第2話 院長クレオジの祝福
斎王二世、二院をたてた。
斎王三世、三院たてた。
斎王四世、四院たてた。 病人、怪我人行く、
――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
クレオジ は疲れ果てていた。
六十歳を越えた老人となっても、
「お帰りなさいませ、院長様。お呼びと伺い、
院長室に顔を出した捜査室長はまだ若く、日頃は活気に満ち
残念ながら、今日も成果の上がらない一日だったようだ。
「さぁ、入って。そちらに掛けなさい」
執務机の向かいに置かれた来客用の椅子を勧めると、クレオジは、とっておきの葡萄酒を取り出した。多少なりとも元気をつけなければ、捜査の
「こちらでは何か進展はあったかね」
二つのグラスに葡萄酒をたっぷり注ぎながら、取り敢えず、知っておかなければならないことを聞く。
「いえ。進展と呼べるようなものは全くありませんでした。今日もいくつか新しい情報はあって、
予想通りの内容に、クレオジは溜息を押し殺しながら、グラスを一つ手渡した。
「そうか。まぁ、一杯やりたまえ」
「ありがとうございます」
ジャレンリーは御礼を言って受け取ったものの、口はつけずに頭を深く下げる。
「
「おや。どうしたね。珍しく
意気消沈している部下に
「弱気になっている訳ではありませんが、事件の解決に手間取っているのは
クレオジは右手を挙げて制した。それ以上、負の
自責の念も行き過ぎれば
「やめなさい。謝罪する必要など全くない。現場の君達が全力を尽くしてくれていることは、私にはわかっている。その点は大院長様とて
当代の大院長は、苦労知らずの天然で、面倒事を周りに押し付けるきらいはあるにしろ、責任を下の者に
今回呼びつけられたのも、大斎院の下部組織である四つの院で、情報を共有し対策を取るためで、大院長から特にお叱りを受けたわけではなかった。
他の院長との間では、多少の嫌がらせや中傷合戦はあったものの、それは今に始まったことではなく、四寮四室の捜査官達への評価はそれなりに高い。だが、
「過分な御言葉ですが、残念ながら皆とは言えませんね。被害者やその親類縁者には、絶対に認めてもらえないでしょう。あそこで今も祈っている獬豸を筆頭として」
あそこと言うところで、ジャレンリーは、窓の外に暗い目を向けた。
その視線をたどると、遠目ながら、山門前に設けられた祈り堂の拝殿に、大柄な獬豸族の女性が
獬豸族の経産婦は男性や子供と違って額に角がないので、見た目では純血種か混血か区別がつきにくい。だが、あの女性については、身元がわかっていた。その祈りの内容も、また、わかりすぎるほどにわかっている。
「
クレオジは溜息をついた。今度は、押し殺す間もなく自然に
「確か、名は、アサヤオキ、でしたか。日参しているという報告は受けていましたが……
「
「――いやはや、かの聖リンフジカに
ジャレンリーは、
リンフジカというのは、百年程前に実在した獬豸族の男である。
理教徒を母に持ちながらも、幼くして斎王二世に見い出され、〈
謹厳実直にして公正無私と
その人に同族贔屓を期待するなど、確かに、物知らずとしか言いようがない。
一方で、聖リンフジカは、新開地であった
普段は厳しくて近寄り難いが、本当に困った時には手を差し伸べてくれる
そして、その死後、聖リンフジカを
実際の所、御霊樹は、虹霓教の
元来、虹霓教は、守護霊の加護が母から子へと引き継がれることから、母系の血脈を重んじており、身内と目さない余所者に対しては、冷淡かつ排他的である。
その中でも、偉大な
樹宗以外の宗派でも、
その唯一の例外が、新院が
何故例外なのかと言えば、この一帯は、聖リンフジカの守護霊、〈
そう、慣習。新河岸においては。
あるいは、常識。虹霓教徒にとっては。
同様に、教養。支配階級に限っては。
逆に言えば、それ以外の人間は知らないし、霊域以外では知る必要もない。
だから、他から来た者には、暗黙の了解というものが通用しないのだ。
「同族贔屓
クレオジが首を振りながら苦言をこぼすと、ジャレンリーが深く頷く。我が意を得たりと言わんばかりに、三回も。
三回。三を聖数とする九克教徒らしい強調の仕方だ。
「
まだ若いジャレンリーは義憤にかられているが、その手の解釈をする者は、常に一定数いる。霊能力を持たず、
「まさに、物知らずの恐れ知らず、だな。しかし、何故そこまで
クレオジの問いに、ジャレンリーは苦渋に満ちた表情で目を伏せた。
「いいえ、入領規則の説明は、各部署に徹底して行わせています。それでも、覚える気のない者に教え込むことまではできません。新河岸で生まれた者は皆、教育が行き届いているおかげで、〈御大〉に
一般に、霊域では、天候の激変や不測の事態が生じやすい。そこで結界を張っている精霊の格や属性によって、現れ方や規模は様々だが、新河岸では濃霧や水難が多発する。〈御大〉は、邪気が溜ると霊力で無造作に散らすので、罪のない者でも浄化に巻き込まれて死傷する可能性があるのだ。
故に、虹王領から新河岸に入ろうとする移住者や商人に対しては、斎王領の法を犯した時の罰則ともに、命を失う危険について警告することになっている。
その警告を無視した当の本人が自滅しようと、それは自己責任だ。しかし、その周囲にまで被害が及ぶとなれば、勝手にしろと突き放してすむ問題ではない。
ジャレンリーはグラスを机に置くと、姿勢を正してクレオジを見つめた。
「院長様。正直な所、自分も樹宗の教義に精通しているとは申せません。勉強不足とのお叱りを受ける覚悟の上で、お尋ね致します。樹宗徒でもない者が〈御大〉の霊名を唱えたら、一体どうなるのでしょう。もし、お目覚めになった場合には、何が起きると想定されるのですか。万が一にも、お怒りを買うような状況に
ジャレンリーは、かなり強い不安――いや、焦燥を感じているようだ。
最悪の場合だと、新河岸は消えるだろう。住民もろともに。神霊がお怒りで猛威を振るえば、卑小な人間になす
それがわかっていても尚、いや、わかっているからこそ、一人でも多くの者を逃がす算段を立てなければならないのが、治安を預かる四寮の責務である。ジャレンリーが追い詰められた気分になるのもわからなくはない。
だが、クレオジは、そこまで悲観的になる段階ではないと思っている。
「ふむ。君が最も
「仰る通りです」
「その危険ならば、ほとんどないと言ってよい。弱い守護霊は、霊名にも敏感に反応するが、神霊級となると、霊能力者が全身全霊を尽くして
守護霊には、
格は、霊力の強さ濃さ広がりで測られる。
そして、『
世界に発現して間もない
『我』が消えないよう、『
だから、絆を結べば、たいした力はないものの、確実に守護してくれる。
数世代に渡り子々孫々を守護している
『意』の通いやすい生物を好み、信心深い者を
守ってもらえる者と放置される者――同じ血脈の中でも扱いに差が出る。
更に数百年ほど経た
『我』が育ち切って、維持できる結界も広くなるため、異物を感知しやすい。
『意』を
その上の数千年単位で定着した
守護する範囲は、国や列島規模となり、個々の生物には基本的に無関心だ。
結界は薄く広く伸び、霊力は強くとも拡散されて、霊域とも呼べない。
では、数万年の永きに渡って、霊界より
陰と陽、水や木、火に土に金――七大神霊が守護しているのは世界そのものだ。
魔界との裂け目を
だが、そんな神霊と言えど、遥か大昔には、小霊だった時代がある。その当時に結ばれた絆は特別で、生まれ変わっても断ち切られることがない。何度霊界へ逝こうと、この世界へ
そして、〈御大〉が恩寵を与える唯一無二の〈樹魂〉が、聖リンフジカである。聖リンフジカの祈りが〈御大〉を動かし、奇跡を起こしたのは歴史的事実。だから、我々は、守護される聖人たるリンフジカに御加護を願う。
俗な言い方をするならば、〈御大〉への口利きを頼むようなもの。あるいは、恩寵のお
「つまり、
クレオジの説明でも不安が消えない様子のジャレンリーは念を押してきた。
単に納得できないのではなく、何か警戒するだけの根拠があるのかも知れない。
「そうだ。
ジャレンリーは口髭を三度
「兆候と申し上げられるかどうかについては、院長さまの御判断を仰ぎたいと思いますが、
番蜂は、御霊樹に寄生している霊的生物だ。
外敵とみなせば蜂のように刺すのだが、一旦刺されたら助かる者はほとんどいない。例外は霊能力者や樹宗徒くらいのものだ。そのため、御霊樹のある権現山は、一般人立入禁止区域に指定されている。お参りするにしても、番蜂に遭遇する危険が高すぎるため、山頂には到底近づけない。だからこそ、祈り堂は権現山の上ではなく、山門前に建てられたのだ。
番蜂の大量発生。確かに、それは
しかし、クレオジは冷静な態度を保ち、
「それは多いな。刺された者はいるのかね」
「いえ、幸いなことに死者は出ていません。ですが、刺されなくても、目撃者やその近くにいた者達が、痛みや
話しているうちに確信を持ったのか、最後の語調は強く鋭くなっている。聞いていたクレオジも寒気を覚えて、無意識に首筋を
たいていの霊障は、悪霊や怨霊に取りつかれた個人に生じる。番蜂の霊力程度で、それほど大勢に被害が出ることはないはずだ。
そう、霊力の供給元である御霊樹に異変がない限りは。
「――
クレオジの独り言に近い呟きを拾って、ジャレンリーが問い返す。
「パレヴァ様と申されますと? まさか、あのパレヴァ様ですか」
「そう、本院の
「かしこまりました」
指示を受けたジャレンリーは、一礼するや否や椅子から立ち上がった。
まだ肝心な話をしていないのに、相変わらずせっかちなことだと、クレオジに笑みが浮かぶ。やる気に満ち満ちた熱血漢の部下は、頼もしくも
「それとな、ジャレンリー」
「はい?」
クレオジは机の
「君は捜査官の試験を受ける際に、セイギ様の御推薦をいただいていたな」
「はい。
「その御縁は貴重なものだぞ。この
斎王領では、大事件や超常現象などが起きた時、大斎院が三名の専門家を選出して、臨時の審問班を結成し、捜査の全権を担うことになっている。
その斎王家勅命の審問官に任じられることは非常に名誉であるが、同時に凄まじい重圧に
渡された辞令にさっと目を通したジャレンリーが、珍しく動揺を
「なんと。本院代表がパレヴァ様で、学院代表がセイギ様――かの
古参の本院(一院)と学院(二院)は、伝統的に対立関係にある。
その中でも、霊能力者のパレヴァと神通力者のセイギは、寄ると触ると竜虎の戦いを繰り広げると言われるほどに相性が悪い。
一方で、典院(三院)と新院(四院)も、担当区域が重なっているため、手柄争いのいざこざが絶えず、
そして、審問班の定員は三名で、各院から出せる審問官は一名だけ。更には、公平性を保つため、虹霓教徒と理教徒と九克教徒の三名で、という条件がつく。最も歴史が浅く組織としても小さい新院が、代表枠を貰えることは滅多にない。
「それが、先に辞退してきたのだよ。まぁ、典院はこれまで
「焼け焦げた焼き芋を投げつけられた
ジャレンリーの当意即妙な皮肉に、クレオジは内心で感嘆しつつ苦笑した。
「まさしくそのような感じだったな。典院は本院と学院の人選を知った瞬間に手を引いたのだ。これまで審問官を務めた典院代表は、力量不足で
からかい混じりの状況説明を、頭の回転が速く自尊心も強いジャレンリーは平然と受けた。
「『試練こそ、
いや、九克教の
「パレヴァ様とセイギ様の
「ありません」
「よろしい。それでは、斎王家の名誉を損なうことなく、斎法に
「
ジャレンリーが流れるような所作で片膝をつき、作法通りに深く頭を垂れる。
立ち上がったクレオジはその前へ歩み寄り、右の掌でその頭に触れ、左の掌は空に向け掲げるようにして祈った。霊能力のない、ただの聖職者としての祝福だが。
「聖リンフジカ、
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【 解説/虹霓教の用語 】
※各地の虹霓樹の霊域ごと、祀る対象別に多数の宗派がある。
※
※霊能力者に認証された祖霊の生まれ変わりを〈
※守護霊の
※霊能力が宿る聖人は、加護を与えてくれると信仰されている。
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