第5話 角を持つ現身は、誘拐犯か否か。
大斎院の管理区内において、人命に
審問班は、所轄の院より最低一名、他二名の審問官で構成するものとする。その任命にあたっては、専門知識を有し、一件に利害関係のないことを必須条件とし、虹霓教徒、理教徒、九克教徒の三名からなることを絶対条件とする。
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甘やかな良い香りがする。ラベンダー畑で高原の爽やかな風に吹かれているかのように。
(あぁ、いい香り。そうよ。天国はこうじゃなくちゃ。これなら合格。安心して天国と認められる)
が、ホッとしたのは、ほんの束の間にすぎなかった。身じろぎした
「ご気分はいかがですか」
耳元でハスキーな声に囁かれて、倫子は目を開けた。嫌々ながら現実に舞い戻ったと言うべきか。頭を回すとすぐ傍で優しそうな小さな目が見返していた。頭から厚手のショールのような布を巻きつけ、鼻と口は完全に隠されている。おかげで表情はわからないが、わずかに見える前髪が白く全体的にふっくらした体つきをしている。年配の女性かな、という印象だった。
「まだ、かなり悪そうですね」
倫子が答えないのに相手は
「お気に召しましたか。
香水の類なのだろう。それを数滴細長い布に垂らすと、倫子の鼻を覆うようにかけてくれた。ラベンダー畑が再出現する。どうやら、寝返りをうって落とすまで、この布をかけて悪臭を遮断してくれていたらしい。
自然と倫子は深呼吸をしていた。癒し系の香りがパアッーと鼻腔に充満される。その心地良さときたら、真夏のお風呂上りに生ビールをググッと飲んた時に
あぁ、なんて幸せ。この一瞬があれば、明日また頑張れる、と思ったものだ。今もささくれ立った神経が安らぎ和らいでいくのを感じる。
「私は、タユカイナ郷の出身。ラカナオキ家当主の第三子で、アサヤオキと申します。こちらの新河岸、西町三丁目の美笛屋で女中奉公をしている者です」
気分が落ちついたのを
長々しくも異世界風固有名詞の羅列。到底一度では覚えられそうにないが、ともかく、名乗りをあげられたということは初対面なのだろう。こういう場合、何と挨拶を返すべきなのか。『初めまして。私は斎藤倫子です』では済まされないのは間違いない。この角のある身体の持ち主には、別の名前がつけられていたはずだ。
「薬師様のお話では、頭を怪我されてかなり混乱している御様子だとか。出身地やお名前は覚えていらっしゃいますか」
倫子は返答につまった。本名を含めて全てを打ち明けてしまおうか、とも思ったが、やはり危険の方が高すぎる気がして、
倫子は、もう一度深く息を吸い込んでから口を開いた。
「何も覚えていないのです」
まるっきりの嘘ではない。この世界に関する知識は、ゼロなのだから。だが、隠しごとがあることは見破られてしまったのだろう。何しろ返答するまで時間がかかり過ぎている。相手は黙ってしまった。非常に疑わしげに。
「えっと、アサナオキ……さん、でしたっけ? ここは、何処ですか」
更には、『私は誰ですか』と聞きたい所だ。あまりにも陳腐だが、切実に知りたい情報トップ3に入るのだから仕方ない。残りの一つは迷うところだけれど、やっぱり、『ここの悪臭、どうにかなりませんか』が有力候補となるだろう。
「アサヤオキ、です。敬称は不要ですよ。私は商家に奉公している経産婦ですから」
きっぱりとした口調で訂正が入った。敬称は不要と言うわりに、教壇に立つ先生の『よく憶えておきなさい。ここはテストに出ますよ』的な態度である。倫子としては受験生のように、ただひたすら拝聴するしかない。
アサヤオキは背後を伺うようにちょっと振り返り、それから倫子の耳元に口を寄せて囁いた。
「あまり時間がないようなので、手短に御説明しておきます。ここは、斎王領の救護室です。より正確なところを申し上げるならば、新河岸の大通り、東町二丁目の新院二寮附属の施療所の中におります。あなた様は、荒神川の上流で乗っていた渡し舟が転覆して溺れ、この近くの岸辺に流されてきたと考えられています。あちこち怪我をされて、恐らく頭も打っているので、記憶が混乱しているのだろう、しばらく安静にして様子を見ようというのが、薬師様のお
誘拐? ぎょっとして倫子は叫びそうになったが、それを
「最初は船同士の衝突事故かと思われていたのですが、渡し舟の方が襲撃されたという証言があったそうなのです。濃い霧も出ていたそうですし、確かなことはまだわかりませんけれど。ただ、行方不明の方が何名もおられますし、その中のお一人が
真剣かつ親身にアドバイスしてくれている、という感じがした。誘拐事件に巻き込まれて重要参考人と
だからと言って、何をどう注意をすればいいのかが、まるでわからない。お忘れなく、と釘をさされた所で、元から知らないことばかり。聖女というのは、どこぞの聖職者なんだろうと思うが、その他は想像もつかない。なになに領だの、なんじゃら宗だの、なんたら法だのと言われても、鳩が豆鉄砲を食らったようなもの。
どうやら、アサヤオキは倫子が記憶喪失を装って、身元を隠そうとしていると思い込んでいるみたいだが、実際に、倫子はこの身体の元の所有者が犯人なのかどうかすら、全く覚えていないときてる。
「それで、その女の子は、まだ見つかっていないのですか」
倫子が尋ねると、アサヤオキはぎょっとしたように目を
聞きたい事は色々あれど、取り敢えず一番気になっていることが口をついて出たのだが、またしても相手を驚かせてしまったようだ。
「石店の聖女様だと申し上げましたでしょう。女の子などと気安げにおっしゃられては、あまりにも無作法です。お言葉遣いには気をつけていただかなければ。ここに住まう獬豸全体に対する信用に関わって参ります」
「すみません。でも、何とお呼びすれば良いのか、本当にわからないのです。そもそも、そのイシダナとは、何なのですか」
責められて逆ギレした訳ではないが、いつまでも
「元々は、放水路沿いに立ち並ぶ石造りの建物のことだ。そこに店を構えているのは、
説明してくれたのはアサヤオキではなかった。新たな声の主は明らかに男性だ。テノール歌手のように腹の底から朗々と響いてくる美声の持ち主である。
無理して首を傾けると、視界に男の姿が入ってきた。院長やサーリャンとは違って、バスケット選手タイプのバネのききそうな長身。軍服のようなパリッとした
「おまえは奉仕にきてくれた獬豸だな。御苦労。呼ぶまで下がっていてくれ」
赤毛氏はアサヤオキにそっけなく命じると、一歩脇に寄って後ろの人物を通した。
次に現れたのも別の人種で、この世にはありえない
「私を知っているか」
意外な最初の質問に、倫子は声の主をまじまじと見つめた。切れ長の目が瞬きもせず見返してくる。知り合いだったにしろ、倫子の記憶には全く残っていない。
「いえ、すみません。何も覚えてなくて。お会いしたことがあるのですか」
「余計な事は言わないように。わからなければ、わからないと答えるだけで結構」
突き放すような冷たい口調に、氷水を浴びせられたような気がして、倫子は思わず身を
「どうぞお
脇から
だが、意外にも尋問の口火を切ったのは、一番優しげなこの人だった。
「これから、いくつか質問しますが、そのまま横になっていてかまいません。目を閉じて考えに集中すること。できるだけ思い出そうと努めるように。よろしいですね」
倫子は頷いて指示通り目を閉じた。
「始めて下さい、ジャレンリー」
テノールで質問が開始された。赤毛氏はジャレンリーという名前らしい。
「名前は?」
「出身は?」
「理教徒か?」
「住まいは何処だ?」
「どんな仕事をしている?」
「主人は誰だ?」
「結婚はしてるのか?」
「親か兄弟はいるのか?」
「所持金はいくら持ってた?」
「入寮札はどこで買った?」
「渡し舟には何人乗っていた?」
「船頭とは、どんな話をした?」
「新河岸に知り合いはいるのか?」
「どこへ向うつもりだった?」
「泊まる当てはあったのか」
「こちらで売るものを何か持っていたか?」
「歳はいくつだ?」
質問は
「本日はここまで。本院二寮は、七日間の療養観察期間を認めます。セイギ?」
「学院二寮、同意する」
「ジャレンリー?」
「新院四寮、お引き受けいたします」
「それでは、八日後に、二回目の審問を行います」
パレヴァが宣言すると、ジャレンリーが軽く咳払いをした。
「失礼ですが、パレヴァ様、仮の名前をつけてやる必要があるかと思いますが」
「確かに呼び名がないと不便でしょうね。そう……、リンフジカ、ではいかが?」「何だと? 本気か、パレヴァ」
パレヴァの提案に、セイギが鋭く問い
「元々、獬豸の名前でしょう。別に命名式を執り行うわけではありませんし。あくまで仮の呼び名ですもの。反対されますかしら」
ムッとした様子でパレヴァが返すと、セイギは改めて倫子を見つめた。今度は珍獣を観察するかの如く、舐め尽くすような視線で。
「御異存ありますか、セイギ様」
ジャレンリーに再度問われると、セイギは左手で両目を覆ってから掌を返して見せた。
「いや、
「そうですか。それでは、施療所の名簿には、リンフジカと記載させていただきます」
リンフジカ――日本人の名前ではないにもかかわらず、斎藤倫子に近い語感で、しっくりくる。
パレヴァはぱらんと竪琴を鳴らすと、謡うような節回しで謎めいた挨拶をした。
「では、改めて。新河岸へようこそ、リンフジカ。それとも、お帰りなさいというべきかしら……?」
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【 解説/大斎院の基礎知識 】
1. 大斎院は、斎王領の行政府であり、斎王領内の隣接する四地区にそれぞれ院がある。通称として、一院を本院、二院を学院、三院を典院、四院を新院と呼ぶ。
2. 各院の下部組織は同じ編制で、一寮は総務と財務。二寮が外務と教務。三寮は商 務と法務。四寮が軍務と警務にあたる。
3. 二寮の教務は、院ごとに専門分野が違う。本院は霊能力者の育成。学院は神通力 者の訓練。典院は文官と武官の教育。新院は薬師と医師の養成である。
4. 各寮には、数十個の室があり、室長の下には、更にいくつかの班がある。
※新院四寮四室(通称、捜査室)は六班に分かれ、四十二名の捜査官がいる。
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