第3話 ホモサピエンスから獬豸族への転身


   獬豸かいちは、なぜだか、女が多い。

   角のあるのは、男と子供。

   生まれは両性りょうせい、長じて単性たんせい

   子供を産むと、変性へんせいしない。

   みんなでかくて、銀髪、銀目。

   指は五本で、臭覚強い。

   真面目で温和な、理教徒だけど、

   怒ると怖い、怪力魔人。

         

                   ――学院、覚え歌――


  

――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 倫子は天国に辿り着くはずであった。父のお迎えを受け、最愛の息子のもとへと。

ところが、予定は未定の想定外が生じたらしい。


 最初に復活したのは臭覚だった。それも強烈に。

 薬と糞尿の入り混じった病室特有の臭い。吐き気とともに絶望感がこみ上げて来る。結局まだこの世の地獄から逃れられたのではなかったのか、と。別に天上の楽の音と咲き乱れる花々まで期待していた訳ではなかったが、いくらなんでも、汲み取り式便所より悪臭のたちこめる天国はないだろうと叫びたい。 

 お次に主張を始めたのが痛覚ときた。

 額がやたらとうずいてる。力任せに瘡蓋かさぶたかれたように、ヒリついて滅法めっぽう熱い。こと痛みに関しては知り抜いているつもりだったが、眼窩がんかから鼻腔びくうにかけてジクジク痺れてみる、こんな痛みはお初の体験である。額を中心に張り巡らされている神経が、こぞってヒステリーを起こし、つかみ合いむしり合いの大喧嘩をしているみたいだ。

 痛い所があるとさすろうとするもので自ずと手が動く。額を触ろうとして腕を上げかけ、そこで何かがおかしいと感じた。

 そう、腕が妙に軽い。指一本動かすのも大変だったはずなのに。

 更に手探りで確認すると、手首の点滴用チューブがない。酸素吸入のマスクもない。そして、問題の額に触れたところ――。

 その瞬間、凄まじい衝撃が足のつま先まで走り抜けた。熱湯をぶちまけられたのか。あるいは、感電したのかというほどの衝撃が。

 倫子は悲鳴を上げた。いや、上げたつもりだったのだが、聞こえたのは、哀しげにかすれたうめき声だけであった。

 だが、これで聴覚も刺激されたようだ。

 身体を丸めて痛みをやり過ごそうとあえいでいるうちに、周りの雑音が会話として形をなしてきた。皆目かいもく意味は摑めないながらも。


「――いやはや、獬豸の患者が回されて来たとはな。それで、筆頭薬師としても手をつけかねていると言うわけか」

「はい、一応、傷の消毒と打ち身の手当てはしましたが、獬豸にどんな薬を処方したらいいか、私にもわからないのです。本院にお問合せする許可をいただけないでしょうか」

本院あちらは異教徒の治療はしてないのだよ。獬豸に関しては、新院うちの方がまだしも情報を持っている」

「でしたら、学院の方に」

「学院は竜眼族りゅうがんぞくとその混血が専門なのだ。調べて回答をくれるにしても時間がかかる。それより、誰か獬豸を連れてくる方が手っ取り早いだろう」

「獬豸にも薬師や医師がいるんですか。産婆なら聞いたことがありますけど」

「取り敢えず素人でもいい。すぐに来てくれて、数日奉仕してくれるなら。純血種の看護は同族に任せるのが鉄則だし、獬豸には独自の種族薬しゅぞくやくの伝承があると聞く。この近くに住んでいる獬豸に心当たりはないか」

「そう……確か、中通りの東屋さんが初孫につけた乳母は、獬豸だったはずです」

「よし、足の速い者を使いに出してくれ。ここに身元不明の重症患者がいると。たとえ当人が来られなくとも、同族の伝手つてを使って適当な者を誰かよこしてくれるだろう」


 身元不明の重症患者……? これは、もしかして、自分のことなのだろうか。

 カイチ、カイチと耳慣れない単語が連呼されて訳がわからないが、倫子をはさんで右と左から声がする。

 何とか寝返りをうって瞬きを繰り返すうち、ぼんやり霞んでいた像に焦点が合ってきた。

「あ、気がついたようですよ。院長様」

 声の主に対する第一印象は、はなはだ失礼ながら、『猿から全く進化してないな』であった。より正確に言うなら、猿とチンのハーフだ。鼻の下と顎が小さくクシャっとした丸顔で、これがいまだかつてお目にかかったことがないほど毛深けぶかかった。髭やもみあげが濃いなどという次元ではない。類人猿と見まごうばかりの全身毛むくじゃらなのである。それが作務衣さむえのような服装で、ごくごく普通に喋っているとは……。

「これは、夢なんだ」

 倫子は自らを納得させるように呟いた。夢であれば、かの有名なSF映画の住人が登場しても何ら不思議ではない。

「ほう、獬豸も夢をみるのか」

 真上から別の声がして視線を動かすと、四角張って牛のような風貌の老人が覗きこんでいた。多分、『院長様』と呼ばれていたのが、この人だろう。眠そうな小さな目をしているが、知的で頼り甲斐がある感じだ。

「カイチって何ですか」

 質問に答えようがなかったので質問で返した。

 只今のキーワード、『カイチ』とは、何ぞや?

 これを理解しない限り、会話がまともに成立しそうにない。

 ところが、院長は何とも言いようのない妙な表情で黙り込んでしまった。知っていて当然という話ぶりだから、簡単に答えてくれると思ったのに。

「自分のことだろう。額に角を持って生まれるのは獬豸族。それとも、君は自分が属する種族も忘れてしまったのか」

 驚き呆れたような声を出したのは、もう一人のチンクシャ氏だった。

 どうやら、カイチは種族名らしい。だが、倫子がカイチと思われているのはどうしてだろう。額に角を持っている種族なんて聞いたこともない。

 倫子はまた額を触ろうとし、最前の激痛を思い出して、上げかけた右手をあやうく止めた。そして、視界に入った自分の右腕を見つめて、そのまま凍りついてしまった。

 この腕も毛深い。絹糸のように細くて滑らかな銀の毛が腕を薄く覆っている。その上、途轍とてつもなく筋肉質。倫子の弟は自衛隊出身の山男なので相当鍛えているが、それをはるかにしのぐ男の剛腕ごうわんだ。どう見ても病み衰えた中年女の細腕ではない。

「腕がどうかしたのかね」

 宙に上げたまま固まっている右の手首を院長に軽く摑まれ、半ば呆然としながら倫子は口走っていた。

「私は女なんですが……」

 別に、『気安く触るな!』という意味合いで言った訳ではない。

 単に、『女のはずなのに、これは何じゃあ!』と狼狽うろたえただけのこと。

 しかし、院長はセクハラ扱いされたと思ったのか、ぱっと手を放した。更に一歩後ずさり、張り詰めた声で聞きただす。

「性別確認はしたのか、サーリャン?」 

 それに答えるチンクシャ氏は、焦りまくった感じで両手を振り回した。

「大丈夫です、院長様。ちゃんと確かめました。男性体ですよ。少なくとも今は」

 何が大丈夫で、今は男性体とはどういうことか。

 無論、夢は荒唐無稽こうとうむけいなものと相場が決まっている。理路整然としているわけがない。とはいえ、これまでは、夢の中でも男になったことなど一度としてなかった。自分はあくまで自分のままだった。スペクタクル巨編から、オカルト、ラブストーリーと、多彩なジャンルの夢を見たものだが、変わったとしても年齢くらいだったはず。それが筋骨逞きんこつたくましい身体になっているとは。

(それじゃ、顔は? やだ、まさか、私の顔も、チンクシャだってわけ?) 

 倫子の狼狽は、相手方二人分の焦りや困惑より弥増いやまさった。

「鏡を貸して下さい!」

 思わず傍にいたチンクシャ氏の袖口を摑み、逃げ腰になった所を逃がすものかと更に引き寄せる。その時、相手の体臭がモワッと鼻についた。毛皮がれたような悪臭だ。恐ろしく獣臭けものくさい。梅雨時の動物園に入り込んだようなリアルな感覚。到底、夢とは思えなくなってくる。

「と、とにかく、落ち着きなさい。サーリャンから手を放して。そんなに力を入れたら、骨が折れてしまう。ほら、鏡だよ。好きなだけ見なさい。だから、すぐ手を放すんだ」 

 院長が慌てながらも、どこからか小さな手鏡を持ち出して、サーリャンを救い出した。

「すみません」

 押しつけるように渡された手鏡を、倫子は食い入る様に覗き込んだ。鏡というより曇りガラスのような表面で、当然うつりは悪くゆがんでいる。

 それでも、見返している目鼻立ちが自分の顔とまるで違うことは断言できる。  中年女ではなく、大和民族でもなく、多分、ホモサピエンスですらない。

 何しろ額のド真ん中に、角が鎮座ちんざましましているのだ。象牙色のたけのこ形で、五センチ程も突き出しているそれは、単なる額の隆起とは言えまい。さいなどとは違って非常に小さい代物ながら、正真正銘の角である。

 その角に恐る恐る触ってみると、やはり強い刺激を感じる。生爪が剥がれたら、こんな具合かも知れない。ジンジン、ビリビリと神経が剥きだし状態で張りつめている感じ。夢にも現実の痛みが浸透してくることはあるが、ここまで生々しくはない。ということは、もしかすると、これは現実で、つまりは――。

「――ここは、『あの世』……?」

 力が抜けた倫子の手から鏡がポロリと落ちる。空っぽになった掌に視線が移ると、野球のグローブのようで大きく肉厚だった。指は五本あるけれど、極端に短く揃っていて親指がない。曲げてみれば関節は一つきり。指の先全体がひづめの如き堅さで角張っている。完全に異形の身体だ。もしくは、宇宙人なのか。

「いや、君がいるのは、まだ『この世』だよ。霊界に逝きかけたのは確かだがね。渡し船が転覆した後、かなり流されたようだし、頭も打っているのだろう。とにかく、気を楽にして休んでいなさい。ここは安全だよ」

 院長のなだめるような声が次第に遠のいていく。

 安全だと請け合ってもらったところで、到底、気を楽にすることなどできはしない。だが、このとんでもない悪夢から逃避する手立てだてが、一つ残されていた。

 いや、単に怪我をしているせいだったかもしれないが。


 何れにせよ、倫子は気絶した。

 情け深くも、有難いことに。



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     【 解説/九克教の基礎知識 】



 九克教くこくきょうは、『三界さんかい六神ろくしん九克くこく』の教えが基本である。

  ※三が聖なる数という発想は、『天界てんかい人界じんかい魔界まかい』の三界から来ている。


1. 天界は、〈知略の神〉によって管理され、罪を犯したものが、〈懲罰の神〉によって、魔界へ落される。


2. 魔界では、〈試行の神〉によって淘汰とうたされ、そこで戦い生き延びたものだけが、〈闘魂の神〉によって、人界へと送られる。


3. 人界では、〈試練の神〉が人としての成長を促し、九克を成しえたものだけが、〈審判の神〉によって、死後、天界へ送られ、脱落したものは、魔界へ戻される。


  ※『試練こそ、賜物なり』・・・天界へ行くために必要な試練は、神から与えられる賜物なのだから、おくさず困難に立ち向え、という意味合いで使う。

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