当然のことながら、短命であれば、生活上の全ての面でマイナス要因となり
ジャレンリーが、『侮辱しているわけでも、何でもない』と念押ししたのは、あくまで職務質問だという意味で、アンヤンが激怒したのも、初対面で頭から馬鹿にされたと思ったからなのだ。尚、捜査官に対して年齢を尋ねるなどというのは、暴言もいいところで、その場で殴り倒されていても文句が言えなかったようだ。
「自分から年齢を告げれば、逆に、忠誠とか愛情の証となる。友情という場合もあるが、何れにしても、唯一無二といえる信頼があってのこと。非常に
「そうだったのですか……。それは、本当に大変失礼なことを申し上げました。アンヤンにも、改めて謝っておかないと……」
恐縮した倫子が頭を下げると、ジャレンリーは
「ふむ。アンヤンというのが、おまえが怒らせた相手か……。ここに、そんな名前の奴がいたかな」
「水や食事を持ってきてくれる少年なんです。雑用係なのでしょうか」
倫子の説明に、ジャレンリーは、ポンポンポンと膝を打った。三回も。
「あぁ! チビガリと呼ばれてる見習いか。雑用係などと言ったら、余計に怒らせるぞ。頭の回転が速い分、
「あの子が、見習い? 薬師様のですか」
「いや、医療生といって、医師の見習いだ。薬師は、あくまで虹霓教の聖職であって、異教徒はなれない。だが、新河岸には、理教徒や九克教徒の方が多いから、新院二寮では、外科を専門とする異教徒の医師も養成しているんだ。薬草の育て方までは教えないが、薬の調合ぐらいはできるようにな。医寮生になるには資格試験があるし、優秀な連中が集まってくる。あいつは入ったばかりの下っ端だから、雑用をやらされているだけで、いつまでも給仕役に甘んじている
と言うことは、アンヤンは、医学部合格を果たした学生のような身分なのだ。確かに、知識は豊富だし、打てば響くように回答をくれる。ただ、話し方があまりにも子供っぽいので、有能なエリートというイメージにはそぐわないだけで。
「それにしても、あの
ジャレンリーは苦み走った笑いを浮かべた。表情に柔らかさが出ると、なかなかの男前に見える。二枚目の殿様役は無理でも、渋い浪人役ならば務まるくらいに。
(うーん、この顔の濃さでは、
想像しているうちに緩んできた口元を隠しながら、倫子は軽く咳払いした。
「それはもう、
「暫く?」
「えぇ、その日は、ずっと、けんもほろろで」
「ほう。たった一日で、怒りを
「いえ、何かにつけて、
「よく
炎摩族というのは、耳が尖っている種族だ。ダークエルフを狂暴にした感じで、悪評高い九克教徒らしい。何を
「アンヤン自身は、まだ決めていないようです。親御さんは理教徒だそうですが」
倫子が知っている範囲で答えると、ジャレンリーの視線がサッと戻って来た。
「親は理教徒か。ふむ。そう聞いた時、おまえは、どう感じたんだ、リン」
「え?」
「理教徒に入信させたいと思わなかったか。あるいは、自分は理教徒だという気がしなかったか――というようなことだ」
「いえ、そういったことは全く感じませんでした。ただ、理教の教義は、もっと良く知りたいと思いましたね。獬豸は、ほとんどが理教徒だということですし、それに……」
「それに、何だ?」
「前世の罪を今生で償う、という教えには、興味をひかれまして。転生とは、どういったものなのか、教えていただけませんか」
正確には、倫子のように、前世の記憶をもっている者がいないかを知りたい、ということなのだが。理教の教えは、前世があることを前提にしている。とすれば、転生してきた者が、他にもいるかもしれない。少なくとも、先例はあるのではないかと思う。
頼み方が前のめりになっていたのかも知れない。ちょっとばかり気負い過ぎていた自覚はある。引いた様子のジャレンリーに、すっぱりお断りされてしまった。
「やれやれ。九克教徒の俺には、完全な専門外だ。セイギ様に伺ってみるんだな」
「え! セイギ様、にですか」
凍りつくような瞳の主を思い出して、倫子はたじろいだ。
いくら営業で鍛えられていても、苦手なタイプはある。あの取り付く島もない、
「うむ。セイギ様は理教徒だし、比較宗教学の権威でもある。少々気難しい所がおありになるが、公平な判断をされる方だ。摂理師を紹介していただけないか、御相談してみろ。明日、二回目の審問が終わった後にでも」
そうだ。今日で療養観察期間が終わる。明日は八日目。また審問官三名の尋問を受けることになる。そこで、どんな判決が下されるのだろう。一気に、不安が戻り高まっていく。
「私は、どうなるのでしょう……?」
弱音がポロリと落ちた。
ジャレンリーが黙って立ち上がる。立場上、話せる訳がないだろうし、倫子も答えが返ってくるとは期待していなかった。
だが、扉の前まで行ってから、ジャレンリーは立ち止まり唱えた。それまでの軽い口調とは打って変わって、重々しく
「
「せっこくそう? どんな意味ですか」
「無暗に争い無駄に血を流すのではなく、
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【 造語解説/九克教の九つの教え 】
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